第5章 血の海 1


 ――初めて、この手で、人を殺め、わかったことが二つある。


「姐さま?」

「姐さま、御具合が悪いのでございまするか?」

 両眼に涙を浮かべ、心配そうに立ち竦む侍女達の声も、今は耳に入らない。

「う、く、……ひっぐ、う、……うあああっ」

 何度も井戸の水を汲み上げては頭から被る。手の皮が、返り血を浴びた顔の皮が擦り剝けるのも構わずに洗い続ける。拭い続ける。

「お願いでございまする、もうやめてくださいませ!」

「姐さまのお顔が、血だらけになってしまいまする。うわああん!」

 何度拭っても血の匂いが落ちない。あの声が、あの目が、自分が手に掛けた敵武者達の最期の顔が、目にこびりついて離れない。

 目の前で父を喪った哀しみよりも。

 目の前で、この手で命を奪った者の息絶える様を見届けたことの方が。

 ずっと哀しかった。恐ろしかった。

 憎しみに突き動かされるがままに、躊躇なく人の命を次々と奪うことのできた自分が、只々恐ろしかった。


 戦とは、人を殺すことだと、殺し合うことだと、今更ながら思い知った。



 その上で、初めて兄達のことが少しだけわかった。

 胆沢金ヶ崎の精鋭達を率い、鬼切部の激戦で先頭に立ち勇猛果敢に戦い、手柄を挙げて帰ってきたという貞任。

 同じく激戦で戦功を挙げ、遠野の戦士達を束ねる重任。

 

 何故二人が、ああも強く在れるのか。

 何故、戦の中であれほど強くいられるのか。


 ……いや、兄達は、強く在らなければ・・・・・・ならないのだ。


 私も、――そう在らなければならない、と。


 戦い続けなければ。……つまり、――殺し続けなければならない、と。



 私もまた、――胆沢の狼ゆえ。



 


 天喜五(一〇五七)年、神無月。並木屋敷、深夜。


 白木の台の上に祀られた永衡の遺髪を前に、経清は忸怩たる思いを胸に首を垂れていた。


 胸に蘇るのは、永衡の最期の姿。

 三人の郎党らと共に引き立てられ、罪人のように首を刎ねられようとしている姿に、心ある者は皆目を伏せ、義家も、元親も顔を背けていた。

「……一体、永衡殿に何の咎があるというのかっ!」

 次は我が身と怯える為時が、ぶるぶる震えながらも理不尽さを嘆くように小さく呟いた。

「経清殿」

 今まさに首を打たれようという永衡が顔を上げ、真直ぐ自分を見つめる経清に、にっこりと微笑みかける。

「中加を逃がしてくれたこと。――最後に、感謝いたす」

 笑顔のままの永衡に、白刃が振り下ろされた。


「―――…………っ!」

 膝の上で拳を握り締めながら、経清は慟哭を噛み殺す。

(……必ず、貴公の仇を討ってみせるぞ、永衡殿! ――わが、義弟よ!)

 眦鋭く決意を固める経清の後ろで、さらりと簾が揺れた。

「誰か?」

 人の気配に振り向くと、尼僧姿の人影が入り口で低頭しているのが見えた。

「中加殿!?」

 驚いて経清は腰を浮かす。

 一度、頼時の葬儀の際に、ふらりと皆の前に姿を現したのが最後、再び行方が知れぬままであった。

「夜更けに失礼いたしまする」

 顔を上げる中加を招き入れ、謹んで遺髪の正面を譲る。

 亡夫の遺髪を前に、共に過ごした日々を懐かしむように微笑みを浮かべて手を合わせる。

 やがて経清の方へ向き直り、中加が口を開いた。

「急ぎ申し伝えたきことがございました」

 経清の表情が険しくなる。既に日の変わる時刻である。何よりも相手の様子から察するに、余程のことであろう。となれば、用向きは一つしかあるまい。

「国府の動きでござるな?」

 中加が頷く。

「塩釜、松島を巡礼の際に、多賀城周辺で国府による兵糧や武具の調達が俄かに進められているとの噂を耳にしました。その中には冬の装備に関わる物資も含まれているとのこと。遠からず、国府が動きます。恐らく、春を待たぬうちに」

 経清が腕を組み、考え込む。

「……やはり、来るか。考えぬではなかったが、確証はなかった。彼奴ら津軽を与したとはいえ、この飢饉では津軽も気仙もすぐには動かせぬ。国府が我らを囲い込みに掛かるは余程先のことかと皆は悠長に構えていたが」

「伝聞ではありまするが、確かな筋でございます」

「有難い知らせにございまする。翌朝、すぐにでも貞任殿に皆を集めてもらい協議致すこととしましょう。中加殿、忝い」

 礼を言う経清を暫し無言で見つめていた中加が、やがて再び口を開く。

「……決して、宅の仇を取って頂こうというのではありませぬ」

 中加の真直ぐな眼差しを、経清も黙って受け止める。

「此度の戦で愛別の苦しみに遭うは、私一人で十分。戦で愛する者を喪うは、私が最後となれば良い。たとえ叶わずとも、只々、その一念でございまする。……何卒、皆様が御無事であられますよう」


