第32話 救助

僕は前方に跳ね起き、またさらなる狂乱に衝き上げられ疾走したが、それほど走る前に足を滑らせ、そして空しく体勢を取り戻そうとしながら、僕は巨きな木々の根本のひとつに倒れ込んだ。半ば気を失いながら僕はなおも立ち上がり、ほとんど我知らず、振り返っていた。顔からほんの3フィート以内にまで迫った手が、僕の見たすべてだった。だが僕は同時に、2本の巨きく柔らかな腕が背中から僕のからだの周りに投げかけられるのを感じた。そして、女性のもののような声が言った。「小鬼を怖れないで。彼には敢えて今あなたを傷つけるような勇気はないのだから」その声と共に、手は突然火に触れたようにパッと引っ込み、暗闇と雨の中に消えた。もつれ合う恐怖と歓喜に精根尽き果てて、僕はしばらくの間、ほとんど感覚を失ったようにそこに横たわっていた。……最初に僕が想い出すのは僕の上で響く声であり、低く響き渡り、それはふしぎに、巨樹の葉々の間を吹き渡るやさしいそよ風を僕に思い起こさせた。それは繰り返し繰り返し僕に囁いた。「わたしは彼を愛していいの? わたしは彼を愛していいの? だって彼は人間の男性で、わたしはただのブナの木なのに……」僕は自分が地面に座り込み、包みこむように腕を回してまだ僕を支えてくれている人の姿をした、人の体格より背が高く、手足もより長い女性に凭れかかっているのに気づいた。僕は頭を後ろに向けたが、からだは動かさなかった。そうすれば僕を包む腕が離れてしまうのではないかと恐かったからだ。澄んだ、どこか悲しげな瞳が僕の目と合った。僕たちはその樹の暗い影と雨靄に包まれていたため、彼女の瞳の色合いや輪郭はほとんどわからなかったが、それでも僕はその瞳に鮮烈なまでの感動を憶えた。彼女の容貌は非常に気高く、その静謐な佇まいのもたらす厳粛さに満ちていた。完全に満ち足りたさまでありながらしかし、彼女はなにかを待ち望んでいるようだった。僕は彼女の両腕から見た自身の推測が正しかったことを知った。彼女の躰の大きさは人間のそれを完全に超えていたが、巨大という程ではなかった。

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