第5章 血の海 2

 

天喜五(一〇五七)年、霜月。国府多賀城。国府勢出陣前。


「――皆よ、心せよ! 我ら栄えある源氏一党の進むその傍らには、常に八幡大菩薩の尊き御加護が在れり!」

 出陣を控え、居並ぶ国府勢を前に頼義は高らかに宣言した。

 総大将の前に居並ぶは源氏精鋭を主体とした国府軍千三百。

 彼らを率いるは御曹司源義家をはじめ、武芸達者の藤原景通・景季父子、老忠臣佐伯経範、大宅光任、一の腹心藤原茂頼、不敗の猛将平国妙らといった錚々たる将の顔ぶれである。


 ――請ふ、官符を賜りて諸国の兵士を徴発し、兼ねて兵粮を納れ、悉く余類を誅せんことを。


 先日、朝廷へ頼時戦死の国解を提出する際、再三の如く右の一文を特に強調し、支援を強く求めたものの、敵の首魁を倒したにも関わらず、朝廷の態度は「群卿の議同じくせず、未だ勲賞を行はざる」という有様であった。

 決定的な一局に踏み切れぬまま、糧食尽き、続々と兵の離れ去る現状のままでは、国府が戦を継続することはいずれ不可能となるであろう。これ以上徒に時間を浪費することはできぬ。頼義達には、年明けを待つ猶予は最早残されていなかった。

 何としてもこの一戦で大戦果を示さねばならぬ。

 此度の出陣は事実上の総攻撃であった。


「此度挑まんとする一戦の勝鬨、我ら源氏の輝かしき栄光として、子々孫々の名誉として必ずや後世に激賞と共に語り継がれることであろう。我ら坂東武者台頭の黎明に於て、河内の一党、錦旗に歯向かう北夷の賎民共を白幟の下に成敗し、以て天下の誉となれり、とな! 今こそ我ら源氏が陸奥の俘囚を平定し、我が一党の東国における勢いを不動のものとせん。その栄えある一歩が、今まさに諸共の軍靴によって勇ましく踏み出されんとしておるのじゃ! 皆の活躍、目も眩むばかりの栄光は、やがて筆致極まる絢爛な絵巻物語として描かれ諸人の感嘆を恣にしよう! 生え抜きの精鋭達よ、皆の奮闘、奮迅を、予は大いに期待しておるぞ! ――いざ参らん!」

 「栄光」の二文字を殊更に強調する頼義の檄に、国府全将兵は目を輝かせながら天地を揺るがす鬨の声を上げた。ずっと多賀城に燻っていた彼らにとって、待ちに待ちたる決戦である。相手はたかが未開地の俘囚、何程のこともあらん。まさに栄光は我が手の届くところにあり!

 全軍の士気は非常に高いものであった。


 軍勢の上に数多翻る源氏軍の白幟に、ちらほらと雪が舞い纏う。


 まもなく冬の嵐が訪れようとしていた。





 同月。河崎柵、貞任陣。――合戦前夜。


 背後に座する一加の前で、兄貞任が鏡を前に化粧をしている。

 眉墨、紅、白粉。どれも女物の化粧道具である。

「……男のくせに、化粧など、と笑うか?」

 じっと兄の背を見つめる妹を鏡越しに見やり、貞任がにやりと笑う。

「いえ。それが兄上の戦支度というのであれば」

 感情を押し殺したような声音で、一加が答える。

「私も、この手で敵の兵を――」

 肩を震わせる妹の様子に、相変わらず微笑を絶やさぬままに兄が話す。

「……或いは、土器かわらけを地べたに叩きつけて割ることもあろう。或いは得物を振り上げ鬨を叫ぶ者もあろう。栗を剝いて食う奴も居るとか。形はどうあれ、これから俺は人を殺すぞ、という戦の前の自己暗示まじないじゃ。勇ましいことよな。だが所詮は自分の良心への言い訳に過ぎぬ」

 白粉の上から、眉墨を引く。

「結局、人とは弱い者よな。どんなに豪気に見える猛者とて、平気で人を殺められるものなどおらぬ。否、平気で殺せる者など、猛者とは呼べぬ。そんなのは、ただの人殺しよ。……戦に勝つとはな、即ち敵より多く人の命を奪うことじゃ。戦功をたてるとはな、即ち先を争って誰よりも多くの人をぶった斬ることじゃ。無論、相手も黙って殺されてくれぬ。死に物狂いで俺を殺しにかかる。いやはや。お互い、何を好き好んでこんなことをせにゃあならんものか」

 目の下へ、頬へ、黒い縁取りをすらすらと引いていく。

「俺はな、こう見えて人一倍の弱虫じゃ。血を見るのが何より嫌いじゃ。喧嘩など端で見ているだけで身が竦む。安倍の二男になど生まれていなければ、ただのお人よしの阿呆で終わっていただろうて」

 紅を引き、最後の仕上げを入念に行う。

「だから、土器を叩き割ったり、鬨の声を上げるだけでは足りぬのじゃ。人殺しなどという大それた行いをな、戦などという罰当たりな所業をな、自分で自分に納得させるには、とくと手間がかかるものよ。特に俺は、人一倍、強くあらねばならぬ。先頭に在って、皆を率いねばならぬでな。だから、念には念を入れて欺かねばならぬのじゃ。――人一倍、弱虫な俺自身をな」