 最後にもう一度だけ永衡の遺髪に合掌すると、中加は屋敷を去っていった。




 翌日。


 屋敷に集められた一同は、経清より昨夜の顛末について耳を傾ける。それぞれが胸の内で無言のうちに緊張を高鳴らせていた。

「……やれやれ。どうせ来年に向けた、鬼が笑うような戦支度と寛いでいたのだが」

 困ったように頭を掻きながら、高座に胡坐をかいた貞任が苦笑する。

「兵糧もなく、兵も薄いのは敵も味方も同じ。確かに狙い目といえばそうだが、肝心の心許ない兵を一体国府はどこからどれだけ搔き集めるつもりなのか?」

 宗任の疑問に、経清が答える。

「国府には頼義が引き連れてきた常備軍がおる。決して多い数ではないが虎の子の兵力、いうなれば国府の切り札ともいえる。これをこの機に繰り出すという事は、この一戦における国府の戦意、並々ならぬものであろう」

 一様に強張った面持ちで見つめる一同を前に、経清は続けた。

「此度予想される敵の矛先も、気仙が国府に与している現状においては前回同様河崎柵であろう。此処が落ちれば北上川の東側、即ち磐井と閉伊、遠野は国府の手中に落ちたも同じ。後は雪解けを待って北の三郡と我らを挟み討ちに掛かると予想される。察するに、敵の兵力はせいぜい二千。ただし、この二千は国府の主力、謂わば源氏の精鋭じゃ。相手は天下を二分する河内武士団直下の将兵である。今まで相手にした気仙勢や津軽勢の如き俘囚の地侍とは到底比較にならぬ」

 経清が一同を見渡す。源氏の強さは長年国府に所属していた経清が一番よく理解している。今回は登任の時のように、鬼切部の戦のようにははいかぬであろう。

「……もし、その二千を相手に河崎を護るとすれば、我らの兵力は如何ほど必要と考えるか?」

「兵の数ではない。攻められれば確実に河崎は落ちる。源氏の機動力を正面から受けては万に一つも勝ち目はない」

 恐る恐る問う家任に、経清は厳しい顔で断言し、皆が息を飲んで黙り込む。

 一同が沈黙する中、突然ケラケラと貞任が可笑しそうに笑い声を上げる。

「なに、ならば簡単なことじゃろう。柵で防げぬなら柵まで攻め寄せる前に何処かで叩けば良いだけの話ではないか。思いっきり不意を突いてな」

 高座の主の回答に、経清も不敵な笑みを浮かべながら我が意を得たりとばかりに頷く。

「仰る通りじゃ。だが決して簡単ではありませぬぞ」

 経清は地図を広げさせると、多賀城より河崎柵へ至る各径路を確認する。

「今まで国府は気仙と共同で作戦を進めていた故、本吉で合流し、津谷川から増沢に抜けて河崎へ進軍していたが、恐らく敵は今後海沿いの道は使わぬ。山間の道を抜けて向かってくるだろう」

「冬場に山道を抜けてくるというのか?」

 声を上げる家任に経清が笑う。

「左様。何しろ、気仙と共にこの径路を通い二度も河崎を攻めたこの俺が、今は皆の元に寝返っておるからな。流石に同じは使うまいよ。雪山踏破を見越しての冬装備だろう。俺の見立てでは、恐らく登米から川沿いに綱木の峠を抜けて――この辺りを必ず通過するはずだ。ここで奇襲をかける。但し、一歩間違えれば正面から攻撃を食らう。一か八かだが、ここでの不意打ちに賭けるしかない」

 指し示される地図の地点を見下ろし、真任が成程と頷く。

「良いところに目を付けたな。この辺りはな、天候によっては、とても面白い現象を見ることが出来るのじゃ。特に、冬場はな」

「真兄よ、本当は目が見えているのではないのか?」

 愉快そうに肩を震わせる盲目の兄を胡散臭そうに家任が見やる。

(……それにしても、大した切れ者じゃ。流石、亘理郡司にして国府の高官を務めていただけのことはある)

 経清の統率振りに宗任は内心で舌を巻いていた。いつしか軍議は彼を中心に進められている。

 敵に回さずに済んで良かった、と宗任は心底安堵した。

「さて、問題は我らの兵力だが、貞任殿、宗任殿」

 経清が顔を上げ、両者に問うた。

「来月までに、どれほど集められるか?」

「うむ、今以て即応できるのは厨川、胆沢から駐留しておる一千。臨時召集して二千五百といったところか」

 経清が首を振る。

「四五千は欲しい。磐井、遠野の軍勢も搔き集めてほしい。――恐らく、この合戦、両者の一大決戦となるだろう。我らの命運はこの一戦に懸かっておる。一人でも多くの兵を確保しておきたい」

 悩ましい顔で唸る宗任を尻目に、やれやれ、とんだ年の瀬になりそうだわい、と貞任が苦笑いする。

 その時、末席にいた一加が立ち上がり、高座の前に進み出た。

 思わず皆が地図から顔を上げ、妹を注視する。

「この度の合戦、私も加えて頂きたく存じます」

 一同が驚きの声を上げる。

 経清も目を丸くして義妹を見つめる。

「……おまえ、父上の仇を取るつもりか?」

 高座の兄が表情を消して妹を見下ろす。

「それも、ありまする」

「やめておけっ!」

 鋭い声で兄が一喝する。

「私も!」

 悲鳴のような声で、兄に負けじと言い返す。

 まるで貞任に斬りかかるような鋭い目で睨みつける。

 

「私も――安倍の一人にございまする」


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