26日目『魔法のぬいぐるみ』お題:ドラ〇もん

『魔法のぬいぐるみ』



 ひょんなことからその学者は、歴史に名前を残すこととなった。

 宇宙は空間的にも時間的にもループしている、そのことをたまたま証明してしまったのだ。

 宇宙が空間的にループしているとは、ロケットを特定の方向にまっすぐ飛ばすと、いずれ出発地点に戻ってくるというようなことをいう。

 宇宙が時間的にループしているとは、永遠の命を持つ者は永い永い時間のスパンを経て、また同じ時代に戻ってくるというようなことをいう。

 本当なら宇宙の熱的死やインフレーション前後の曲率などにも細かく言及しなければいけないのだが、ひとまずここでは割愛しよう。

 ともかく、宇宙はループする。

 それをたまたま証明してしまった学者は、一躍時の人となった。

 とはいえ。

 偉大な発見はさらなる議論と謎を呼ぶのが科学の常である。

 宇宙がなぜループしているのか、ループは具体的にはどのような現象なのか、特に、人類が永遠の文明をもつに至ったと仮定して宇宙の時間的ループで重要な役割を果たしているビッグ・バンとビッグ・クランチをどのようにやり過ごせばいいのか、といったことが議論にあがった。

 そして当然、くだんの学者は常にその議論の中心に置かれてしまった。

 学者の証明というのは数式遊びの延長がたまたま宇宙論に結びついてしまった結果であり、議論についていくのは大変だったが、周囲はそんなことお構いなしだった。

 学者も宇宙論に本腰を入れざるを得なくなり、日夜研究と思索と鍛錬をなかば強制された。

 犠牲になったのは睡眠と休息である。

 何もやっていない時間を極限まで削り、食事中にも論文を読み漁る始末。

 休暇を与えられたと思っても、脳みそが常にオーバーヒート状態であり、ひとときも心身休まる暇がなかった。

 そんなときである。

 とある夏の夜、学者は怪しい老人に出会った。見るからに風貌が怪しいのである。明らかにそれとわかるかつらをつけている。夜なのにサングラスをかけている。顎からもみあげにかけて濃い付け髭で顔の半分を覆っている。暑いのに厚手のコートを着込み、特に腕にはアームカバーと手袋を何枚も重ねている。

 何より老人は、ぬいぐるみを抱えていた。

 どこか間の抜けた、愛くるしい表情をした猫のぬいぐるみだった。

 老人はぬいぐるみを学者に見せびらかしながら、芝居がかった声で話しかけてくる。

「そこの学者、最近不眠症で困っているだろう」

「えぇ、まぁ……」

 当然学者はこの老人のことを知らない。とはいえ無視するのもためらわれたのでしぶしぶ話に乗った。

「このぬいぐるみ、実は魔法のぬいぐるみでな。これを抱けば実によく眠れる」

「はぁ、訪問販売か何かですか」

「いやいや、そんなケチなことはしない。無料で差し上げよう」

「もしかして薬か何かが中に隠されているとかじゃ……」

「よし、学者よ、あとは任せたぞ!」

 と、老人は突然大きな声を上げてぬいぐるみを投げつけてきた。

 学者が慌ててそれを受け取る。

「ちょっと、警察呼びますよ!」

 そういった時には、老人はもうかなり遠いところを走っていた。

「いったい何だったんだ」

 学者は戸惑ったが、次の瞬間、ぬいぐるみと目が合ってしまった。

「か、かわいい……」

 ビーズの目と刺繍の口が安らかな雰囲気を醸し出している。表面のさらさらとした手触り、綿のほのかな弾力が肌に吸い付いてくる。何より、大の大人が両手で抱えるのにちょうどよいサイズだった。顎の下にぬいぐるみの鼻先が当たってなんともくすぐったい。確かに、このぬいぐるみを抱いているとよく眠れそうだった。

 学者は、ぬいぐるみとは子供のころ以来とんと縁がなく、抱いている今でさえ誰かに見られたら恥ずかしいな、とも思っていたが、ひとまず持って帰ることにした。

 ぬいぐるみの効果は抜群だった。

 学者は久しぶりに、宇宙論のことなど忘れて深い深い眠りに落ちていった。

 そうやって、快適な八時間睡眠を享受すること一週間。学者はすっかり元気になってきて、久しぶりに冴えた気分で研究に打ち込めるようになっていた。

 同時に、ぬいぐるみが手放せなくなり、研究室ではカバンに隠してこっそりと持ち込み、シャワーですらビニールに入れて持ち込んでいた。この抱き心地に体がすっかり飢えていた。

