第3章 磐井郡の合戦 1

 


 天喜四(一〇五六)年、葉月。衣川並木屋敷。


 本日衣川陣に到着したばかりの厨川勢が、屋敷の前でかしらの礼を取りながら、揃える足並みも勇ましく衣川関の方へ続々と進んでいく。

「毎日毎日、沢山の兵隊達が御屋敷の前を通っていきますわね」

 赤子を抱いた三姉妹の長女、有加が、不安を隠しきれぬ様子で垣根の外を伺っていた。

「今に衣川が、兵隊さんだらけになってしまうのではないかしら」

「明日には代わりに反対直の五百が厨川に帰る。皆、故郷の大事な男手じゃ。代わる代わるに兵を帰さないと、田畑の仕事に響くでな。それに、もうとっくに衣川は陸奥中の兵で溢れかえっておるよ」

 傍らに並んで眺めていた兄の宗任がその懸念に答える。

 戦状を交わして以来、間もなく半年が経とうとしていたが、未だ国府側に動きは見られない。不気味な沈黙ではあったが、陸奥側には幸いであった。その分、最前線である衣川関並びに小松、河崎の各柵の補強や常備兵力、兵站の確保に時間を充てることが出来たのである。想定される限りにおいては十分に敵の攻撃を防ぐことが出来るだろう。

「……宅のことが案じられてなりませぬ」

 二人の後ろで、二女の中加が目を伏せながら呟いた。

「前の戦でも、あの人は私の為に、ご自分の危険を顧みず駆け付けてくださった。その為に、国府でどんなにお辛い立場に置かれたことか。再びこのようなことになり、あの人の御心痛を思うと、胸が張り裂けそうでございまする」

 涙を浮かべる中加を慰めるように姉が傍に寄り添い肩を抱く。

 宗任も痛ましそうに妹達を見つめる。

「しかし、経清殿の果断には感謝するばかりじゃ。でなければ、今頃そなたら二人とも国府に囚われの身ぞ」

 昨年末、頼義が任期満了間際に必ず事を起こすだろうと読んだ経清は、頼義の執事として胆沢鎮守府に出向する際、妻の出産とその付き添いを理由に二人を伴い、そのまま衣川の屋敷に預けたのである。その直後の開戦であった。




 磐井郡、河崎柵。

 衣川より北上川を挟んで東に位置し、国府側に対する最前線拠点の一つであり、敵勢が動いた際には、真っ先に火蓋が切られる場所と想定される砦である。

 大河を臨む丘陵に城砦を設け、平地には砦を囲むように幾重もの堀を巡らし、併せて主要道路を複雑に遮断し、敵の進軍を妨げる。この度の戦にあたり、更なる防備改築を加えられたこの柵は、今やその威容たるや実に物々しく、周囲には一部の隙間もなく将兵達を配置させていた。

 その砦の矢倉に立ち、鬼瓦の如き容貌の柵主が、腕を組み鼻息荒く砦下を見下ろしていた。

 磐井の大虎殿おおとらどのこと、金為行である。

「御館様、良昭様が到着されました!」

「おお、今参る! 誰か梯子を持て!」

 階下で声を張り上げる配下の武将よりも余程こだまの響き渡る銅鑼鳴りのような大声で為行が答える。

 頼時の弟であり、貞任や一加達の叔父でもある良昭は僧籍の人である。

 自らの配下五百を率いて河崎柵に着陣し、出迎えに現れた為行へ挨拶の向上を述べるより先に、為行が鼻息荒げながら大きな口で吼えた。

「入道殿、気仙の輩はどうやら臆病風にでも吹かれたと見えますな!」

 相手が仰け反るような勢いである。

「為時奴、我ら磐井と安倍の屈強な連合軍に怯えるあまり、住田の山奥から尻尾も出せずに震え上がっておるものと見える! ハッ、口ほどにもない腑抜け侍じゃ!」

 向こうの薄衣山から谺が返ってくるから凄い。

「……為行殿、我らの相手は気仙だけではありませぬぞ。それに、」

 顔に飛んできた唾の雨を袖で拭いながら良昭が窘める。

「この半年、敵に動きがないからと言って我らへの戦を諦めたわけではあるまい。来たるときは嵐のように攻め寄せるであろう。謂わばこれは一時の静寂に過ぎぬ。努々慢心なされませぬよう」

「無論でござる! この河崎の柵には八百の我が磐井兵が常駐し、昼夜を問わず目を光らせておる! いつ敵の奇襲があろうとも、皆纏めて北上川に突き落とし、蟹の餌にしてやるのみじゃ!」

