第14話

 まずは荷物を下ろして上着を脱ぐ。


 ミクルちゃんの見ている前だが、ズボンも下ろす。





 どこかで聞いた話で、『服を着て泳ぐと水が服に浸透しんとうして重くて動けなくなる』というのがある。


 実際に試した事が無いから分からないが、用心に越した事は無い。





 そして柔軟じゅうなん体操たいそうで全身をほぐす。





 これもどこかで聞いた話だ。


寒中かんちゅう水泳すいえいなどは、先に身体からだをほぐしておかないと、ツってしまう』と。





 時間が無いので手早く、それでいて隅々すみずみを伸ばす。





 これで身体からだの準備は完了!


 心の準備は、とっくに出来できているッ‼





「じゃあ、行って来る! 必ず連れて戻って来る‼」


「うん! お願い、お兄ちゃん!」





 橋のさくから、てのひらを合わせて、真下ましたに、頭から垂直すいちょく落下らっか



 大きな水飛沫みずしぶきを上げて身体からだしずむ!





 まず、最初に感じたのは、高所からの飛び込みの衝撃や寒さより、のどような痛み。


 口の中に入った水が冷た過ぎてのどしもけを起こしたみたいだ。





 これは予想外の展開だ。


 水面すいめんに顔を出して空気を吸い込むが、外の空気も冷たく回復が遅い。





 続いて、身体中からだじゅう火傷やけどしたよう感触かんしょくおそう。


 身体からだの方もしもけを起こしてきたようだ。





 これは心がれそうになる。


 今直いますぐにでも陸に上がってだんを取りたくなる。





 だけど‼





「なろうッ‼ このくらいの寒さで、ミクルちゃんの世界を壊せると思うなッ‼」


 大きく叫んでから深く息を吸い込み、水の中をける。





 泳法えいほうはクロール!


 一番早い泳ぎ方と言われるスタンダード!





 自分でも驚く程のスピードで目標に進んで行く!


 おのれに、これ程の躍動やくどう宿やどっていたとはつゆと知らなかったが、今はそれが心強い!





「ガンバレ! お兄ちゃん‼」


 ミクルちゃんの声援せいえんが背中を押す!





 ハッ! コレで元気が出なくて、男の子かってんだ‼





 目標まで、あと二十メートル弱!


 コレなら行ける‼





 大きなストロークと全力のキックで、目標まで、あと、五、四、三、二、……。



要救助者ようきゅうじょしゃ確保かくほッ‼」





 左手におぼれていた犬をつかんで、ミクルちゃんの方を振り返る!


 よし、後は戻るだけ……。





 そこで気付く……。


 出発点は橋の上だったが、ゴールは岸だという事に……。





 現在地は海中のド真ん中。


 橋の下の海とはいえ、海の上にある『海と共に暮らすモデル都市』という売り込みの水上都市である樽中市たるなかし建築物けんちくぶつの下にあるだけあって、此処ここ白鷺しらさぎばしの下の水深は深い。





 その上、この白鷺しらさぎばしは、休日で船も通らない上に、さっきミクルちゃんが言った通り、橋そのものにも、オレたち以外の人通りが無いため、他の誰かに頼る事などまるで出来できない。





 仮にもし橋を通る誰かが他にて頼れたとしても、橋の鉄筋には、構造的こうぞうてき欠陥けっかんとしか思えず恨めしいが、何処どこにも梯子はしごなど無く、登るなど、長く丈夫なロープでも用意してもらければ不可能。





 だから、この橋の左右の橋の入り口に面していて梯子はしごが用意されているコンクリづくりの橋の両岸りょうぎし。それらの人口の岸だけがゴール足り得る。





 その上、出発地点が橋の中央だったせいで、左右どっちの岸もかなり遠い。


 岸に上がるためには、左右どっちに進路を取っても、目算で五〇〇メートルは泳がないとならない感じだ。





「クッ! だけど要救助者ようきゅうじょしゃはオレの手の中なんだ! 岸に上がれば、それで救えるんだ‼」



 覚悟を決めて進路を左に取る。


 左右どっちも余り変わらないが、こっちの進路の方が幾分いくぶんマシに思える。





 幾許いくばくか進んだところでさらなる苦難くなんを感じる……。


 左手に犬を抱えたままだから右手でしか水をく事が出来できない。





 そのために泳ぎ方はおのずと変形へんけい平泳ひらおよぎになりスピードが出ない。



 しかも左手が重い!





 犬は小型犬で数キロくらいの重さだろうけど、水の中で抱えるというのは、その数倍の重さのように感じられる。



 この犬も、一生懸命いっしょうけんめい犬掻いぬかきをしようとしているが、逆にコッチの泳ぎがさまたげられる。





 すで身体からだしもけが隅々すみずみまで発生しており、それらのしもけはなおらず、途轍とてつもなくきびしい痛みを全身の奥の奥までつたわせる。





 岸までは、あと二〇〇メートルほど……。


 なかばはぎたが、正直キツい……。





「お兄ちゃん! もう少し! もう少しだよ‼」


 ミクルちゃんが橋を移動しながら声援を掛けてくれる。





 クッ…このくらい難関なんかんで! 負けてたまるかよ‼


 ミクルちゃんのお兄ちゃんなんだからよッ! このオレはッッ‼





 気合を入れ直して速度を速める。


 だが、体力も限界で、息継いきつぎの間隔かんかくも早くなる。





 もう少し……。


 あと一〇〇メートル……。


 五〇……二五……。





「うおらァーーッ‼」



 最後の気合で速度をさらに速める。


 渾身(こんしん)のキックで岸までの距離を一気にめ!





「だっしゃァーーーッ‼」



 今、ゴールインッッ‼





「ハァ…ハァ…ハァ……。」


 いきおいのまま梯子はしごを上り、岸の上で、しばし空気をむさぼる。



 犬の方も、やっと地面をめられてホッとしている事だろう。





 コイツ、やっぱり右足を怪我けがしているな。


 泳いでいる時は確認する余裕が無かったが、コイツも良くガンバったもんだ。





「お兄ちゃん! スゴイ! スゴイよ‼」


 そこでミクルちゃんが合流ごうりゅうしてた。


 ちょっと目が赤くなっている。


 どうやら応援の途中で少し泣いちゃったみたいだな。





 ハハ、そこまで応援してもらえたんだからさっきの苦難くなんなに文句もんくいな。


 ってるミクルちゃんに、英雄えいゆう帰還きかんとは思えない弱々しさで手を振って答えた。

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