マルクスの仮面
入江弥彦
浮かび上がる声帯
浮いていたのは、声帯だった。
声帯を見たことがあるわけではないけれど、彼自身がそう名乗ったのだ。
「おっと、気を確かに持ってくれよ? 見ての通り肉体がないものでね、倒れられたら介抱しようがない」
声帯は小さな全身を震わせながら、呆然と立ち尽くす僕に対してそう言った。甘く、凜と澄んだ声だ。何かを答えなければと口をパクパクしている僕の様子をうかがうように漂っていた声帯が、ぐっと首元に近づいてくる。
「おや? もしかしてしゃべれないのかな?」
うなずきながら首を振ると、声帯が僕の首に触れた。
言葉がわからないのではない。声が出ないのだ。それを上手く伝えようと思ったのだが、文字を書くことができない僕にはその手段がない。
「ちょっとだけ、私を借りてみるかい?」
その声が聞こえると同時に首のあたりが一瞬圧迫される。
「う、わぁ!」
驚いて口を開くと、僕の物ではない声が漏れた。
「え、な、なに?」
動いているのはたしかに僕の口だが、発せられるのは僕が十六年間付き合ってきた声ではない。とはいっても声のでない生活を三年は続けているので、付き合いは十三年間か。
「これは、あなたの声?」
姿が見えなくなった声帯にそう問うと胸のあたりが震える感覚がして、体の内側から音が鳴った。
「そう。私が身体を震わせれば君が声を出せるだろうと思ってね。君の名前は? どうしてこんなところに? ここは人が来る場所じゃない」
「僕はマルクス。この廃墟には、いつも逃げてくるんだ。ええっと、声帯さんは……」
「声帯という呼び方は呼びにくいだろう。私のことはコードとでも呼んでくれ」
そう言ってコードは、身の上話を始める。どこから逃げてきたのかとか、僕の声がでない理由を尋ねてくることはなかった。
わかったのは、彼が志半ばに死んだ青年であるということ。それは今よりずっと昔、この廃墟が実際に使われていた時代のことだということ。それから、この廃墟はたくさんの人が住む集合住宅のようなものだったということ。勝手にこの場所のことを病院か何かだと思っていたものだから、これには驚いた。
「それで、提案なんだけども」
「提案?」
「マルクスの身体を私に貸してくれないだろうか?」
「え……?」
乗っ取るということだろうか。そう思って身構えると、ああ違うよとコードが続きを話し始めた。
「私にできることといえばせいぜい声を出すくらいだ。マルクスの体を自由に動かすようなことはできない。そんなことができるのであればこんな提案はしないさ。なに、悪い提案じゃない。マルクスだって私の声帯を借りてしゃべることができるようになる」
嘘を言っている風ではなかった。僕は人よりも少し、誰かの悪意というのに敏感だ。コードの言葉からは何も悪いものを感じない。普段僕と接している人たちの方が、よっぽど悪だ。
「僕が体を貸したとして、コードは何がしたいの?」
コードに肉体が残っていたのならきっと満面の笑みを浮かべていたのだろう。こんな素敵な声の持ち主なのだから、きっと甘いマスクをしていたに違いない。
「私はね、歌が歌いたいんだよ」
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