 雷のような笑い声を上げる大虎殿を呆れながらも頼もしげに見ていた良昭が咳払いし口を開く。

「ところで、国府方におられる経清殿や永衡殿のことであるが」

 二人の名を聞き、流石の為行も顔を曇らせる。

「頼時殿も心穏やかではござらぬでしょうな。吾輩も、貞任殿を娘婿に迎えておる身故、その御心中察して余りありますわい。国府の娘婿殿らもさぞや苦境に立たされておるに違いない。只々、この河崎で敵味方としてまみえずに済むことを願うばかりじゃ」

「いや、拙僧が考えるに、恐らくこの河崎にこそ最初に御二人をぶつけてくるだろう。敢えて敵前に当てることで、敵を身内に持つ二人の国府への忠誠を試すつもりでおるかもしれぬ」

 良昭の懸念を聞き、為行が鼻息荒げ大いに憤る。

「何という見下げ果てた野郎じゃ! もし敵へ走って逃げるようならば背中から射掛けるか、よしんば忠誠を見せたところで矢面に立たせ使い捨てか! あの頼義が考えそうなことじゃ!」

 川の向うまで聞こえそうな声で為行が吼えた。

「金玉の腐った古狸奴! だいたい吾輩は、彼奴が多賀城に赴任した時から、どうも気に食わない、いけ好かない奴じゃと思うておった! 案の定、あいつは気仙ばかりに肩入れする依怙贔屓爺じゃったわ! まったく薄汚い奴よ!」

 鼻息荒げ声を荒げる為行を宥めながら良昭が続ける。

「為行殿。もし、この柵で経清殿らと刃を交わすことにでもなった場合、何とか武士の情けとして、二人を討たずに済む方法はないものかのう?」

「将を射止めれば自ずと兵共は退いていくものだが、御二人が将として先頭きって向かってこられてはそうもいかぬ」

「おそらく、永衡殿は以前我が兄から賜った銀の兜を身に着けて出陣されるであろうから、それを目印に弓を避けよう。武士の情け、身内の情けじゃ、せめて何とか傷つけずに済ませたいものじゃ」

「とはいえ、柵の攻防は混戦となる。弓を避けるにしても限度がありますぞ」

「何か良い知恵はないものかのう」

 二人、腕を組んで考え込んだ。





 同月、国府多賀城。

 

 ――坂東の猛士、雲のごとくに集ひ雨のごとくに来れり。歩騎は数万ありて、輜人戦具は重畳して野を蔽ふ。国内震懼し、響きのごとくに応ぜざるは莫し。


 徹頭徹尾と言えるほど源氏礼賛に終始している歴史書『陸奥話記』には、開戦当時の国府兵力とその士気の高さについて右のように記しているが、果たして本当にこの記載通り地を覆う程の軍勢が多賀城に集い、近隣諸国が悉く国府側についたというのなら、相手が安倍ならずとも今頃とっくに勝負は決していたであろう。

 ところが、現実の多賀城を覗いてみると、半年前と変わらぬ兵力を徒に待機させたまま、頼義は国府の高座から身動きが取れず、苦い顔で膝を揺すっていたのである。

「一体いつになれば朝廷は兵を送ってくるのか!」

 とうとう頼義が激高し大声で怒鳴った。とはいえ、磐井の大虎殿のすぐ後の登場であるから迫力は今一つであろう。遺憾なことである。

「さあ、再三要請はしているものの、未だに返答がございませぬ」

 主の剣幕に恐れ入った様子で佐伯経範が答える。

「このまま待ち惚けておるうちに今に雪が降って来ようぞ。そうなれば、戦は一年繰り越しじゃ!」

 国府の兵力は頼義が率いてきた配下を合わせても五千足らず。即応戦力はせいぜい二三千といったところだろう。

 それに兵糧の問題もある。ただでさえ米の備蓄が心許なくなる時期である上、近隣諸国は頼義の思惑に反して、あまり国府に協力的とは言い難いものであった。その背景には、五年前の鬼切部における国府軍の大敗北があるのだろう。どうせこいつらもまた負けて帰ってくるに違いない。

 なによりも大きかったのが奥羽におけるもう一方の巨大勢力である羽州清原一族が、陸奥開戦を知るや即座に中立を宣言したことであった。これにより奥羽の大部分の勢力がこれに倣う態度を固め、皆高見の見物を決め込んだのである。

「ところで、今朝から源太の姿が見えぬが、何処か?」

「御曹司様は戦線の物見に行くと仰られ、明け方出ていかれました」

「この非常時に、伴も付けずにか!?」

 元親の返答に、頼義が目を剥いて立ち上がる。

「今の御君と同じ御心境でおられるようです。もう居てもたっても居られぬ、と言い残されました」

「そうか。殊勝なことじゃ」

 成程、と納得し、頼義が腰を下ろす。

「しかし、いずれにせよ、このまま援軍を待っているばかりでは埒が明かぬ。冬季に入る前に、諸国への示威としてまず河崎を攻める。気仙にも派兵の用意を伝えよ。経清、永衡両将には前線の指揮を命じる。今のうちに準備を進めよ!」

「は!」

(……遂にきたか。矢張り、思った通り我らを矢面にするか!)

