第4章 人喰い狼 2

 

 俘囚領仁土呂志、安比川付近。


 一行は厨川で一泊し、昼過ぎに沼宮内を通過したところであった。

 奥六郡から北は郡単位での行政統括はされていない。この一帯は、安倍氏や国府よりも、各俘囚長が強い勢力を持つ地域である。

 岩手山を西の背中へ見送り、山麓の田園広がる平野を抜け、一行は今、八幡平はちまんたいの裾野を分け入っている。

「流石にここまでくると涼しうございますな」

 夏とは思えぬ連日の曇天ではあるものの、空気はどんよりと湿り気を含み蒸し暑い道中であった。幾らか快適になったと随行将兵の頭目である髭一が目を細めて呟く。

 衣川とは大分木々の植生も様変わりした景色を一行は物珍し気に見回した。厨川より北に踏み込むのは今回が初めてという者も少なくはない。

「しかし、途中の中津川近辺の田を見たか。やはり、今年は飢饉と見て間違いないな。二年も続けて米が採れぬとは」

 浮かぬ顔で頼時が嘆息する。

 只でさえ、稗貫・志和から北部は実り豊かな穀倉地帯とは言い難い。加えて昨年のヤマセ、今年の冷夏である。

「今はお互いに争っている場合ではない、今に窮乏を極めるであろう民達を救う手立てを力を合わせて協議すべき時であると、富忠殿も理解してくれるはず。そう信じたいところであるが」

 父の言葉に、一加も頷く。

 その脳裏に、以前経清が皆の前で口にした懸念が浮かんだ。


(……朝廷は、未だ頼時様らを朝敵と認め、追討の勅旨を下すことを躊躇っている様子である。陸奥がもたらす珍物に目が眩んでいるというのもあるにせよ、一番の理由は、武家の台頭を心底忌避していることじゃ。だから国府の源氏に援軍の派遣や兵糧物資の援助を渋る。この飢饉と援助の遅滞で兵士らも離れ、国府が動かせる兵力は今や二千に満たぬだろう。そこで頼義は、朝廷へ支援の申請を継続しつつも方針を大きく切り替えた。即ち、「夷を以て夷を征す」とな。この度のように気仙を使い、周辺の有力な俘囚へ甘言の数々を並べ立て、安倍からの離脱と国府との共闘を求めておる。もう、体裁も何もかなぐり捨て、国司自ら額づき懇願するような必死の有様じゃ。津軽のように、心動かされるものが後に続かぬとも限らずぞ。努々油断なされるな――)



 安比川沿いの渓谷を進んでいた時、ふと川の傍に紫色の可憐な野花が蕾を綻ばせているのを見つけ、一加が歓声を上げる。

「まあ、深山竜胆」

 思わず馬を止めた一加を見て、「ここで小休止を取ろう」と頼時が一行に号令を掛けた。

「ほう、胆沢では見かけぬ花ですな」

 馬から降りた髭一も、傍らから珍しそうに覗き込む。

「東和様が大層お好きなお花で、よく兄上がお土産に摘んで帰るのです」

「はは、それは仲睦まじい」

 二人並んで川辺の花を眺める姿は、まるで散歩途中のおじいさんと孫娘のようである。微笑ましそうに眺めやりながら兵士達が木陰に馬を繋ぐ。

 すぐ上の方から聞こえてくる滝の水音と、目の前をゆったりと流れるきらめきが涼しげである。流れの澱みが鏡のように真っ白な曇り空を反射し、鏡のように二人の後ろに峻厳とそびえる崖と、岩肌に逞しく葉を茂らせる赤松を絵画のように映していた。

 ふと、その水鏡の崖の上に、ちらりと人影が蠢いているように見えた。

(あんなところに、人が?)

 一瞬、衣川の水浴みの思い出が瞼を過った。

 何気なく一加が振り向き、釣られた髭一も顔を上げ――血相を変えて飛び上がった。

 背後の崖上で、幾人もの戦装束の武者達が、今まさにこちらに向けて弓を構えていたのである。

「父上っ!」

「者共、備えよっ!」

 河原の岩に腰かけ、水筒に口を付けていた頼時が咄嗟に岩陰に身を伏せ、今まで座していた場所に二本の矢が音を立てて弾け飛んだ。老人とは思えぬ身のこなしだが、相手の弓の腕も相当なものと見えた。

