12日目『饐えた臭い』お題:冒頭から危機

『饐えた臭い』



「本当にいいんだね」

「わたしの持ち物だから思いっきりやっちゃってちょうだい」

 祖母の言葉を信じて、トワは斧を振り下ろした。キャンプの薪割に使う斧だった。コンパクトだが威力は絶大で、洋館の丈夫な扉は跡形もなく粉々になった。

 黴そのもののような埃が浮いている。

 饐えた臭いが鼻を刺す。ドライアイスの煙を吸い込んだみたいに冷たい。

 ひとつふたつ咳き込んで、トワは祖母のほうを振り向いた。

「開いたよ、お祖母ちゃん」

「助かるわ、トワちゃん。持つべきものは、キャンプ上級者の孫娘ね」

「はぁ……」

 祖母は穏やかな笑みを浮かべて、トワの横を通り過ぎた。

「ちょっと、お祖母ちゃん。気を付けて。こんなにボロボロなんだから」

 トワは改めて洋館の外壁に目をやった。神戸の異人館を思わせる、塔と煉瓦を基調にした建築様式が、鬱蒼とした木々を背景に隠れるように佇む。蔦がはい回り、バルコニーの柵は朽ち折れ、窓ガラスもほとんどが割れていた。どう見てもただの廃墟だし、これが本当に祖母の持ち物だったとしても、早く処分すべきだ。トワにはそうとしか思えなかった。

「大丈夫。この歳だけど、目をつぶったって歩けるわ」

 言葉通り、祖母は真っ暗な廃墟の中にずんずんと突き進んでいった。

「待ってって、せめて明かりくらい……」

 トワがリュックサックから懐中電灯を取り出して中を照らすと、祖母は宙に浮いていた。

「……って階段か」

 こじんまりとしたエントランスの真ん中に、二階へと続く曲がり階段。祖母はすでに半ばまで登っていた。

「勝手に行ったら危ないって!」

 階段に足をかける。だがトワは違和感を覚えた。踏板が、ぐにゃり、と曲がった気がした。とっさに後ずさる。

 乾いた音が館に響き渡る。連鎖的に細かい振動が引き起こされて、地震を疑うほどだった。

 煙を上げながら、曲がり階段は崩れ落ちた。

 トワは口元を袖で覆い、ライトを振る。

「お祖母ちゃん!」

 見つけた。二階の吹き抜け部分に祖母がいた。階段が崩れる前に上りきれたようだった。そこまで煙は登っていない。ライトを祖母に当てて気を引こうとする。気づいていないのか、廊下の奥に消えてしまった。

 祖母は二階。目の前には崩れた階段。トワ自身はまだ一階にいる。

「ど、どうしよう……」


 トワの責任は重大だった。

 そもそも事の起こりは数日前、祖母が故郷を見たいと言い出しだのだった。

「わたしもそろそろ老い先短いものだから、悔いは残したくなくって」

 そういわれると、トワは断るわけにはいかなかった。

 トワは大学でキャンプのサークルに入っている。体力もあるし車も運転できるし、サバイバル知識もある。旅のお供にぴったりだ、と言われた。おおかた理解できる。サバイバル知識がどうして祖母の里帰りに必要なのか分らなかったが。

 だが、ここまで祖母は予想していたのかもしれない。

 古い洋館の扉を壊し、その中で祖母を捜索する。

 確かに、何もないよりはサバイバル知識があるほうがいいのだろう。

 つまり祖母は、自分に何かあったら助けてほしい、そう伝えていたのだ。


 煙が収まったのを見計らって、トワは館の探索を開始した。

 外に出てバルコニーにザイルをかけ、そこから二階に侵入するというのも考えたが、柵の耐久度や祖母を連れ帰ることも考えてやめておいた。

 すなおに、別の階段を探す。洋館だから階段もふたつかみっつあるだろう、と根拠もなく気楽に考えていた。

 エントランスは入口そばに扉、奥にも大きな扉、左右に通路が伸びている。階段を探すだけだし、とトワは右の通路を選んだ。大小の扉に興味を惹かれないではなかったが、祖母が優先だ。

