第35話 永い別れ

わたしはあなたを一度も見たことはなかった

わたしはあなたをもう目にすることはない

それでも美しい方よ、愛し、救けた、そして痛みの記憶があなたをわたしのものとしてくれるの

……わたしの生涯が終わる時まで


僕はそれをこれ以上、言葉にできない。彼女はふたたび僕をその両腕に閉じ込めて、さらに唄いつづけた。樹葉に降る雨が、そして生まれたそよ風が、彼女の歌の道づれとなる。僕は夢うつつの中、穏やかな陽だまりに包まれていた。その木漏れ陽は僕に森の秘密を、花々や鳥たちのささやきを伝えた。ある時は、僕はまるで、晴れ渡る春の森を通って、幼年時代を散歩しているようだった。さくら草やアネモネ、また小さく白い星のようなものたちが敷き詰められたカーペットの上を。僕はただの草花ではなくそれらをほとんど『生きもの』だと言おう……そしてあらゆる瞬間、新たな素晴らしい花々を僕は見つけ出すのだ。またある時は暖かい夏の午後、僕はなかば夢の中、巨きなブナの樹の下にいて、傍らには古い物語の本が置かれていた。あるいは秋に、夏に僕を雨風から守ってくれた落ち葉を踏みしめて歩くうちに哀しくなり、僕はその最期の息吹を、朽ちゆく彼女らの甘い香りを受けるのだった。あるいはしんと凍りついた冬の晩、僕は暖かい暖炉への家路につきながら、網の目のような大枝と小枝をとおして、清らかな月と彼女を取り巻く白光を見上げるのだ。そしてとうとう、僕は眠りに落ちたのだろう。というのも脳裏をよぎったものをそれ以上なにも憶えておらず、僕は自身がちょうど陽の出前の、朝の澄みわたった光の中、素晴らしい立派なブナの樹の下に横たわっているのに気づいた。僕の周りを、新鮮なブナの葉が帯状に取り巻いていた。ああ、僕は妖精の国からなにひとつ持ち出すことはできなかった!! 唯一記憶……記憶だけしか。巨きなブナの枝たちの先端が僕の周りに垂れ下がっていた。僕の頭のところにその滑らかな茎の一振りが、うねる表皮にまだ開花しないつぼみのような豊かな膨らみを携えて身を起こしていた。頭上にある枝葉たちは僕が眠っていたときに歌っていた唄を、謳い続けていた。ただ今、僕の心に、それは別れの歌、暇なき惜別の歌のように響いた。僕は長い間そこに座った。行きたくなかった。でも僕の未完成の物語が先へと僕を駆り立てる。僕は為し、流離わねばならないのだった。太陽が十分に昇ると、僕は立ち上がり、できるだけ腕を伸ばしてブナの樹に両腕を回して、口づけし、さよならを言った。震えがひとつ、葉々を通り抜けた。あの夜に降った雨の最期の数滴が、僕の足元に落ちた。僕はゆっくり、歩み去る。もう一度、あの夜聞いたあの囁き、あの言葉を聴いた気がした…「わたしは彼を好きになっていいの? わたしは彼を好きになっていいの? だって彼は人間の男性で、わたしはただのブナの木なのに」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る