第13話
諒が連れて行かれたのは東京都内にある十階建のビルだった。
「諒さんの荷物はここに置きますね。手持ちの荷物はこちらのサイドテーブルを使ってください」
有馬は諒の荷物が入ったダンボールを机の脇へ下ろして言った。
その机は仕事で使うにはクラシカルな雰囲気で随分と高級そうだった。果たしてこの机の使用意図は事務机であっているのかと疑問に思うが、有馬の会社の社長室には何一つ違和感なく存在できるのだから合っているのだろう。
彼は諒を迎え入れる準備をしていたようで、諒専用の道具箱ならぬ棚を用意しており、諒は言われた事をしていただけで午前中に引っ越し作業がすべて終わっていた。
「予想以上に早く終わりましたね。少し休憩しましょう」
そういうと社長自ら備え付けられていたコーヒーメイカーで珈琲を淹れた。
「あの、私がやります」
「今日は私が。諒さんには明日からはお願いしますから」
そうにっこり笑う有馬に諒は連れて来られる間ずっと考えていた疑問をぶつけた。
「……どうして、私なのでしょうか。志乃さ、いえ、有馬社長に就きたいと考えている秘書の方はたくさんいるのではないでしょうか。それに私は秘書は未経験で……」
「でも秘書技能検定、持っているよね」
「確かにありますが、準一級です。まだ本職を務めるほどでは」
「大丈夫。気になるなら仕事をしながら一級の受験しても良いですよ。でも諒さんには必要ないように思いますけどね」
有馬は諒を応接セットのソファへ座らせるとコーヒーカップを渡し、自身は近くのデスクにもたれ掛かりながらコーヒーを口に入れた。
諒の出向先は有馬がまとめるTOコーポレーションだった。
突然の辞令に戸惑う諒を攫うように、有馬はすぐさま自身の会社へと連れて行った。
そして彼から伝えられた業務内容は諒が予期しない社長秘書だったのだ。高卒から入社した会社では総務の仕事しかしていなかった諒にはハードルの高い仕事だ。
確かに諒は高校時代に秘書技能検定を受け、準一級の資格を所持している。しかしそれは少しでも履歴書に書ける事を増やしたかっただけで受けたものだったので、その職に就きたかったわけではない。先生に勧められたままに受験しただけだ。
それに有馬の会社事情も知らず、なんの知識もない状態で連れて来られたものだから諒は自分が如何に危ういのか、責められているわけでもないのに針の筵に立っている気分になっていた。
だから有馬から頂いたコーヒーカップを握る手が強くなるのも仕方がないのかもしれない。
そんな諒の様子をつぶさに見ていた有馬はカップをデスクに置いて、諒のソファへと近づいた。そして彼女の前で膝を折り、顔を覗き込んだ。
「不安に思う事はない、そうキミに言っても真面目な諒さんの事だから不安に思うでしょう。けれど本当に何も心配はいらないんです」
そう言うと有馬は諒を安心させるように笑った。
「秘書なら他にもいます。だから仕事は彼らに教わればいい。それに私がキミに求めているのは、キミがあの会社でやっていた仕事をここでもして欲しかったから」
つまり有馬が諒に求めているのは、諒が総務でやっていたような仕事という事なのだろうか。確かに有馬は諒の仕事に対する姿勢を褒めてくれていた事を諒は思い出した。
しかしそれよりも気になる点が。
「……他にも秘書の方がいるんですか」
「ええ、二人ほど。あとで紹介します」
秘書だけど彼らがいるのは秘書室で社長室ではないらしい。ではなぜ諒の席がここにあるのか、疑問しか残らない。
「……三人も必要ないように思いますが」
そう告げると有馬は先程までの諒を安心されるような笑みを引っ込め、意地の悪い笑みになった。
「そこは、ね」
諒は急に薄寒さを感じ、温かな珈琲を喉へ押し込んだ。
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