15日目『ただ完璧を目指して』お題:ただ書く
『ただ完璧を目指して』
夜明け前。
紫の空に向かって海岸線から光がいくつも伸びていく。
高度を上げるにつれて徐々に湾曲し、細くなっていく。
ついには星々に吸い込まれるようにして途切れた。
打ち上げ成功。
今日もひとつとして、散りゆくロケットなど存在しないのだ。
「本当にそう思ってる?」
少女の声。
振り返る。
「秋奈……いや、春奈、春奈なのか?」
まっさらな宇宙服。潮風になびく髪。若い肌。何もかもがまぶしかった。くたびれた白衣、若白髪、無精ひげとは比べるまでもない。
「夏希、本当に、散りゆくロケットなど存在しないって、そう思ってる?」
「ま、待ってくれ……」
「本当に、あなたの作ったロケットがちゃんと飛ぶって、そう思ってる?」
「あ……がっ……」
春奈の指が首に絡まる。少しずつ、少しずつ力が込められ、喉仏の圧迫が痛みに変わる。苦しい。息ができない。
「わたしだって、そうだったんだよ」
知ってる。知ってるさ。その時、夏希も管制室にいた。春奈の悲鳴をすべてその身に受け止めていた。受け止め、切れるわけがなかった。ひたすらに目の前の出来事を呪っていた。
だから、春奈の指を払いのけることはしなかった。
「……っはぁ! はぁ、はぁ……」
日差しが飛び込んできた。シャツが冷や汗で濡れていた。
首元に、タオルケットが巻き付いていた。
夏希は首元のタオルケットをほどいて、体をほぐす。
「おはよー。起きた、お兄ちゃん。うなされてたよ?」
寝室の扉から、女性がひょっこり顔をのぞかせる。首を絞めてきた春奈と、よく似ている。夏希は体を強張らせたが、よくよく考えればあれは夢だし、女性の顔はほんのちょっとだけ歳をとって大人びている。何より服装がエプロンだ。
春奈の双子の妹、秋奈。夏希の配偶者。
「おはよ。ろくでもない夢見てた」
「お兄ちゃん、新型の打ち上げになるといっつもこうだよね。胃とか大丈夫、穴あいてない? うどんなら食べれる?」
「助かる」
秋奈は軽く返事をしてキッチンのほうに戻っていった。タブレットの時計はすでに正午を回っている。夏希が開発に携わった新型ロケットは、明日の早朝に初の打ち上げとなる。立ち合いのため、職場の計らいで夏希の勤務時間はずらされていた。これがクルーや管制官であれば徹夜で基地に泊まり込みだっただろう。何百何千という実験を終えて、夏希の仕事はほとんど残っていない。気楽な立場だ。それにもかかわらず、いまだにあんな夢を見てしまうのは……。
通知が入った。現場からいくつか確認事項が届いていた。二度、三度と目を通し、擦り切れ垢じみたファイルまで開いて、問題ないことを返信。これくらいなら渡した仕様書でも対応できるはずだが、設計責任者のお墨付きがやはり欲しいのだろう。
うどんできたよ、と秋奈に呼ばれ、ブランチと着替え、さらには出がけのキスも交わす。
「じゃあ予定通り、今日は徹夜だから」
「うん。わたしも今日は早めに寝て、夜中にそっちに行くから」
「了解。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
結婚にともなって購入した新築のマンションから、車で湾岸に出る。運転は機械に任せ、夏希は海を眺めた。白い砂浜と青い海は絶好の晴れだというのに、季節外れのため散歩くらいしか人影がいない。その向こう岸に見える小さな幾何学図形が基地だった。十数時間もすれば、あそこからいくつものロケットが一斉に飛び立つだろう。天気も完璧、設計も完璧、各プログラムも人選も完璧。ロケットが失敗するはずはない。
だが、それでも、春奈の声が聞こえてくる。
「本当にそう思ってる?」
「暇っすねー、センパーイ」
「せめて仕事してるふりくらいはしておけよ」
「そんなこと言われても、もう全部暗誦できるくらいチェックしましたよー」
「ふりでいいんだよ、ふりで。それが嫌ならコーヒー買ってきてくれ」
へーい、と力ない返事をしながら、後輩の冬野は席を立った。管制室の片隅の片隅に設けられた小さなスペースから、冬野は旅立っていく。夏希は手持無沙汰とちょっとした孤独感を忘れるため、ひたすら垢じみたファイルに我を沈めていく。
