第2章 阿久利川事件 9
翌日。岩手郡厨川、安倍氏居城。
衣川関まで頼義一行を見送った貞任は、自身の本拠地である厨川に戻り、兄真任の居室にて二人で碁を打っていた。真任は兄弟の長男だが生まれつき盲目であり、家督候補からは外されていたものの、穏やかな人柄と鋭い見識から一目置かれており「井殿」と呼ばれ慕われていた。
「いつもながら、よく碁石の色が判りますな」
感心したように唸る貞任に真任が笑う。弟達と同様色白だが、こちらは透き通るような嫋やかな色の白さである。すっと整った艶の匂う顔立ちは髪を解けば麗しい女性と言われても驚かない、安倍の四華と詠まれるかもしれぬ。
「
そう言いつつきちんと白い石を掴んで碁盤に正確に並べて見せる。
「俺はこの通り、目を用いて見ることはできぬが、何も見えぬというわけではない。目を用いてしか物を知ることが出来ぬおぬし等よりも実は余程様々なものを見通しておるかもしれぬぞ。と、これ、悪戯をしおったな!」
こっそり貞任が白石の中に黒いのを混ぜていたのを目ざとく(?)見つけた真任が、顔を顰めながら黒石をひょいひょいと摘まみ出す。
「いや、御見それ致した」
「まったく、童のような戯れをしおって」
恐れ入ったとばかりに詫びる貞任に真任が苦笑する。
その表情が、俄かに曇る。
「……貞任よ。陸奥守は昨日、任期を終えて胆沢鎮守府を去ったと言っておったな?」
「如何にも。来月までには多賀城を退去し上洛される手筈と聞いておりますが……?」
兄の質問に、怪訝な顔をする貞任の視線の先で、真任の表情はますます険しいものとなる。
「胸騒ぎがする。……非常に良くない。……これは、戦の気配じゃ」
その時、ばたばたと慌ただしく廊下を踏み鳴らす音が近づき、息せき切った様子で郎従の男が駆け込んで来た。
「貞任様、火急の伝令が参りました。直ちに衣川まで参集せよとのことです。真任様も一緒に、と!」
「兄上もか?」
郎従の只ならぬ血相に、貞任が立ち上がる。それに真任まで呼び出されるとは、尋常ではない。
「一体何事じゃ?」
主の問いかけに、郎従は血の気が失せた唇を震わせながら答えた。
「陸奥守一行が、……国府への帰路の途中で襲撃を受けたとのことです!」
同日、夜。衣川、並木屋敷。
一族の主だった者が終結した屋敷の広間には、在りし盛夏の宴の陽気さは微塵もなかった。今は冷たい真冬の静寂が、一同の吐息を白く凍らせているばかり。
急転直下に動いた最悪の事態に、皆が重苦しい沈黙に包まれていた。
「……つまり、兄貞任の手下が、我らが見送った後の昨日深夜に、
厳しい表情で家任が高座に就く父に確認する。頷く頼時も眉間に深い皴を刻み静かな怒りに肩を震わせている。
「証拠はあるのでしょうな? 兄上が配下を動かしたという、確たる根拠を示した上での多賀城の命か?」
黒沢尻の柵主、正任が問う。端から証拠などあるものかよと決めてかかった口振りである。
「襲撃を受けたのは、多賀城付の藤原光貞、元貞という兄弟らしい。今、その素性を業近に調べさせているが、その光貞の言によれば、以前自分の妹を嫁に所望した貞任と揉めたことがあったという。それを恨みに思い自分らを襲ったのではないかと証言しておるそうじゃ」
皆が貞任を注目する。
「さてな」
視線を浴びる当人は他人事のように頭を掻きながら思案顔を作る。
「なにぶん、女絡みは身に覚えがありすぎてのう」
ハン、と白鳥の柵主、則任が鼻を鳴らして笑う。
「そもそも、あれほど我らの粗探しに余念の無かった国司様じゃ。明日明後日には任を解かれて上洛されるという絶妙な時に、待ってましたという朗報。まさか激怒されておられるとはな。むしろ飛び上がって大喜びしておられるだろうよ、昨日までの我らのようにな。これを陰謀と言わずして何と呼ぶのか!」
