第45話 クズはあんた

 会計と次回の予約を済ませて小児科から出た。ほぼ無意識に視線は産婦人科医院の方に向く。自動ドアにもその付近にも、人の気配はない。


 梅雨の季節は雲が厚く、白かった空はさっきよりも暗く灰色がかっていた。駐車場の隅で青色の紫陽花がぬるい風に揺れる。


 見間違いであってほしかった。優しかった彼。信じていた彼。何度も自分との未来を想像した相手。


 新婚の夫婦の雰囲気。

 少し膨らんだお腹。


 妊娠何ヵ月くらい? 私らが別れてから、何ヵ月経った? え、まさかこれって。


 ──浮気?


 かき消してもかき消しても、その二文字が頭から離れん。


 あかん。勘ぐるのはやめよう。俯くようにして抱っこひもの中ですやすや眠る悠吾に視線を向けてから帰路へと進んだ。


 その時。

「真知ちゃん」


 なんで……声かけよるんか。


 弾かれたように振り返ると、産婦人科の自動ドアの横の奥、見えづらい所にその姿を見つけた。ふんわりとした髪、小型犬のような愛らしい顔。それは間違いなく彼、瞬くん。けど今日の彼が纏う空気は、私の知るものとは全く違った。


 片手に、タバコ。まさかと思った。私の知る彼は喫煙はせんはず。しかもそこは産婦人科のそば。敷地内は全面禁煙というのに。


「……ちょっと、タバコあかんでしょ。禁煙区域よ」


 声は震えた。相手は「あは」と不敵に笑って「はいはい」と言いながらそれを片付ける。


 姿は、瞬くん。でもこれは、私の知る瞬くんやない。怖い。ぞくりと寒気がした。


「大きなったね。誠吾せいごくん、やっけ」


「……悠吾やよ」


 硬く返すと「ああそうか」とまたへらりと笑う。


「……なんで、ここにおるん?」


 訊ねるのも恐ろしい気がした。けど訊ねずにもおれん。すると相手は「あれ?」と意外そうな顔をして「聞いてないんや」などと言う。


「秋に父親なるんよ。俺も」


 どきん。


 なんと答えればいいんかな。「おめでとう」? まさか、言えんよ。だって秋に、ってことは、悠吾が生まれたあの時にはもう……。


「ああ、知らんかったなら結構ショックやわな。ふは、ごめんごめん」


 なおも笑う相手に、声が出せんかった。


「誠司さんからとっくに聞きよると思ったわ。なんやあの人結局、ヨリ戻してくれんかったんや? せっかく俺が頼んだのに」


 瞬くんは産婦人科の待合いを窓からちらりと覗きながら続ける。


「けどそんならほんまに殴られる筋合いないよな。あー、まだ腹立つわ。自分もたいがいやりまくりよるクズのくせに」


「な……」


「いくら最低でもやってもた責任は取らんと。それが道理ってもんやろ。それを、はは、他人の俺に押し付けられてもねえ」


 笑いながら言う彼の顔は、見たことない表情をしていた。見たことない、別の人の顔をしていた。怖い。ちがう。こんなん、彼やない。


「ちうか、生まれてみたらほんまに誠司さんそっくりやもん。は、笑ったわ。さすがに自分の息子として可愛がれんって。しかもあの不良の遺伝子が半分やろ? こわ。勘弁やで」


 もう、気持ちが悪い。私、騙されよったん? つまりこっちが本物ってこと?


「浮気……してたん」


 今更訊くのも無駄な話やけど。


「真知ちゃんのこと好きやったんはほんまやで。けど妊婦さんやもん、そういうことする相手にはできんやん。やから……ね。つい」


 つい、って。なに、それ。


「女の人、慣れてないんやなかったの」


 初対面で緊張に震えていたあの姿も、お芝居やったん? 嘘やったん?


「慣れてないさ。数えるくらいしか経験ないよ、俺は。誰かさんとはちがうよって」


 誰かさん……。


「ほんの出来心やん。まあ女の人にはわからんかもな。でもまあ真知ちゃんなら、浮気のこと話しても許してくれる、ち思てたけどね。なんせあんな相手の子ども、産んだげるような健気な人やもん」


 ……こいつ、なにを言う? もう話を続けるのも嫌やと思った。


「真知ちゃん、今からでもちゃんと誠司さんに責任取ってもらい。まあ俺が言うのも変な話やけどさ」


 言ってから再び待合いを覗いて「終わったらしいな」と呟くと「ほんじゃ」と片手を挙げた。


 去ろうとする相手の背中に、「瞬くん」と呼びかけた。


 振り向きざまに、重量のあるママバッグでバゴン! とその腕らへんを思いきしぶった。ほんまは顔を殴ってやりたかったけど、届かなんだ。


 瞬くんは少しよろけつつ「った」と笑う。


「誠司とあんたは、全然ちがうわ」


 もう話したくもない、そう思いながら、言わずにおれんかった。言ったらやっと涙が出た。


 それでも相手は「へえ」とまだ笑いながら「あんな相手クズ庇うんや?」とこちらを見てくる。


「『クズ』は、あんたよ」


 甦る、優しかった瞬くんとの記憶。それをぜんぶ、ぜんぶ、太い黒色でバツにする。


「もう二度と……私の前に現れんとって」


 ああ、そうなんや。それで誠司は、あんなに怒ったんや。瞬くんの本性を知って。私を想って。


 なのに私は──。



 会計を済ませたらしい瞬くんの相手の女の人が出てきて私たちはそのまま素知らぬ顔をして離れた。「知り合い?」と訊ねる声に「道聞かれただけ」と答える微かなその声を、背中で聞いた。


 涙はもう乾いた。


 私、誠司に会わなあかん。

 ちゃんと話して、謝らなあかん。




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