 あっという間に矢の雨が降り注ぎ、泡を食った味方の兵士らが素早く物陰に飛び込んだ。 

 一加が頼時の傍らに身を滑り込ませる。その横で、苦々しく顔を歪め頼時が唇を噛む。

「どうやら、説得の余地はなかったらしいのう!」

 頭上の敵兵らは、何か一加には判らぬ早口の言葉で言い合っており、それが聞こえた頼時が忌々しそうに舌打ちをした。

「父上、敵は今何と?」

「古い宇曽利蝦夷の言葉じゃ。対岸の別動隊を呼び寄せ、挟撃させよ、と。彼奴らめ、儂らに通じぬものと思ったか!」

 程なくして、崖上から鏑矢が一声を響かせながら放たれた。

 頼時が口笛を鳴らし、離れた木陰に身を伏せていた髭一へ合図を送り、頷いた髭一が声を張り上げた。

「左翼は頭上の敵を牽制、その隙に残りの者は馬を確保し、離脱せよ。歩けぬ負傷者は放置する。絶対に矢を被るな!」

 こちらも胆沢蝦夷にしか通じぬ言葉である。

 命令一下、左翼一斉に矢を射返すが、敵の矢数の方が圧倒的に多い。

 反撃と同時に馬の繋いだ方まで走るうちに半数が倒れ、残りのうちの半数もまた、対岸から仕掛けられた矢に撃たれ、驚いた馬が矢に倒れた兵士の亡骸を引き摺ったまま右往左往する。

「撤退じゃ、元来た道をただ駆けよ! 厨川までひたすら走れ!」

 決死の行動で兵達が引き連れた馬に飛び乗り、頼時達は降り注ぐ矢の雨を躱しながらその場を逃れた。


 生き残ったのはほんの数騎のみであった。


 河原の傍から離れても敵の矢の数は変わらなかった。

 裾野を抜け、沼宮内ぬまくないの平野に出たところで数十騎の敵騎馬が左右から追走してくるのが見えた。既に日は沈み、松明を掲げ追ってくる敵勢はまるで火の玉の群れである。

「夜闇に紛れて何とかやり過ごせぬか?」

 振り向いた頼時が突如「ぐっ!」と呻き声を洩らす。

「父上っ!?」

「……心配はいらぬ。掠り傷じゃ。もう……この闇では敵もまともに弓を射られまい」

 そう言いながらも今にも馬から崩れ落ちそうな頼時の身体を、一加が馬を寄せて支える。

「ここは我らが踏み止まる。ひい様は御館様をお連れして早く厨川へ逃れてくだされ!」

 馬を返しながら髭一が叫ぶ。

「早く!」

 未だ背後で躊躇う様子を示す一加に、髭一が一喝する。

「早く厨川の援軍をこちらに寄こすよう伝えてくだされ。それまでなんとか逃げ回ります故!」

 振り返り、笑ってみせる髭一に、一加は涙ながらに頷くと父の馬の方へと乗り換え、一目散に南の方角へ走り去った。

「……さあ者共よ、ここが踏ん張り所じゃ。津軽の裏切り者共に我ら胆沢武者のあぎとを示してくれようぞ!」

 迫る松明の一群を目前に勇ましく吠える髭一が、ハッとして周りを見渡し、呆然と呟いた。

「……なんじゃ、俺を置いて、皆先に逝ってしもうたか」



 父を前に乗せながら、一加は涙が止まらなかった。

 先に進むにつれて、どんどん父の身体から力が抜けていく。体温が消えていく。何が掠り傷なものか!

「父上、厨川はもう目の前でございます、どうか、もう暫しご辛抱くださりませ!」

 真っ暗な闇の中、涙に咽びながら父を励まし続けた。

「……一加よ、ここでよい。馬を止めよ。儂を、下ろしてくれ」

 力のない声で、頼時が囁く。

「父上!」

「話しておかねばならぬことがある」

 馬を止め、叢に頼時を横たえる。微かな月明かりに照らされた父の姿に一加は絶望の余り引き攣った悲鳴を漏らした。これだけ血が流れてしまっては、到底助からぬ。厨川まで、とても持たぬ。

「……只今を以て、家督を、貞任に譲る。あれは庶子だが、誰も異存はあるまい。皆があれの器量を認めておる。どうか皆で兄を、弟を支え、この苦難を乗り越えよ。陸奥の安寧を、皆で取り戻すのじゃ」

「父上、まだ早過ぎまする。まだ我らは父の力が必要でございまする!」

「一加よ。我ら安倍一族が何者であるか、知らぬわけではなかろう?」

 嗚咽を漏らす娘の手を握り締め、頼時が語りかける。

「左様。我らの父祖がこの地に根を下ろして以来、我らはこの地に住まうあらゆる先住の者達と貴賤を問わず縁を結び、血を交わしてきたのじゃ。金、平、藤原、物部、清原……そして、この地に生ける全ての俘囚らが、我ら安倍と縁で繋がっておる。安倍とは即ち、この陸奥の人々が根を張る土なのじゃ。陸奥の地にて民らが安寧でいる限り、安倍は有り続けるのだ、そして……我らも、また、」