 異変はそれだけではない。

 ぬいぐるみ生活が続いてしばらくたったころ、いつも通りに研究室に入った時だった。

「先生、いままでどうしたんですか!」

「え?」

 助手が学者を見るなり血相変えて叫びだしたのだ。

 話を聞いてみると、どうやら学者は三日間も研究室を無断欠勤していたらしい。

「上の人、カンカンに怒ってましたよ」

「ああ、そうだな、悪かった」

 様々な時計や電子機器で確認しても、助手が嘘をついているようには思えなかった。

 どうやら、五十時間以上も眠り込んでしまったらしい。

 学者は訝しむ。さすがにこんなに長時間眠ったことなど初めてだし、目覚めた瞬間の体調に異変はなかった。疲れは取れているが、喉は乾いておらず、空腹も感じなかった。心地よい八時間睡眠をとった後とほとんど区別がつかなかったのだ。五十時間も眠っておいて、そんなことありえるだろうか。

 原因として思い浮かぶのは、とうぜん魔法のぬいぐるみである。

 学者はその日の夜、試しにぬいぐるみを抱かずに眠ってみようかとも思ったが、あの抱き心地が忘れられなかった。今夜くらいはまぁいいか、とぬいぐるみをベッドに入れてしまった。起きたらスマートフォンでしっかり日付を確認することを決めながら。

 さて。

 学者が次に起きたときには、三週間も経過していた。

 スマートフォンにはるか未来の日付が表示されたときにはさすがの学者も驚愕した。

 メールやメッセージの類は入っていなかった。

 代わりに住まいのポストには、大学のほうから教授職を解任するとの手紙が届いていた。

 そりゃ、三週間も無断欠勤をしていたら職場をクビになるのは当然だろう。理屈はわかる。

 これについてはさすがの学者もその場にへたり込むしかなかった。三週間前、ぬいぐるみを抱かずに眠っていれば……。

 皮肉なことに、彼とともにあるのは魔法のぬいぐるみだけである。怒りのまま壁に投げつけようとしたが、この柔らかい感触に乱暴を働くのは人倫にもとるのではないかとためらった。

 逡巡して、学者は落胆と後悔の涙を流しながらぬいぐるみを抱きしめた。

 感情が落ち着いてきた学者は、開き直ることにした。

 いっそ、もっと眠ってやろう、と。

 三週間眠ったのに、体は元気だった。喉の渇きも空腹も、八時間睡眠から目覚めたときと変わらない。三日間眠った時もそうだった。

 老人は、これをぬいぐるみとは呼ばず、わざわざ魔法のぬいぐるみと呼んだ。

 このぬいぐるみの魔法とは、よく眠れるだけでなく、眠っている間の体調管理も含んでいるのではないだろうか。

 そこで学者はまた、ぬいぐるみを抱いてベッドに入った。

 起きて数時間しかたっていないというのに、それはそれはぐっすり眠った。

 ぐっすり眠りすぎて、次に目覚めたのは三年後だった。

 さすがに今度は、日付を確認する程度ではそれほど驚かなかった。

 だが、家の中の状態が、三年前とまったく変わっていなかったのである。三年も手入れをしていなかったら、ホコリやクモの巣などで荒れ放題になっているはずである。水道も止まっていないし、ポストを確認すると立ち退きも迫られていない。

 もしやぬいぐるみの魔法というのは、眠っている本人だけでなく、周囲の環境すら維持してしまうのではないだろうか。

 それならば願ったり叶ったりだ。

 学者はそれから何度もぬいぐるみとともに眠った。

 三十年眠り、三百年眠り、三千年眠り、三万年眠り……。

 家の窓から眺める風景はどんどん変わっていった。ある時は灼熱の砂漠。ある時は極寒の銀世界。ある時ははい回る配線。ある時は崩壊した遺跡。ある時は宇宙のど真ん中。

 そしてある時は、完全な真っ白。

 何もない。音もなく、変化もなく、真っ白なだけ。窓を開けてもっと観察する勇気はわかなかった。

 そして次に目覚めたとき、学者が目にしたのはなんと、見慣れた町の風景だった。だが、どこかおかしい。

 戸惑いながら学者はスマートフォンで日付を確認する。電波が立っていない、日付はオーバーフローを起こし完全におかしくなっている。テレビをつけようとしたが、真黒な画面だけ。どうやら配線の規格があっていないらしい。