 ……そう言って、振り向いた兄の顔には、いつもの呑気な兄の顔は微塵もなかった。

「我こそは阿弖流為なるぞ! ……なんてな」

 いや、そうでもなかった。

 まるで後世の歌舞伎における代赭隈のような隈取の顔が片目を瞑ってみせる。

「さて、わが妹よ」

 未だ俯き震えたままの一加の傍へ、真っ白な毛皮の外套を抱えた兄が歩み寄る。

「お前は俺達戦人のような覚悟を決めぬままに、人を殺め、苦しんでおる。そうだな?」

 兄の言葉に、躊躇いつつも頷く妹を、穏やかな微笑で貞任が続ける。

「良いか。その気持ちを、肝に銘じておけよ」

 そう言って、一加の肩に毛皮の外套を掛けてやる。

「これは……?」

 戸惑う様子で外套に触れてみる一加に、兄が告げる。

「父上の遺品じゃ。夷狄島えぞから渡来した蝦夷狼の毛皮と聞く。今からそれはおまえのものじゃ。白き狼の毛皮を纏い、今からお前は自分を何と偽り戦に臨むか?」

 真っ白な猛獣の衣を頭から被り、一加は目を閉じる。

「私は……」

 

 ――鬼じゃ、……ひ、人喰い狼じゃあ!

 ――金ヶ崎の……人狼っ!


 自分へと向けられる恐怖に怯える眼差しが、ふと過った。


「……私は、人狼じゃ」

 目を開き、顔を上げると、妹の覚悟を見届けるようにじっと見下ろす貞任と目が合う。


 ――戦が終われば……敵味方でなくなれば、きっとまた此処で逢えような?


 それとともに、一加の中で霞んで消え、見えなくなってしまったものがあった。


「――今より、人喰い狼となり戦いまする!」


 真直ぐに兄を見つめ一加が答える。

 ふ、と笑みを浮かべながら貞任が頷いた。

「それでこそ我ら胆沢狼の一人よ!」




 昨日までに、重任・則任ら率いる遠野の軍勢をはじめ、奥六郡近辺の安倍勢力も続々と河崎柵に集結していた。皆、残り僅かの糧食を搔き集めての参陣である。柵に籠っての籠城戦はそもそも不可能。只一戦を以て勝敗を決めねばならぬ。


 肩の雪を払いながら貞任、一加が本陣に入ると、既に皆の顔が揃っていた。

「相変わらず吹雪いておるようですな」

 外から聞こえてくる風の音に顔を上げる宗任が呟く。

「おそらく未明には止むだろうて」

 真任が答える。

「物見によると、国府勢は登米二股川付近で夜営を敷いたとのこと。昼前には我らの前に現れるでしょう」

 宗任の報告に、家任は懸念の表情を浮かべる。

「それまでにこの吹雪、持ってくれると良いのだが。吹雪に紛れ奇襲を与えれば覿面なのだが」

「何を情けないことを言っておられるかっ! 盆飾りの胡瓜の如き源氏の騎馬など、天気に頼らずとも、吾輩の迫力を以て立ち竦ませてくれようぞ!」

 鼻息荒く吠え猛る為行の迫力に本陣の幕布がバタバタ翻る。

「結構な意気込みでござるが、大虎殿の鼻息が如き強風に吹かれてはちと困りますのう」

 意味ありげな表情で真任が経清の方へ話を向ける。

「夜が明ければ、河川周辺はたちまち気温が上がると見込まれる。……経清殿の御指示で皆に着こませたものも無駄な着膨れにはなるまい」

 長兄の言葉に、皆、自身が羽織る真っ白な外套を見下ろした。

 一加や貞任が着ているような狼もあれば、海豹もある。珍しいものでは北極熊を鞣したものもある。何れも非常に高価な代物である。


「――毛皮が全部に行き渡らぬなら白い衣であれば何でもよい。全将兵に纏わせるのじゃ」

「雪上での偽装か。鬼切部でも用いた常套手段ではあるが、敢えて申されるからには別の真意がござろう?」

 経清から要請を受けた際、頷きながらも面白そうに尋ねる貞任に、

「無論、敵の目を欺くためでもあるさ。だがそれ以上に、敵の心胆を大いに慄かしめる目論見もある」

 相手もニヤリと笑いながら答えたものだった。

「源氏の奴ら、きっとこの戦の後暫くは、白いものを目にするにつけては、自軍の白幟が微風に翻る様にすら恐れ戦くことになるだろうよ――」


 一同を見渡しながら、貞任が口を開く。

「さて、間もなく日付も変わる頃合じゃ。配置につく者はそろそろ支度を致せ。休める者は今のうちに休んでおけ。いずれ明日の戦ですべてが決まろう。明日敗れれば一巻の終わり、我らは北と南から挟まれて皆殺しじゃ。どうせ死ぬなら明日の戦に死力を尽くせ。――要は、いつもの通りに戦えばよい。胆沢狼の戦い振りを、国府の連中に見せつけてやるがよい。……きっと父上も、皆の前で同じように激励したことだろう」

 一同が頷く。宗任、家任らは緊張に頬を強張らせ、経清らは固く覚悟を決めたように目を瞑り、重任は明日が待ちきれぬ様子で心底嬉しそうに、一加は只俯いたまま。


「では皆々よ、いずれ明日――黄海きのみにて相見えようぞ!」



 時に天喜五年十一月某日。

 前九年合戦において、安倍・源氏両軍主力同士の最初にして最大の激戦――黄海の合戦の火蓋が、今まさに切られようとしていたのである。

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