第33話 素直になってみ
半分だけ閉めていたベッドのそばのカーテンがシャッと音を立てて突然開いた。同時に、ツカツカとヒールを鳴らして綺麗な女の人がいきなり入ってきて私の前を通り誠司に近づく。と、その瞬間誠司の頬を思いっきりバッチン! と叩いて「アホ!」と叫んだ。そして唖然とする私に向き直ると「あなたも騙されてますよ!?」と私の鼻先を指さしながら涙目で言い置いてそのまま走り去った。
……はい?
「……う、なにあれ」
訊かずともだいたい予想はつくけど。
「ミナちゃんや」
「名前聞いたんちゃうわ」
「今カノ言うか……元カノ言うか」
予想通りの答えにこの日いちばんのため息が出た。息ちいうか、もはや声。
そりゃあよ、心配して彼氏のお見舞いに来たいうのに当の彼氏本人が他の女の人に「死ぬ前のメシ頼む」なん言いよったらどんな女神でもああなるわ。気の毒に……。
目の前の最低野郎はそんな私の反応を見ても何食わぬ顔で叩かれた頬をひりひりとさすっていた。
「ほんま変わらんね、あんた」
何度目のことか。いい加減学習せんのか。
「変わったじゃろ、こんに」
言いながら髪や姿を示す。
「中身の話よ」
「中身も」
「どこが!」
「あー。残念やなぁ。今度海行こ、ち言うてたのに」
「追いかけて謝ってくれば?」
「いい」
「でもこのまま終わりなんて。私らそういう仲ちゃうし、なんなら誤解やん」
「ええんじゃ。俺とおったらあの子も幸せんなれんよって」
「え……」
その顔を見ると叩かれた跡が頬にくっきり付いていた。うわ、これは痛そう。
「おまえも山ほど見てきたじゃろが。俺に泣かされよる子らを」
「まあ……」
どの口が言うか。とは言わんことにして、代わりに訊ねた。
「……自覚、あるんや?」
「あるわ。何人にビンタされよるち思う」
なんの自慢にもならん。たしかに昔から頬を腫らす誠司はことあるごとによく見かけた。
「せやから、おまえとは付き合わん。おまえが泣かされよんを、俺は許せんよって」
「……はあ?」
意味がわかるようで、わからん話。
「けどな……最近は、おまえがもたもたしよるからもどかしいてしゃあないんじゃ、こっちは」
「……え、なんのこと」
「おまえのことじゃ」
ますます意味がわからん。
「早よ相手見つけてさっさと結婚でもなんでもしやぁ、俺も自由にやれんのに。いつまでものらりくらり独身でふらふらしよって。腹立つ」
「ふらふらなんて」
「定まってないんは事実やろが」
「う……でもなんで。私がどうであれ、誠ちゃんはいつでも自由でしょ?」
そうよ。なんで私が腹立てられなあかんのか。今だって、あんな綺麗な彼女がいたくせに。
「……真知」
呼ばれてその目を見ると、思いのほか熱があって慌てて逸らせた。
「……?」
なに、これ。心臓がうるさく鳴る。まさか私、誠司にどきどきしよる?
まさか。そんなわけないもん。
「なあ。今なら浮気やないで」
「……はあ?」
「フリーや。珍しく」
なにを言い出すんか。あかん。あかん、あかん! 誠司の目が見られんようになって慌てて荷物をまとめ始める。
「……ほ、ほんなら、そろそろ帰るわ。明日も仕事あるし、スプーン取りに来ただけやし」
「真知」
どきん。
呼ぶな。アホ……。
「今日だけ、お互い素直になってみる?」
「……どういう意味?」
「こういう意味」
言いながら誠司は怪我が嘘のようにすんなりベッドから降りて立ち上がると、戸惑う私を窓辺の壁にずい、と追い詰めてそっとその唇を、
重ねた────。
……へ。
へ。へ。へええええええ!?
「……嫌?」
……。ずるいこと、訊く。
嫌なわけやない。でもこんないきなり。
「……ちょっと、待ってよ」
「は。待てんわ。もう遅い」
そう言うと誠司は私を抱き寄せて、そしてもう一度キスをした。今度は、深い、本気のキスを。
あかんっ……。全身が痺れるような、溶けるような感覚。抵抗なんか出来るはずなかった。ちうか、抵抗する気が起きんかった。
だって、嬉しかったから……。
え、でもなんで嬉しいん? 私。
だって誠司となんて……。
「……好き?」
「…………」
あかん。顔が見られん。
「なあ」
覗き込まれて、仕方なく目を合わせる。
「好きか」
今日だけは、素直に……。
「………………うん」
頑張って答えたのに、相手はなぜか不満らしくてこんなことを言う。
「『うん』やのうて、好きかち聞きよる」
く。ほんまにこいつは。
「ん……なんなんよ」
「好きか」
熱い。顔が熱いし、全身が熱い。こんなこと、ほんまに人生で一度よ。
「…………うん。……好きよ。むっちゃ好き」
だからあんなにも心配で、あんなにも押しつぶされそうになって、それで、……こんなにも嬉しいんや。
そうや。私は。誠司のことが────
すると誠司は、ふ、と嬉しそうに微笑んだかと思うと「よし」と勝手に頷いて棚からカバンを取り出し、そのあたりの荷物をどんどん詰め始めた。
え、待ち。なにが始まる?
唖然とそれを見つめるとあっという間に片付けて普段着へ着替えまで済ませてしまった。……って、まさか!?
「おし。行こか」
「は!? え!? どこによ」
「俺の家」
ドキン、と顔を赤くしよる場合やない!
「は、アホ、退院まだでしょ!?」
「今日も明日も一緒や」
そしてお腹の傷部分をすら、と撫でて「うん。治った」とにやり笑う。ああ、ほんまにアホ。
「行くで」
けどこうなったらこの男はもう止まらん。私なんかがなにを言おうが、騒ごうが。コソコソするんかと思いきや堂々とナースステーションにも挨拶しよるし。もう、ほんまに。
そうしてちょうど来たバスに乗って、あっという間にアパートへ着いてしまった。
そう。着いてしまったんよ。
ほんまの二人きりに、なったというわけ。わかっててこの野獣にのこのこついてきた私がアホ? ああ、ほんま。そうかもしれんね。
部屋の間取りや様子もようわからんままに、ろくに会話もなくそれは再び始まった。不慣れな私と全然ちがって、呆れるくらいに上手なキス。
そうして私は、誠司の部屋で、あっという間に誠司でいっぱいになっていた。
「……嫌?」
まだ間に合うで、って、それはなに? 優しさ? そりゃあかんよこんなん。だってあんたは私と付き合うつもり、今後もまったくないんでしょう? でも。でも。
「…………嫌じゃ、ない」
こんな状況になってから冷静に考えるなんてこと出来んかった。あの誠司となんて。有り得ん。恥ずかしすぎて死ぬ。けど身体がもう求めよるもん、離さんといてほしい、もっと触れてほしい、って。
「ふ。かわいいな」
悔しい、けどもうどうにも出来ん。余計なことはもうなにも考えたくなかった。
誠司が、好き。
有り得ん。そう思う反面、私は、私らは、ずぅっと前からこうなりたくて、それが今日やっと叶ったような気さえしていた。
明け方まだ暗いうちに、隣で眠る誠司の腕をそっと抜けて支度を整えるとひとりアパートを出て始発のバスに乗った。
金色の朝日に照らされる帰り道、心には幸福感や高揚感もあったけど、ああ、やっぱり罪悪感も同じだけあった。
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