ロケット開発が進めば進むほど、機体そのものの伸びしろは減り、機体を操る自動操縦プログラムの開発にいっそう大きな比重がかけられるようになった。設計の専門家である夏希は、過去の膨大なデータをもとに、要求されるスペックを方程式に当てはめて、最適なロケットの形状を計算するだけでよかった。今回の新型機も、新型と銘打たれてはいるが、単に前例のないスペックを要求されているだけで、それをもとに計算しているという点では夏希は何も新しいことをしていない。もっと技術が進んで芸術性を取り込む段階に行けば、機体設計者も今よりは幅を利かせられるようになるのだろうが、あいにく現状の工学技術は、機体設計は簡単になったがさりとて芸術性を追求する余裕はない、という、なんとも寂しいポジションを夏希に与えていた。当然のことながらクルーや管制官ほか基地スタッフの重要性は変わっていない。
それゆえの、設計班の閑古鳥だった。仕様書を見ればだれでもわかるような確認事項に判を押す、仕事らしい仕事はそれだけだ。
「センパーイ、コーヒー買ってきましたよ。確か無糖派でしたよね」
「助かる」
苦いだけの泥水で脳に鞭を打つ。
「ここのコーヒー、ほんと不味いっすよねー」
「安物だからな」
「時代にときめくロケット発射基地なんだから、せめてもうちょっといい自販機おいてくれてもよくないっすか?」
「ほかのスタッフはもうちょっといいものを飲んでるよ」
「え、そうなんすか?」
「知らなかったのか。あっちはみんな基地の給湯室が使えるからな。自分の好きなコーヒーが淹れ放題だ」
「俺たちは使えないんすか?」
「所詮は期間限定の出向組だぞ。上がうるさい」
「はー、設計者って肩身狭いんすねー」
「やめるか?」
冬野はしばらく考えて、泥水を流し込んで、思いっきり顔をしかめてから答えた。
「や、いいっす。設計者の資格、超便利っすもん。大した仕事はないのに試験が難しかったってだけでそれなりの給料はもらえるわけっすから。それに、センパイの下なら食いっぱぐれはなさそうっすもんね」
「ちゃんと仕事してくれるなら俺は何でもいいよ」
そういえば、と後輩がつぶやく。
「センパイがこの仕事やってる理由、聞いたことなかったっすね。先輩なら自動操縦に進んでも活躍できそうなのに」
「俺はこっから離れられないんだよ」
「その心は?」
「設計に使ってる船体計算プログラム、俺が作ったから」
あまりにあっさりと言う夏希に、冬野はしばらく言葉を反芻して、それからようやく驚いた。
「いや、いやいやいや、まさか。あれが運用され始めたの十三年前っすよ。先輩今何歳っすか?」
「二十八」
「十五歳であのプログラムが作れるわけが……」
「いや、だから作ったの。俺が」
「マジっすか」
「マジマジ。んで、そのせいで設計者の働き口が減ったうえに、俺は俺でプログラムの責任をとり続けなきゃいけないから、この仕事をやめられないの」
「はー……い、一生ついていくっす!」
夏希は面倒くさそうに手で払った。
夏希は少し、ほっとした。
十三年前と言えば宇宙開発に革命が起きた年代だ。
それは夏希の開発した船体計算プログラムの登場に限らない。
あとふたつ、大きな事象があった。
ひとつは、史上最年少、十五歳の女子高校生クルーのデビュー。
もうひとつは、現時点で人類最後のロケット事故。
十五歳の女子高校生クルーの名前は志木春奈であり、夏希の婚約者秋奈の双子の姉である。
最後のロケット事故というのは、志木春奈の死亡事故である。船体から空気が漏れたことによる窒息死。原因は、開発段階におけるパーツの不良だった。夏希の設計プログラムは完璧だった。パーツの不良も、まず問題にならないはずの小さな問題がドミノ倒しのように広がってしまったのだった。
あらゆる動乱が、夏希のすぐ身近で起こった。
冬野がそのことに思い至らなくて、ほっとしていた。いや、もしかしたら気付いているのかもしれない。口調からは想像しにくいが、他人のコーヒーの好みを逐一覚えている細かい男だ。だてにロケット設計者の資格を持っていない。夏希に、気を使ったのかもしれない。
「えーと、一ノ瀬主任、よろしいですか?」
夏希は名前を呼ばれはっとなった。時刻は真夜中。少し眠気が来ていたらしい。周りのスタッフは相変わらずあわただしく動いているというのに、設計班はこの体たらくだ。冬野も思いっきり椅子にもたれていた。
「問題でもありましたか?」
