フクロウの仮面
顔を隠すものが必要だった。
それが医療用のマスクでも、そのあたりの子供が捨てた布でも、マルクスとしての僕をなくしてしまえるものならなんでもよかった。それなのに、たまたま露天で買ったフクロウの仮面は、今や僕のシンボルマークになっている。
本当の僕ではない、コードの声を使った僕のシンボルマークだ。
手作りと思われるフクロウの仮面を付けた子供たちが、手首から先が飛んでしまいそうなほど手を振ってくれた。
「コルクさん、今日はありがとうございました。」
舞台裏に戻った僕に挨拶に来た初老の男性は、僕を見て深々と頭を下げた。
コルク、というのは僕の偽名だ。コードとマルクスでコルク。身元がばれたくないという僕に対する配慮で、コードが考えたものだ。
「いえ、そんな、僕の歌で喜んでいただけるのであれば」
白いひげをこれでもかと伸ばしたこの男性は、今日の会場である孤児院の院長だという。
「これが今日のお礼です」
院長は懐から茶封筒を取り出すと僕のほうに差し出した。今日はボランティアでの出演だったはずだ。
「あの、そんな、受け取れません」
「素敵なものには相応の対価を払わねばなりません」
「ですが、今日はボランティアで……」
「いいですか。私とあの子たちはあなたの時間をいただいて、幸せをあたえていただきました。お金には変えられないような尊いものです」
院長は僕の手に茶封筒を握らせながら言葉を続ける。
「けれども、私たちの感謝をせめて見える形にしようと考えると、お金になってしまうのです。持っていてください。きっといつか、あなたの助けになる」
「あ、ありがとうございます」
院長から触れられた指先から悪寒が走って、僕は思わず後退る。大事なことを言われている気がする。いいことを言われている気がする。けれども、触れたところから腐り落ちていくような感覚に耐えられそうになかった。
「すみません、少しお手洗いに」
そう言ったのは、僕ではなかった。
コードの言葉に従って、頭を下げたあとトイレに向かう。仮面を付けていて良かった。きっとひどい顔をしているはずだ。
個室に入って慌てて仮面をずりあげると、好意で振る舞われたお昼ご飯が音を立てて沈んでいった。汚れた水に写った顔は女性のようで、父の言葉を思い出させる。
院長に渡された茶封筒をポケットにねじ込んで個室を出る。あの人はきっといい人なのだ。だってこの施設の子供たちは一人残らず幸せそうなのだから。父親のいる僕とは比べものにならないだろう。
孤児院を後にして廃墟にたどり着くころには日が暮れていた。
コードが案内してくれた安全で見つかることのないという部屋にフクロウの仮面をしまい込む。古びた木箱の中に茶封筒を放り込むと、すぐに他の封筒と混ざってどれだかわからなくなった。
人前に出るための服を着替えていると、コードがため息のような声を出した。
「今日も帰るのか?」
「僕の家はあそこだから」
「化け物の巣じゃないか」
いつものみすぼらしい服に着替えて、天井を見上げる。ぽっかりと空いた穴からは、月も星も見えない。
「化け物でも、家族だ」
自分に言い聞かせるようにそう言うと、コードは何も言わなくなった。
化け物だと言うなと怒ることができたなら、どんなによかっただろう。
家に帰ろうとする両足には鉛がついているようだ。孤児院での子供たちの笑顔と尊敬のまなざし、向けられる拍手、院長からの言葉、沈みそうな意識に投げられた浮き輪のような出来事にしがみついて、僕は帰路を急いだ。
歓楽街を通り抜け、途中の路地に入る。嘔吐している男性の横を素通りして、今にも崩れそうな集合住宅の階段を上った。
一歩、また一歩と進むたびに、これが夢ならばどれだけいいだろうと考えてしまう。
僕の家は、三階の一番奥だった。最上階で、隣も下も空いている。
「遅い」
部屋に入った僕を待っていたのはこの家の主だった。コードが、化け物と呼ぶ僕の父だ。
壊れておかしな色をしたテレビが明滅を繰り返している。
「こんな時間まで何をしていた?」
答えることができない僕が黙っていると、大げさにため息をついた父が呼吸でもするかのように僕の頬を打った。聞き慣れた音が部屋に響いて、部屋の空気が乾燥しているなとくだらないことを考える隙を与える。
「こっちにおいで、マルクス」
父の顔は、造形が良い。
切れ長の目はセクシーだし、きゅっと結ばれた唇はミステリアスな雰囲気を醸し出している。身長も高くてスマートだし、清潔感もある。さらに世間体が大事で外面が良く、仕事もできるときた。その辺の女の人ならばきっと父を放っておかないだろう。それでも僕の母が出て行き、今でもこんなところに隠れ住んでいるのには理由がある。
「お前は今日も可愛いね」
父は僕のことが好きなのだ。いや、僕を通してみる過去の自分と美しい僕の母が。
「白い肌は誰に似たのだろうね。その瞳も、ああ、鼻筋も綺麗だ」
僕の髪から頬、鎖骨へと唇を這わした父が、服というには布に近すぎる服に手をかける。僕が少しでも身じろぎをすれば容赦なく平手が振ってくる。脇腹にある煙草でできた火傷の痕をなぞる父の表情が、僕はたまらなく恐ろしかった。
「マルクス、マルクス……」
毎日のことだった。
父に愛されているのか、嫌われているのかはわからない。切なそうな表情を浮かべたまま僕の頬を打ち、首を絞める父が、愛しそうにキスを振らせてくる。今日こそ殺されてしまうのではないか、何度そう思ったことだろう。最初はそれが恐ろしかったのに、いつの間にかその日を心待ちにするようになってしまった。今日こそ殺してもらえるのではないかと。最近はまた、殺されてしまうかもしれないと怯えるようになった。
夜は、長すぎる。
その間、コードは一言も発さずに黙っているし、僕に声を使わせようともしない。助けてと叫んだところで、誰も来てくれないことは僕が一番よくわかっている。そのために父がこの場所を選んだのだということも。
僕にできることといえば、目を瞑って太陽に祈ることくらいだった。
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