 主の命令に、経清らは心中で唇を噛みしめながら平伏した。



 同日、衣川小松柵付近。


 目印にしている橡の木陰から見下ろすと、岩の上に腰かけ、釣り糸を垂らす娘の姿が見えた。何やら後ろ姿が物悲しい。釣果は渋いようである。

 さて、何処から下に下りたものか――。


 別に釣ろうと思い釣り糸を垂らしているわけではない。こうしていれば何も考えなくて済むから、こうしているだけのことである。

 あまりにも慌ただしく色んな事が起こり過ぎ、何もかも放り出してしまいたくなり、時々こうして竿を担いで一人の居場所を求める時がある。

 その場所が、偶々この河原であっただけだ。それだけのことだ。

 別に、何かを期待しているわけでもない。

 誰かを待っているわけでも――。


「釣れぬようじゃのう?」

「……え」

 はっとして一加が顔を上げた。

「どうして……何故、貴方がここにおられる?」

 振り向くと、あり得ぬ人が笑っている。

「天女が飛び立ってしまわぬか、不安でな」

 そのお顔を、昨夜も、一昨日も夢に見た。これは夢の続きでないか。

「そんな……。もし、見つかったら、……殺されてしまいまする……!」

 口を開こうとして声を詰まらせる。話したいことはいっぱいあったはず。なのに言葉が閊えてしまう。

「居ても立っても居られなかったのじゃ」

 もっとはっきり顔を見たいのに、夢ではないと確かめたいのに、拭っても、拭っても、その人の顔が滲んでしまう。

「もう、貴方には逢えぬものと……」

 ぽろぽろと涙を零す一加を、堪らず胸に掻き抱く。縋り付くように、義家の胸に顔を埋め、声を潜めて一加は泣いた。

「逢いたかったぞ……!」

 義家もまた、目に涙を浮かべながら囁いた。


「そういえばあの女童達、今日は居らぬようだが?」

 腕の中で泣き止むのを待ちながら、義家が問いかける。

「もう、私の後ろをついて回るような歳ではなくなりました」

 少し寂し気に一加が答えた。

「きっと随分背も伸びたことだろうな」

「もう幾年もすれば裳を着せる年頃になりまする」

「はは、早いな。初めてそなたと逢うてからも、もう一年も経つか。あっという間じゃ」

 穏やかな顔で義家が頷く。

 ふと、二人揃って同じことを思い出し、二人同時に吹き出した。

「そういえば、初めて貴方とここでお会いした日の事」

「丁度ここでそなたが水浴みをしていた。また見られぬかと次の日もここに通い、とうとうそなたに捕まった」

 笑いながら、流れの溜りの辺りを指さして見せる。

「ほら、あの辺りからだと、丁度川面に橡の木の辺りがすっかり映って見えるのです。丸見えでしたわ」

「なんだ。今日もそなたがもしや水浴みしておらぬかと暫くそこで隠れておったのに」

「お生憎、今日はもう既に水浴みは済ませておりまする」

「……俺の為にか?」

「え?」

 きょとんとした顔を上げた一加が、見る見るうちに顔を赤くする。

 しかし、そういう気持ちが、一加にも決してないわけではなかった。

 義家が娘の肩を抱き寄せる。

「あ……」

 思わず娘が身を強張らせる。

「御曹司様……?」

「源太じゃ」

「……ん」

 二人の唇が触れている間、一加は暫しの抵抗を試みたものの、やがて諦めたようにその唇から先への侵入を許し、若者に自分の身を委ねた。


 …………


「――源太様、お願いがございまする……」

 余韻のような熱い吐息を漏らし、身体を起こしながら一加が口を開く。

「……もう、此処には来ないでくださいませ」

 衣服を整えながら、立ち上がる義家を見上げ、そう告げた。

「もう、私の為に危ないことをなさらないでくださいまし。次はきっと見つかってしまう」

 涙を浮かべ懇願する娘を見下ろし、暫しして若者が頷く。

「戦が終われば……敵味方でなくなれば、きっとまた此処で逢えような?」

 一加も頷き、暫く無言の視線を囁き合う。

 最期の唇を交わし、夢のように去っていく義家の背中を、一加はその場に座ったまま、見えなくなるまで見送っていた。


 やがて立ち上がろうとした一加は、「痛っ」と叫んで尻餅をついた。

(こ、腰が抜けちゃった! ……どうやって帰ろう?)

 途方に暮れた顔で、川縁の険しい獣道を見上げる。


 もうすぐ夕陽が西の山影に沈もうとしていた。




 その二ヶ月後、気仙勢と合流した国府軍が突如河崎柵を襲撃し、防戦の末に為行ら陸奥勢はこれを撃退した。

 この磐井郡の合戦を皮切りに、陸奥対国府の本格的な攻防が始まるのである。



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