 苦しそうに呻く頼時を前に、一加はただ涙に暮れるばかりだった。

「たとえ頭目が誰に変わろうと、それは決して変わるまい。一加よ、そなたも安倍の一族ならば、それを決して忘れてはならぬぞ。そなたも、陸奥の土の一部であると」

 ふ、と穏やかな微笑を浮かべ、女童のように泣く娘の双眸を見つめる。

「いずれ、そなたも子を為し、その縁を子孫に伝えよ。我らの縁が陸奥とともにある限り、我ら安倍は決して……滅びることはない、のだ」

 父の身体に縋り付きながら、一加は激しく慟哭する。その娘の肩を抱きしめながら、頼時は目を閉じ、祈るように呟く。

「――我が息子、娘達に、陸奥に生きる全ての縁に……どうか、栄えあれ」

「父上? ……父上っ‼」

 涙に暮れる娘に看取られながら、頼時は静かに息を引き取った。 



 天喜五年、七月。

 奥六郡司、安倍安太夫頼時、逝去。享年未詳。




 娘の啜り泣きを聞きつけた幾つもの松明が、叢に近づく。

 馬の姿を認め、ぞろぞろと騎馬武者達がその周りを取り囲む。

「しめた! まだ首までは討ち取られておらぬ。我らの手柄じゃ!」

 松明をかざし頼時の亡骸を認めた騎馬の一人が馬を降り、一加の傍へ歩み寄ってくる。

「おい、骸の傍に誰か居るようじゃぞ?」

「なに、べそを掻いておるばかりの娘子じゃ。おい、うぬはこの親爺とどういう関わりか?」

 もう一人の武者が近づき、俯いたまましゃくりあげる一加の肩を掴んで振り向かせようとする。

 その顔を垣間見た二人の武者が揃って息を飲んだ。

「これは……たまげたわい。頼時の娘じゃ。金ヶ崎の白糸御前様じゃ!」

 他の騎馬達も驚いて馬を降り、わらわらと近づいてくる。

「あの三華と評判の娘らか? 一番下の妹の方と見たが」

「これはとんだ拾い物じゃ。頼時の首と揃えて差し出せば大手柄じゃぞ!」

 大喜びで沸き上がる武者達がまるで目に入らぬかのように、一加は俯いたまま、穏やかな死に顔を浮かべる父の亡骸に目を落としていた。

「……しかし、見れば見るほど美しい娘じゃ。このまま国府に差し出すのは、ちと惜しいのう」

「なに、ここには我らしか居らぬ上に、まだ宵の口じゃ。全員が役得に預かるには十分時間があろうて」

「はは、違いない。……どれ、姫様や、もうちっとよくお顔を見せい」

 隣に座り込んだ男が、乱暴に一加の頤を掴み、こちらに顔を向けさせる。


 その眉間に小さな弩が突き付けられた。


「は――?」

 パアァン、と男の頭が田楽刺しにされ、身体ごと真後ろに吹き飛んだ。

「――……うわあああああああっ‼」

 驚いて腰を浮かせるもう一人の武者に、絶叫を迸らせながら一加が倒れた男の腰から刀を抜いて斬りかかる。役得に預かろうと兜を外し、武具を解きかけていた男は庇う暇もなく真っ二つに頭を割られ、血を吹いて倒れた。

 異変に気付いた別の武者が駆け寄ろうとしたところを下から心臓を突き上げられ、慌てて馬に跨ろうとした武者は一加に馬の足を払われ、悲痛な嘶きを上げながら身を崩した馬の下敷きにされた。

「ぎゃあっ!」

 拾い上げた松明を片手に、真っ赤な返り血に顔を染め、髪を振り乱す一加の形相に、馬に足を潰され身動きとれぬ武者が恐怖の顔色を浮かべる。

 油断しきっていたとはいえ、ほんの数瞬の間に、屈強な四人の武者が碌に悲鳴を上げる間もなく倒されてしまった。……相手は人間ではない。

「鬼じゃっ……ひ、人喰い狼じゃあ!」

 慄き叫ぶ男の顔面に松明の炎が押し付けられた。


 小用に立ち一寸場を離れていた武者の一人が、耳を塞ぎたくなるような絶叫を聞きながら呆然と立ち尽くした。

 ねじ入れるように松明を男の口に押し込む娘の顔は炎に真っ赤に浮かび上がり、歯を剥き出し見開かれた双眸に憎しみを光らせたその姿は、まるで、


「……金ヶ崎の――人狼ひとおおかみ


 ふ、と娘の視線がこちらに向けられた。

「ひっ!」

 武者が慌てて弓を構える。

 十間以上の距離がある。こちらに斬りかかってくる前に仕留められるだろう。

 娘はただこちらを強く睨みつけたまま動こうとしない。

(このっ……化け物め、これでもくらえ!)

 仲間の仇とばかりに番えた弓を引き絞る背中に背後から矢が突き立てられ、どう、と武者は倒れ伏した。


「姫様、御無事かっ!」

 満身創痍の髭一が弓を手に姿を現した。

「姫さ――⁉」

 そして、その場の残状を前に言葉を失った。

 髭一の姿を認めた一加は、力尽きたように膝をついた。

 馬を降り、傍に駆け寄ってきた髭一が心配そうに屈みこむと、一加は堪らずに老武者に抱きつき、堰を切ったようにおいおいと声を上げて泣いた。

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