第3話 九月第一週(問題編)

 九月第一週。

 今日も太陽は爆炎のような熱波を撒き散らしていた。

 午後の放課後の時間帯になっても、その残滓は抜けておらず、地上は熱気に包まれている。灼熱地獄じみた光景がそこにあった。

 暑い。暑すぎる。

 これはもはや、『暑い』ではなく『熱い』だ。

 暦の上では秋だというのに、その兆しすら見えない。そろそろ木枯らしのひとつは吹いてもいいんじゃあないだろうか。

 今日もホルンの音が聞こえてくる。そんなに気怠そうに奏でるくらいなら、いっそ吹かなければいいのに、と思った。

 目に見えず、しかしその存在は確かに感じられる高熱が私の体中を弄る。まるでオーブンに入れられた七面鳥のように、体内の肉や臓器まで熱がじわじわと通りつつあるような不快感を覚えた。

 いま頭をパカンと割ったら、中から完熟卵のように固まった未熟者の脳みそが出てくるんじゃないか? 

 そんな阿保な妄想をしてしまうくらいには、熱気で頭がやられていた。

 どうやら元からポンコツだった私のおつむは、更に劣化してしまったらしい。この陽気が続けば、そのうち完全な痴呆になってしまうだろう。ぞっとする話だ──いや、この場合は『むわっとする話』か?

 ……ん? 

 先週もこんな話をしたような? 

 どうだったっけ?

 一週間前の記憶すら定かではないとは、症状は思ったよりも深刻なのかもしれない。

 これは拙い。

 元からダメ人間な私がこれ以上馬鹿になったところで、大した被害は出ないだろうけど、記憶力にまで支障が出るのは問題だ。

 具体的には、私立生糸高校が木っ端みじんになってしまうくらいには、大きな問題である。

 私はこれから捧げる予定の『謎』を忘れないように気を付けながら、特別教室棟へと足を踏み入れた。


 ◆


「お疲れ様です長瀬さん。いやあ今日も暑いですねえ。関東のほうでは未だに真夏日が記録されている地域があるようですよ。暖秋極まれりです」


 そんなことを言いながら私を出迎えた一上銅華は、とても涼しげな佇まいをしていた。

 キャンバスのように白い肌には、汗が一滴も流れていない。同じ生き物とは思えなかった。


「ははは、嫌ですねえ。人のことを汗腺がない人外の化物や、機械生命のように言わないでくださいよ。私だって普通の女の子なんですから、そんなことを言われたら傷ついちゃいますよ?」


 誰もが認める才色兼備の秀才美少女であり、学校ひとつを余裕で吹き飛ばせる爆弾をたったひとりで作り上げた人物に対し、「普通の女の子」という評価が適切かどうかはさておき、一上が私の言葉に傷ついているようには思えなかった。

 きっと私がどれだけ語彙を駆使して罵倒の言葉を吐いたとしても、彼女の心に掠り傷ひとつつけることすらできないのだろう。格下の言葉が格上の心を動かすことはないのだから。

 私が話す内容で、一上銅華が真に興味を持つのは、日常の中で起きた小さな『謎』くらいである。


「ところで長瀬さん。こんな暑い中を歩いてきて、喉が渇いたことでしょうし、何か飲みますか? 麦茶ならすぐに出せますけど」


「悪いけど遠慮しておくわ」


 薬品が犇めく化学準備室で飲み物を口にできるほど、私は鈍感ではない。

 それに、茶を飲む程度の僅かな時間であっても、私は苦手な相手と爆弾が存在する部屋に一秒たりとも長く滞在したくないのだ。

 なので、話を早く切り上げるべく、私は口火を切った。


「これは私の妹の周りで、最近噂になりつつある話なんだけど──」


「へえ、長瀬さんって妹さんがおられたんですか。きっと長瀬さんに似て、可愛い子なんでしょうね」


 初っ端から話を横道に逸らそうとするな。


「ちなみに年齢はどのくらいなんですか?」


「身内の個人情報をここで明かす必要があるのかしら?」


 別に年齢くらいなら隠す必要はないのだけど、一上の言いなりになってペラペラと話すのは癪なので、ちょっとした反抗を試みる私だった。

 しかし一上は、平然とした態度のまま、


「必要に決まってるじゃあないですか。長瀬さんが今回語られる『謎』は妹さんの周囲で狭い範囲で広がっているものなんでしょう? だったら妹さんの年齢を、彼女が所属しているコミュニティの年齢層を知るのは、『謎』の解明に役立つヒントになりうるんじゃあないですかね?」