「とんでもない。奥様がいらっしゃいましたよ。行ってあげてください。展望デッキもあいていますから」
「申し訳ない。では、何かあったら連絡をください」
「もうお手を煩わせることもないと思いますよ。どうぞごゆっくり」
「お言葉に甘えて。ご武運を」
夏希は待合室で秋奈と落ち合い、そのまま職員専用の展望デッキに向かった。
一面のパノラマ。黒一色だった空にほんの少し明るみが差している。
発射まで三十分、のアナウンスが響く。デッキにいたほかの職員やその関係者たちが色めきだつ。
「いよいよだね」
「そうだな」
夏希は自分が設計した――自分の開発したプログラムが教えてくれた――ロケットが打ちあがるのを何度も見ている。それは秋奈も同じはずなのに、彼女の目は一向に曇ることがなかった。
春奈もそうだった。夏希、秋奈と三人で、よくロケットの打ち上げを見に来た。
ある日、たまたま秋奈が体調を崩し、ふたりだけでロケットの打ち上げを見に行ったことがあった。
今の秋奈と変わらないまぶしい瞳で春奈は、空に伸びていく光の筋を見つめ、ぽつり、と夏希に告白した。わたし、夏希のことが好き、と。
時すでに、夏希の船体計算プログラムは実践投入に向け動いていた。
春奈が宇宙船クルーに選ばれたのは一年後で、その半年後には夏希のプログラムは試作ロケットによる実験段階に入り、さらに半年後、春奈は死んだ。酸素不足で散々苦しんだ挙句に、宇宙の塵になった。
春奈の乗るロケットが完成したさい、よく言われたものだ。
「夏希、わたしのロケットは完璧?」
「もちろん。完璧だよ」
「本当にそう思ってる?」
そしていつも、夏希の背中を強くたたき、秋奈に注意されるのだ。
「お姉ちゃん、そんなに強くお兄ちゃんの背中たたいちゃダメ」
「駄目よ、設計の責任はなんだかんだで夏希なんだから。だから、背筋をピンと伸ばして自信をもって、完璧って言わないとだめなの」
春奈の声は戒めなのだ。ロケット設計者としておごらないための。
「お。パイロットが乗り込んでるよ」
嬉しそうに発射台を眺める秋奈が、春奈と重なってしまう。ふたりはよく似ていた。夏希でもたまに間違えるほどだった。告白してきたのが本当に春奈だったのか、もしかして秋奈だったのか、クルーに選ばれたのが春奈だったのか秋奈だったのか、死んだのは本当に春奈なのか、今ここにいるのが本当に秋奈なのか、そんなことを考えると、眩暈に襲われそうになる。
だから、これでよかったのだ。
心の平静を保つためには、春奈はひとりでよかった。秋奈もひとりでよかった。
あのふたりがあまりにも似ていたせいで、春奈も秋奈もふたりいるような錯覚にいつもとらわれていた。春奈の告白を受けてからはなおさらに。
告白に答えられるわけがなく、その義務からも逃げ切ることができた。
『3――2――1――Liftoff!』
夜明け前。
紫の空に向かって海岸線から光がいくつも伸びていく。
高度を上げるにつれて徐々に湾曲し、細くなっていく。
ついには星々に吸い込まれるようにして途切れた。
打ち上げ成功。
今日もひとつとして、散りゆくロケットなど存在しないのだ。
「本当にそう思ってる?」
春奈の声が響く。
ロケットは完璧だ。船体計算プログラムも完璧だ。春奈の事故は偶然で、たまたまで、誰も悪くない。決して設計ミスなどではない。それを証明し続けるために、自分はここにいるのだ。
「おめでとう、お兄ちゃん。打ち上げ成功だね。今日もパーフェクト」
「ありがとう、秋奈。愛してる」
「ちょっと、お兄ちゃん」
人目もはばからずに、夏希は愛する女性を抱きしめた。ややこしい因縁があって夫は妻からいまでもお兄ちゃんと呼ばれている、ということを知らなければ、傍目からはなんとも怪しい光景だったかもしれないが、どうでもよかった。
お兄ちゃんと呼んでもらえなければ、夏希は秋奈が秋奈だと信じられなくなる。
ロケットの閃光に照らされる秋奈の横顔。
これは春奈ではない。
秋奈だ。
春奈はあの時、殺したのだ。
必死に言葉を飲み込むために、また強く抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫だよ。お兄ちゃんは完璧だから」
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