とうとう堪え切れずに、頼時が震えながら怒りの声を漏らす。
「……一体、我らの五年間の忍耐は、何だったのか。あれ程金を注ぎ込んでの連日の饗応は、全て無駄となったか。全ては陸奥の安寧の為と、敢えて一族の矜持を曲げ屈辱に耐えておったものが……卑劣な国府の輩奴を、只々肥えさせてやっただけだとは……!」
そこへ、調査を終えた頼時の腹心、藤原業近が強張った表情を浮かべ現れた。
「件の光貞、元貞という兄弟の素性が割れましたぞ」
深い息を吐きながら報告する。
「父は国府高官、藤原説貞。――気仙に縁のある者のようです」
一同が揃って息を飲む。
恐ろしいほどに全てが繋がったのである。
「……気仙が国府に与したか」
そればかりではない。奥六郡に向けて、気仙は取り返しのつかぬ矢を放った。
もはや国府・気仙との全面衝突は避けられぬ。
「なあ、父上よ」
おもむろに貞任が立ち上がり頼時に問う。
「俺の首では話は済まぬか?」
皆が一斉に貞任を見る。
「国府は俺を名指しで出頭を命じてきたのだろう? ならば俺が多賀城に出向けば済む話ではないのか? 無論、身に覚えのない咎で仕置きを受けるのは癪に触ってならぬがのう」
「駄目じゃ」
父が即答した。
宗任も続けて口を開いた。
「兄上は庶子とはいえ家督の一番候補じゃ。将兵や民らの信頼を最も得ておる。だから敢えて国府は兄上を名指しで狙ったのじゃ。判っておられると思うが、国府は兄上を生かして返すつもりはないぞ。兄上を差し出したところで、次の順番が我らの誰かに振られるだけじゃ。いい塩梅に目方が減ったところでまとめて捻り潰しにかかるに違いない」
「それに、戦となれば我ら陸奥勢を率いて戦う大将は兄上を置いて他に居らぬ。みすみす我らの要を敵に引き渡すことはできぬ」
「はは、だろうな」
笑いながら貞任が腰を下ろした。
「では、もう戦しか道は残されておらぬのう」
唇を吊り上げ重任が嬉しそうに笑う。
「ああ、五年振りじゃ、五年振りに再び倭の輩を屠れるわい。鬼切部でうっかり一人殺し損ねたことが、この五年間ずっと口惜くて口惜しくてたまらなかったでな。ヒャハハ!」
「重任……? いや」
怪訝な顔で振り向くが、すぐに肩を竦める。
「
「だが、重任の言う通り、もはや戦は避けられぬ。五年前もそうであったが、結局、戦う他に道は残されていなかった」
宗任の言葉に、頼時も首肯する。
そして、固唾を飲み自分を見つめる息子達や腹心らを一人一人見据えながら、頼時は厳かに口を開いた。
「事ここに至った今、もはや開戦は避けられぬ。だが、今度は大赦などという幸運は訪れぬぞ。そして、我らが争う敵は国府――即ち、朝廷じゃ。……もし、ここに再び事を起こさば、日ノ本全てを向こうに回し、或いは我らが全て討ち取られるまで、この戦終わらぬものと覚悟せよ! ――息子達よ、最後に問う。奥六郡の平安の為に、我らが民、我らが俘囚の誇りと安寧の為に死んでくれるか?」
応っ! と間髪入れずに全員が力強く声を上げた。
その声に大きく頷くと、奥六郡司、安倍頼時もまた吠え猛るような声で奥六郡全将兵に号令を下した。
「――直ちに衣川関を封じ、全兵力を衣川に集結させよ! 我ら胆沢狼の恐ろしさ、今一度多賀城の国府軍に思い出させてくれようぞ!」
時に天喜四(一〇五六)年、二月。
ここに、安倍頼時率いる奥六郡と国府多賀城は、五年の沈黙を経て再び全面戦争に突入した。
これが世に言う阿久利川事件である。
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