 と言った。

 それは屁理屈でしかないが、しかし屁理屈であっても理屈は理屈であり、浅識な私ではそれに対する反論を思いつくことができなかった。

 こうして傷だらけの自尊心にまたひとつ傷をつけながら、私は渋々と答えた。


「……十五。いや、先月十六になったわ」


「へえ、じゃあ今年高校生になったばかりなんですね。ひょっとして、この学校の生徒だったりします?」


 一上の問いに、私は首を横に振る。

 妹は私立生糸高校から少し離れた場所に建つ県立知尽高校の生徒だ。

 ありがたいことに私のことを慕ってくれている妹としては姉がいる高校に通いたかったらしいのだけど、私が『学校でみじめな姿を晒しているところを身内に見られなくない』という一心であの手この手の説得をした結果、現在のような結果になったのである。

 それで妹の人生に何か大きな問題が生じたのかというと、そんなことはない。入学したての頃は毎日のように「やっぱりお姉ちゃんの学校に行きたかったな」と言っていたが、一か月も経てば、そんな不満は出てこなくなった。

 住めば都ならぬ通えば母校というべきか、妹は県立校で過ごすうちに、それなりに楽しい学校生活を送れるようになったようだ。

 部活に励み、勉強に努め、友達が増え──コミュニティを形成した。

 十五から十六の年齢層で形成されたコミュニティを。

 私がこれから話すのは、その中で語られつつある『謎』である。


「知尽高校の近くに、小さな道があるんだけど──ええと、」


 ここで私は言葉に詰まった。

 続けて出す言葉を思いつかなかったから──ではない。

 何を言うべきかは明瞭だ。むしろ、これ以外にないくらいである。

 しかし、それでも──この話はあまりにも非現実的に思えた。

 先週語った大蛇の化け物が怪談とするならば、今回の話は──


「そこでは時間が飛ぶらしいの」


 SFじみていた。


 ◆


「おやおや、それは不思議ですねえ。SFサイエンスフィクションと言うには現実で起きていますし、SF少し不思議と言うには大きすぎる発見です。どこぞのギャングのボスがスタンド能力を発動したのでしょうか」


「もしもそうだとしたら、今頃世界中が大混乱になっているでしょ──時間が飛ぶのはその道の中だけよ」


 話の大まかな内容は次の通りである。

 知尽高校の裏門から少し歩いたところにある脇道に入り、進んだ先にある公園。ここをA地点とする。そこから伸びる別の道を歩くと現れる、駅前の大広場。ここをB地点とする。

 A地点とB地点──このふたつのポイントは大して離れていない。どれだけのんびり歩いたとしても、五分もかからずに着くくらいの距離だ。

 しかし実際に歩いてみて、大広場に立つ時計を見てみると、通常よりも更に五分以上長い時間がかかっているのだ。

 時間が飛んでいるのだ。

 より伝わりやすく言うと、「五分先の未来へと辿り着いている」──タイムトラベル。

 妹の友人のひとりが、そんなSFじみた現象を体験し、他にも何人か同じ体験をしたのだという。


「もちろん、この話を聞いた時、私は真っ先に思ったわ。『それって、広場の時計が壊れているだけなんじゃない?』ってね。でも、駅前なんて目立つところにある時計が故障していたら、もっと多くの人が気が付くはずだろうし、そもそも、妹の友人ちゃんは下校中にタイムトラベルを体験した直後に手元にあったスマホに表示されている時刻を確認したそうよ」


 その結果、狂うはずがないスマホの時計と、大広場の時計にズレはなかった。

 他に何人かいるというタイムトラベルの体験者も、同様の確認を行ったようだが、どれも同じ結果だったという。

 これを私に話している時の妹は、鼻息を荒くして興奮していた。

 「世紀の大発見!」「こんど調査隊を連れて行って、本格的な調査をしてみる!」と目を輝かせていた彼女の表情は、私と同じ血が流れているとは思えないほどに純粋で可愛らしかった。

 そんな彼女から「お姉ちゃんにだけは特別に」と教えてもらった秘密の『謎』を、邪な爆弾魔に横流しするのは、罪悪感を感じずにはいられないけど……学校を守るためには仕方ない。

 私が一通り話し終わった後、一上は困ったような表情になりながら、腕を組んでいた。

 さすがの天才といえども、時空の歪みという超常的な現象については、人並みに悩むらしい。


「いえ、私が悩んでいるのは、超常的な現象についてではなく、人情的な問題についてです──『謎』の答えはとっくに分かりました」


 だけど、この真相を語ることで長瀬さんの妹さんの夢を壊してしまうことになるのかと思うと、ちょっとだけ躊躇われますよね──と。

 学校の破壊を目論んでいる爆弾魔とは思えない発言を、一上は口にした。

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