第5章 血の海 3


 翌日、朝五つ頃(午前八時前後)。磐井郡黄海川付近。


 綱木の峠を抜けると、黄海の盆地が一行の目の前に現れる。

 保呂羽山から西南へと走る黄海川は小高い渓谷の合間を縫うように流れ、やがて丁度磐井と登米の間を分かつ辺りで北上川に合流する。その付近は東南北の三方を山々に囲まれた盆地となっており、西に臨む北上川に沿って北上すれば河崎柵まで二三里程度の距離であった。

 

 ――風雪甚だ励しく、道路艱難たり。官軍食無く、人馬共に疲る。


 黄海盆地を通過する国府勢の様子を、『陸奥話記』においては右の通りに記している。しかし、幸いなことに昨夜の暴風を伴った激しい吹雪は未明には嘘のように止み、今では背後の山裾から橙色の朝焼けも眩しく雲一つない冬空が広がっていた。

「いやはや、馬組で固めてきて良かったわい。あの雪の峠を徒組率いてぞろぞろと歩いて来ようものならもう一泊山の中で野宿をすることになっていただろうて」

 ようやく平らな地面を踏めたことにホッとしながら茂頼が息を吐く。無論、徒兵も少なからず加わってはいるが、歩兵主体で雪中行軍となれば格段に移動時間を要するし、ある程度の事前訓練も必要となる。

「ところで、御君ら先頭の者らはどのあたりに居るのじゃ? 何も見えぬぞ」

 誰にともなく問いかける声も、真っ白な視界に飲み込まれるように消えていく。

 吹雪も収まり、風も止んだ黄海盆地は、恐ろしいほどの静けさに満ちている。

 その代わり、盆地一帯は国府勢の誰も経験したことのない程の濃い霧にすっぽり覆われていた。

 暴風雪が収まり、気温の上昇する気配が現れてきたのであろう。

 外気と水温の温度差により北上川から濛々と立ち込める湯気のような霧が盆地へと流れ込み、手前数馬身先を行く者の背中すらも判然としない。

 只でさえ昨夜の吹雪で足元はおろか四面の全てが白一色ときており、ともすると平衡感覚すらあやふやになりかねない。

「これは天啓ぞ! この霧が我らの進軍を陸奥の者共の目から覆い隠してくれる。彼奴等め、霧が晴れた時には我が騎馬軍勢が砦のすぐ目の前に現れているのを目の当たりにして、さぞや慌てふためくことだろうよ」

 頼義はじめ主だった者は、この霧を自軍に有利な状況と捉え喜んでいるが、一方で隊列の中ほどを進んでいた義家はいよいよ警戒を強める場面と心得え、油断なく周囲に鋭い目を光らせていた。

(確かに、敵に我らの姿は見えぬが、同時に我らからも敵が見えぬ。状況としては敵地に踏み込んでいる我らの方が余程無防備なのだが……決戦を前に余計な水を差して士気を下げてはならない。大事の前の小事である、という判断か)

 恐らく前方のあの辺りにいるであろう総大将の背中を、息も痞えそうな霧の壁の向こうに見つけようと義家が目を凝らしていると、傍らを行く元親が馬を寄せて囁く。

「御曹司。何やら嫌な予感がいたしまする。この霧が晴れるまで、一度進軍を止め待機すべきではござらぬか?」

「確かに、下手に動いて奇襲でも掛けられてはひとたまりもあるまいな。しかし進言しようにも、どこに父上がいるものやら」

 困ったように前方を眺めやる。すぐ目の前に顔を寄せる元親の髭面さえも霞んで見えるほどの濃い霧である。仮に進言したとしても、この視界不良の中では隊列全体を掌握することすら難しい。

 その時、突如後方から水音と共に何やら叫び声やら罵り声が聞こえた。

「何事じゃ?」

 周囲の配下達も、何事かと馬を止める。

 やがて後方から馬を走らせこちらに駆けてくる者の姿がぼんやり見えた。

「橋を渡っていた者の何人かが、誤って馬ごと川に転落したようです」

 義家を見つけ、駆け寄って来た武者の報告に、なあんだ、と周囲の兵らに安堵の空気が広がった。

「無理もあるまい、この霧じゃ。人馬は損なっておらぬだろうな?」

「今周りの者が引き上げているところでありますが、恐らく大事無いでしょう」

 そこへ、前方から様子を見に来た紀為清が近づいてくる。

「ここにおられたか。何事でござるか?」

 只今の報告を伝えると、確認してくると言い残してそのまま後尾へと駆け去っていき、あっという間に霧の中へ消えた。


 ……程なくして、後方から再び為清らしき人影と馬の蹄の音が近づいてきた。

「おお、もう戻ってきたか」

 先程の進言の件、頼義に言伝を求めようと二人が馬を向け、――その姿に、戦慄の走る余り言葉を失った。

 目の前を過ぎる騎馬の有様を、ふと目に留めた者が或いは絶句し、或いは悲鳴を上げた。


 首を失った為清の身体が馬から振り落とされ、二人のすぐ目の前に転げ落ちた。


「は……」

 後方から、前方から、次々と悲鳴や叫び声が――先程とは明らかに様子を異とする喧騒が響き渡る。

 為清の亡骸を見下ろしたまま目を見開き硬直する義家が、ハッとしたように口を開く。

「て、敵しゅ――」

「御曹司っ!」

 咄嗟に主人を庇う元親のすぐこめかみを唸りを上げて矢が掠める。



 既に合戦は始まっていた。

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