 学者は外に出た。見慣れない個人商店が新聞を売っていた。ケネディ大統領暗殺の報が一面を飾っていた。

 ここは1963年の世界だったのだ。

 つまり、学者はこの世界をループした。

 タイムスリップではない。学者はずっと眠り続けて、時間の流れを下り続けていたのだ。

 学者は図らずも自らの学説の正しさを身をもって体験してしまったのだ。

 同時に学者に天啓が下りてくる。

 このまま宇宙がループするのだとしたら、眠り続ければ次のループにたどり着くに違いない。

 過ちを犯す直前にたどり着くことも可能なはずだ。

 大学からクビにされたことを帳消しにして、再び学者としての地位に返り咲いてやる。

 学者は一計を案じた。

 家に帰ってベッドで眠ってしまえば、このループの学者本人と重なってしまうかもしれない。それは危険だ。学者は眠る場所を探した。魔法のぬいぐるみの環境維持機能は絶対的で、ビッグ・バンにもビッグ・クランチにもびくともしないのだから、人間の所業など恐れるほどでもない。だがホテルに泊まると起きたときに料金を請求されるかもしれない。人目の少ない廃墟がいいだろうと結論付けた。

 何度かの起床と入眠を経て学者は、魔法のぬいぐるみを譲り受けた前の晩に目覚めることに成功した。

 次は、このぬいぐるみをどうするか、である。手元に置いておくとまた過ちを繰り返すかもしれない。

 考えに考えて、このループの自分になすりつけることを思いついた。

 このループで生活を取り戻しても、そこにはもうひとりの自分がいるのだ。自分がふたりもいると、何かにつけて邪魔になってくる。自分を殺すのは嫌だし、それなら魔法のぬいぐるみとぐっすり眠ってもらっておとなしくさせるのがいちばんだろう。

 次に問題となったのは、ぬいぐるみを手渡す際、誘惑をどうやって振り切るかである。

 ぬいぐるみはかわいい、手触りがいい、抱き心地も最高だ。これらを感じないような環境を作らなければいけない。

 加えて、このループの自分に自分自身だと気づかれてもいけない。

 学者は適当な店で入用なものをそろえた。まず変装のためにかつらをつける。ぬいぐるみの可愛さを視認しないようにサングラスをかける。顎に当たって柔らかさを思い出さないように濃い付け髭で顔の半分を覆う。抱き心地と手触りを思い出さないように厚手のコートを着込み、腕にはアームカバーと手袋を何枚も重ねる。

 これでいい。あとはこのループの自分に声をかける。

 自分自身だと感づかれてはいけないので、芝居がかった声を作る。

「そこの学者、最近不眠症で困っているだろう」

「えぇ、まぁ……」

 何も知らないこのループの学者は、しぶしぶといった表情で話しに乗ってくる。

「このぬいぐるみ、実は魔法のぬいぐるみでな。これを抱けば実によく眠れる」

「はぁ、訪問販売か何かですか」

「いやいや、そんなケチなことはしない。無料で差し上げよう」

「もしかして薬か何かが中に隠されているとかじゃ……」

「よし、学者よ、あとは任せたぞ!」

 このループの学者をうまく説き伏せる自信がなかった。そんな面倒くさいことをしている暇はない。

 ぬいぐるみに執着があるのも事実だ。

 学者は大声を出して、ぬいぐるみをこのループの学者めがけて投げつけ、走り出した。

「ちょっと、警察呼びますよ!」

 そんな叫び声を背中に受けながら、夜を駆けていく。

 あとは、このループの学者を大人しく眠らせるために、大学のクビ宣告を偽装してやればいい。

 それからは、もうちょっと真面目に研究に取り組んで、恋愛も頑張ろう。もうぬいぐるみとともに寝起きする日々にはこりごりだった。

 ほかにもやりたいことがたくさんあった。

 これから忙しくなる。

 ただし、くれぐれも睡眠不足には気を付けて。

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