第47話 なんもせん

 材料はおろか鍋すらなかった。こんな時柏木商店なら一発で全部揃うけど、このアパートの近くのショッピングモールというのも便利なもんで全部を揃えられた。ははあ、都会はちがう。


「何肉派?」


 試しに訊くと「あほか」と返された。


「柏木家のカレーは豚じゃろが」


 嬉しくなってふふ、と笑って、奮発せずにいつものランクの豚肉をカゴへと入れた。



 いつものような大鍋、というわけではなく、普通サイズの手鍋で量もいつもの半分。でも香りはいつもと同じ。味も……同じかな。


 お皿もない、というので適当なものを鍋と一緒に調達して来た。もちろんスプーンも。


「普段なに食べよるんよ」


「外メシばっか」


 男の一人暮らしというのはそういうもんなんか、と驚くばかり。誠司やから、というのもあるやろうけど。


「体壊すよ」

「俺が自炊なんするか」

「……たしかにね」

「作りに来てもええで」

「はあ? だれがよ」

「カレーなら毎日食える」

「カレー以外も作れるわ」

「じゃあ明日は生姜焼きで」

「はあ!?」


 言い合いながら、じゃれ合いながら、褐色のとろとろを真っ白な炊きたてご飯にたっぷりとかける。


「どうぞ。召し上がれ」


 目の前に置いてやるとかつての悪ガキ誠ちゃんは当時そのままの顔に戻って「おっしゃー」と目を輝かせた。


 ひと口、ふた口、そしてあっという間に全部。「ゆっくり食べなよ」と呆れて言うと「やっぱこれやなあ」としみじみ呟いた。「おかわり」


「……美味しい?」


 訊ねるとまだもぐもぐしながら「ほん」と返してくる。


「深み、出た?」


 病院であげた時は「深みがない」とか言われたから。すると誠司は「ああ」とその日のカレーを思い出したように言う。


「たしかに、あれからかなりいろいろ経験したもんなあ、真知は」


 酸いも甘いも……、とにやにや言われて不快やった。


「誰のせいで」


「俺のじゃ」


 言い直されて更に腹が立つ。


「ほんならお詫びも済んだしそろそろ帰るわ」


 反撃も兼ねてそう言って立ち上がると「泊まる、ちて連絡しといたぞ、おばちゃんに」とカレーを頬張ったまま思いもせんことを言い出した。


「は!?」


 なにを勝手に!


「よろしうねー、ちて言われよるもん、帰さんぞ」


「ちょ……」


「それに」


 言いながらカレーを飲み込んでついでにお茶で流した。


「どうせ明日そっちに帰るつもりやったもん、ついでに乗って帰ったらええ。俺の車で」


「明日……? なんかあるん?」


 私が訊ねると誠司は一瞬キョトンとしてから答えずに「おかわり」とお皿を寄越した。


「おなか破裂すんで」


「そん時はよろしう」


 まったく。この勝手男のどこにみんな惚れよんかほんまにわからん。


 わからん、はずやった。


「真知」


「なに」


「ふ、なんもない」


「……はあ?」


 言いながら理解した。長年の付き合いやもん、そうでなくてもこの顔を見たらすぐわかる。


 誠司はあんまりに幸せな時、用もないのに呼ぶんよね。嬉しいんが滲み出よるその顔で。まったくカレーくらいで喜びすぎじゃわ、もう。


 ああ、そうか。ここで『かわいい人』と思ってしまえば私の負けなんや。相手の思うつぼ。詐欺師の毒牙にかかる。


 わかっとる。わかっとるけど────。


 幸せそうにこんなことまで言われたら。


「あー、美味かったなあ、腹いっぱい」


 悔しいけど、やっぱり好きや、ち思ってしまう。


「なんや、赤い顔して」

「赤くないし、なんもないわ」


「ははん。惚れたんか」

「どっから来るんよその自信は」


「やめとけ。久原 誠司だけはあかん」

「……まだそんなこと言うん」


 こんなに好きにさせといて。


「……やっぱり帰るわ。今から」

「はあ? なんでじゃ」


 止められんようになるからよ。


「悠吾のオムツも足りんし」

「買いに行けばええじゃろが」


「夜泣きするし、近所迷惑」

「近所にも赤ちゃんおるわ」


「……着替えもないし」

「真知」


「さっきの、リナちゃんにも悪いし」

「真知」


「私はあんたの彼女とちがうし」

「心配すんな」


「……なにを」


 なんの心配や。いろいろあるけど。


「なんもせんわ」


 なんも……? って?


「大丈夫や、なんもせん。もうなんもせんわ」


 その顔を見上げると、相手はまっすぐな目でこちらを見ていた。


「もう傷つけるようなことはせん」


 そうして、ふ、と笑って「まあおまえがどうしてもやりたい、ち言うんならしゃーなし相手するけど」とからかいの眼差しを向けてきた。アホ。


「……なんや。またちゅーしたいん? したらさすがに止めれんなるぞ。前みたいに」


 あー。今日は我慢しとこと思ったけど、しゃあないなあ、と迫ってくるから「もう、からかわんとって!」と全力で押しのけてやる。相手は「はは」と嬉しそうに笑って「うそ。もうせん。風呂入ってくる」とそのまま部屋を出ていった。


 んん。ほら、また『好き』が増えてまう。

 ……ずるいわ、誠ちゃん。


「悠吾のおとうは、ほんまに罪な奴やなぁ……」


 静かになった部屋ですやすや眠るミニ誠司の横顔に小さく呟いた。


 その夜、誠司はほんまになにもして来んかった。


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