 通路はさらに黴臭い。足元には絨毯が敷かれているようだが、今踏んでいる柔らかさが絨毯の高級さによるものなのか、厚く積もった埃や塵によるものなのか判別がつかない。大きく裂けた壁紙から、染みだらけの木目が見える。人の顔に見えるのは気のせいだ。

 足の裏に大きな異物感があった。

「わわっ」

 ライトを向けるとシャンデリアの破片が飛び散っていた。

「お、驚かすなって……ん?」

 さらに、何枚かの紙が散乱している。拾う勇気はない。が、黄褐色のにじみが広がっている。キャンプで怪我をしたときに、放置した包帯がこんな色になっているのを思い出した。

 ギギギギギギギギぃッ……。

 頭上からの物音に飛び上がる。

 続けて、小さな足音が、とんっ、とんっ、と続きながら遠ざかっていく。

「お祖母ちゃんだよね……? いや、たぶんそう……」

 トワは先ほど見た紙のことなど頭から追い出して、足を速めた。早く二階への階段を見つけて、お祖母ちゃんを連れ帰らないといけない。決してビビってるわけではない。

 通路は思ったよりも長かった。階段を見つけ、一度はほっとしかけたが、地下に続いていた。奥には大きなガラスのポットが見えた。

 他にも、部屋がいくつも並んでいる。閉まっている扉、ほんの少し開いている扉、半壊している扉、枠だけの扉。好奇心に駆られて中を覗きたくもなるが、ろくなことにはならないから、と自分に言い聞かせた。一度だけ、扉がひとりでに開いたときはさすがに斧を片手に除いたが、割れた窓から風が入り込んでいただけて、胸をなでおろした。その時に見たのは、いくつかのビーカーや試験管など、学校の化学室にあるような実験器具だった。

 昔はここで何かの実験をしていたのだろうか。祖母の故郷であることを考えれば、この建物は昭和の初めには存在していたことになる。その時代なら、こんな森の洋館で科学者が実験に励んでいることもあったのだろう。

 そう考えれば先ほどの紙も、薬品が滲んでいただけなのだろうし、饐えた臭いも薬品の残り香なのかもしれなかった。

「なんだよもう、それならそうとお祖母ちゃんも言ってくれればいいのに。ビビッて損したー……」

 トワがほっと胸を撫でおろしたころ、突き当りに二階への階段を見つけた。


 通路突き当りの階段は崩れることなく、トワは難なく登り切った。

 一階と同じ通路が続いていて眩暈がしそうになる。が、違うのは通路の奥にぼんやりと青白い光が見えたことだ。

 慌てて階段の陰に隠れ、ライトを向ける。扉の隙間から漏れているらしい。

 行くしかないのか……。

 左手に懐中電灯、右手に斧をもう一度しっかりと握りこみ、すり足でにじり寄る。

 埃が押し退けられて、トワの後にはまっすぐな跡が残っているが本人は当然そんなことに気づく余裕はない。

「えぇ、今、そちらに行くわ」

 何かが聞こえたような気がしたがそんなことは知らない。祖母の声だったどうかすら覚えていなかった。

 頭上のシャンデリアは壁際に避ける。扉はひとつ残らず閉めていく。

 青白い光がだんだんはっきりとしてきて、その中でうごめく影まで見えてきた。

「お、お祖母ちゃん……?」

 扉を開ける。

 青白い何かに切り取られた影は祖母そのものだった。

 だが祖母は、何かを掲げ、体をそらしている。

 その何かは、試験管だった。

 試験管の中身が青白い光を発している。それは液体のようで、祖母が体を反らすにつれ、祖母の影の中に収められていくのだった。

「お祖母ちゃん、何やってるの!」

「え、あら?」

 祖母の手から試験管が滑り落ち、小気味よい音を立てて砕けた。わずかに残っていた青白い液体が、青白い蒸気となって、空気中にとけていった。とっさによろけた祖母を、トワが抱き留めた。

「と、トワちゃん、どうしたの?」

 落ち着かない様子で、くぼんだ眼をきょろきょろさせている。

「それはこっちのセリフだよ、お祖母ちゃん、大丈夫? 何か変なことしてない?」

「え、えぇ、大丈夫よ。ごめんなさいね、心配かけちゃって」

「……本当だよ」

 トワは文句をぐっとこらえて、祖母の肩を支えた。

「それで、満足したの、里帰り」

「えぇ。やりたいことはやったわ」

「じゃあ、もういいよね。帰ろ」

 ふたりは、トワが見つけた階段から一回におり、洋館を後にした。


 トワのレンタカーが停めてある駐車場まで、山道を数分歩く。祖母の体調がおぼつかない。呼吸が不規則で、冷や汗をかいていた。

「お祖母ちゃん、どこか悪いの?」

「いえ、ちょっと……久しぶりの旅行だからかしらね。つかれちゃったのかも」

 さっき何か飲んだからじゃ、と聞く勇気は出なかった。

「もうちょっとで車だから、頑張って」

「ええ、ええ……」

 ほとんど抱きかかえるような形でなんとか車にたどり着き、後部座席に祖母を座らせる。息がどんどん荒くなっている。ぜぇぜぇと、今にも心臓が止まってしまいそうなくらい。

「ごめんね、トワちゃん、ちょっと、温かいお茶を買ってきてくれない……?」

「わ、分かった、緑茶でいいよね」

 自動販売機はすぐに見つかったものの、駆け出すのが一瞬遅かった。

「――――――――――ッ」

 擦り切れるような断末魔とともに、祖母の口から青白い光が飛び出した。

 プラズマの玉、ろうそくの炎のような光が、トワの顔の前でループを描く。

 トワはそれをまじまじと見た。

 祖母の顔がぼんやりと浮かんでいた。

 次の瞬間には青白い光は空の向こうへ飛んで行って、見えなくなってしまった。

「なに……いまの……」

 トワは視線を祖母に戻した。

 顔がなかった。

「ひっ……あ……」

 だが次の瞬間には穏やかな祖母の顔に戻っていた。

 見間違い、だったのかもしれない。

「お祖母ちゃん……?」

 祖母の頬に触れる。冷たい。触っていられなかった。胸の上下がなく、鼻に手をかざしても呼吸がない。

「死んでる……」

 とっさに、何の思いも浮かばなかった。

 祖母の顔が穏やかなのと、奇妙な光を目撃したのと、その両方がほぼ同時に起きたせいだっただろう。悲しむよりもまず、戸惑いが大きかった。

「そ、そうだ、誰かに電話しないと……もしもし、ママ?」

 トワは母親に電話した。警察とか救急車の電話番号が出てこなかった。

 電話口の母親は暢気なもので、旅行楽しんでる、とかなんとか聞いてくる。

「それがね、あの、聞いてほしいんだけど――」

 念のため、今一度祖母の顔を見た。鼻から、青白い液体が垂れていた。

 戸惑いは、トワ自身も予想しない方向に大きくなった。

 どうしたらいいのだろう。

 それよりも。

 この青白い液体は何なのだろう。

 人間が吐き出すような色じゃないのは確かだった。

 では、それを吐き出している祖母は何なのか。

 その祖母の孫娘である自分は? 母は……?

 電話口の母は何かを悟ったらしく、重々しい口調でお祖母ちゃんに何かあったの、と尋ねてくる。

 トワは我に返った。ティッシュで祖母の鼻を拭い、そのティッシュは丸めて、リュックから出したマッチで燃やした。

「ううん、あのね、お祖母ちゃんが――」

 やけに饐えた臭いがした。

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