6日目『魔法のスプレー』お題:語るより見せろ
『魔法のスプレー』
椎名は魔法のスプレーを持っていた。すこしだけ甘いにおいのするスプレーだった。何が魔法なのか、と言えば、虚空に吹きかけるとそこに漂っている記憶を呼び覚ますことができた。ただしそれは、彼女の親友である尾藤の記憶に限られていた。
学校帰り、椎名は夕日の街をとぼとぼと歩いていた。足元がおぼつかない。歩幅も、踏み出すリズムも不安定。右手を腹部に当て、左手で目元を抑えた。視界も軽く揺れている。典型的な貧血だった。
それもこれも江口のせいだった。椎名が楽しみにしていた昼食を、江口に食べられたのだった。
「どうしてわたしのお弁当勝手に食べてるの。返してよ」
「何言ってるの。あなたのお弁当はわたしのもの。勝手に食べるとかそういう問題じゃないでしょ?」
五時限目に空腹をこらえつつ勇気を出して詰め寄ったら、江口は驚くほど白けた顔で返してきた。むしろ、椎名の問いかけに疑問すら抱いているようだった。
そんなことが三百六十五日二十四時間のように続いている。
例えば、新品の消しゴムがいつの間にか汚されていたり、頑張ってためていた携帯ゲームのゲーム内通貨がいつの間にか消えていたり、楽しみにしていた漫画の最新刊を先に読まれたり。すべて江口が犯人だった。
そして、椎名がどうして、と問い詰めると、やはり彼女は決まって、
「何言ってるの。あなたのものはわたしのもの」
と、白けた顔で返してくるのだった。
頭の中がかっとなる。震える手で、脈打つ心臓を抑える。口の中が熱い。いつもこれだ。江口のことを思い出すだけで異様な興奮に襲われる。江口の容姿が自分と似ているのが、余計に腹立たしかった。肩でそろえた髪も、眼鏡選びに失敗するとレンズに当たる長い睫毛も、コーラルピンクのチークも、なぜか江口は椎名を真似してくる。自分は椎名よりも上位の存在である、とでも言いたいのだろう。
椎名は鞄から出したピルケースを手のひらで受け止め、数を確認する間もなく口に放り込んだ。ごりごりと咀嚼し、嚥下する。
わずかな間の後、大きく息をつく。
頭を振って、いくらか力を取り戻した足取りで歩きだした。
こんな時は尾藤と話すに限る。
けれども、自分が傷ついているときに彼女に連絡を入れるのは、彼女を自分のいいように使っているみたいでいやだった。せめてもう少しだけ元気になって、尾藤に楽しい会話を提供できるような状況で、臨みたかった。
足に力をこめる。膝裏の筋が際立って、歩幅が広くなった。無理やりだろうと大股で歩くことで、気合が出せるような気がした。
椎名は寄り道をした。山手の公園に街を見下ろせる展望台がある。今日は晴れ、いい夕日が見れるに違いない。夕日でテンションをあげておけば、弱弱しい声色から尾藤に心配されるようなこともないだろう。
まっすぐで急な階段を上る。
この上が展望台だった。
息が切れて頬が赤みを帯びる。展望台につく頃には全身すっかり熱くなって、額も軽く汗ばむ。運動は精神にいいと聞くが、確かに、この状態なら体も精神も縮こまる隙はない。
椎名はスマホを片手に、自信をもって尾藤を呼び出した。
……反応がない。
いつもならすぐに出てくれるはずなのに、今日に限って時間がかかる。しばらく待っても尾藤は出てこなかった。
椎名はスマホをのぞき込みながら、唇をかむ。夕日が画面に反射していた。きれいなはずの夕日なのに、やけに寂しげに見えた。
また頭を振った。何かを振り切りたいときに頭を振るのが彼女の癖だった。
こういう日もあるのだろう、と椎名は納得することにした。尾藤にだって予定くらいある。こちらからの呼びかけに出られない時だってある。いつまでも彼女に頼ってばかりではだめだ。
かわりに、鞄から魔法のスプレーを取り出した。すこしだけ甘いにおいのするスプレー。今日はこれで我慢しよう。
椎名は夕日に向かって、シュ、とひと吹きした。
甘いにおいがする。椎名はこのにおいが、ぶどうジュースに似ている、となんとなく思っていた。
白い靄が落ち着いてにおいも消え去ると、そこにぼんやりと尾藤の姿が浮かび上がってきた。ここに来た尾藤の、いつかの記憶。肩でそろえた髪、眼鏡選びに失敗するとレンズに当たる長い睫毛、コーラルピンクのチーク。尾藤が自分と似た容姿をしていると考えると、椎名は心が温かくなった。江口と似ていることだってこの瞬間だけは忘れられた。
尾藤は夕日を見ている。コーラルピンクの頬がより赤々とかわいらしい。椎名は尾藤を何度か展望台に誘っていた。彼女も気に入ってくれている。彼女がひとりだということは、自分からここに来たのだろうか。それがちょっと誇らしい。
と、臨まぬ闖入者が尾藤の記憶に割り込んできた。
尾藤とも椎名ともそっくりの容姿、江口だった。
江口と尾藤、遠目で見るとそっくりなふたりが、何か言い争っている。吐き気を催しそうな光景だった。
尾藤は顔を伏せる。頭を振って、スカートのすそを握りしめる。言い負かされたのだろうか、体が小さく見える。反対に江口は、すっきりとした表情だった。瞳は輝き口角は自然と上がり、胸を張って夕日を眺めている。大きく深呼吸する江口は健康優良児そのものだった。そっくりなのに、自分ともそっくりなのに、自分はいまこんなに怒りと憎しみを感じているのに、と、椎名はまた震える手でピルケースを傾けた。ケースが空にし、ごりごりと錠剤を噛み砕いた。
尾藤の記憶の中で、ふたりの会合はまだ続いている。
尾藤が江口に抵抗をしている。何を言っているのかまでは聞き取れないが、瞳に力を込めて、涙を流しながらも江口をにらみつけている。
江口は涼しい顔をしていた。何も言わない。深呼吸を繰り返すだけ。
そして。
尾藤の胸を、手で押した。
時間がいっしゅん、止まって見えた。
ここは長い階段の果てにある展望台だ。町が見下ろせるくらいには、高台だった。
欄干の上を越えて、宙に浮く尾藤。
あ。
椎名が声を出した瞬間には、尾藤は坂を転がっていった。
江口のせいだ。
尾藤が呼びかけに応じてくれないのは、江口が尾藤を殺したせいだ。
どうして。なぜわたしの親友を? それとも、わたしの親友だから? わたしに嫌がらせをするために、そのためだけに何の関係もない尾藤を殺した? 椎名のものはわたしのもの、と白けた顔で話す江口が脳裏に浮かんだ。
許せない。許せるはずがない。殺してやる。殺してやる。
心臓が縮み上がって刺すように痛んだ。
頭に血が上りすぎてめまいがする。
もう薬はない。
迷いもない。
だが恐怖はあった。
椎名はスプレーをまき散らした。
強いぶどうの香りにつられて、尾藤の姿がよみがえる。かわいい尾藤。愛らしい尾藤。大好きな尾藤。大事な尾藤。もういなくなってしまった尾藤。
たくさんの尾藤に囲まれて、椎名は携帯を取り出す。
悲しいくらいに、江口の反応は早かった。
「どうしたの」
「どうしたもこうしたもない! なんで尾藤を殺した!」
精一杯の声を振り絞る。
「なんでって、当然でしょ。わたしのものなんだから」
江口はやはり、白けた顔だった。
予想が完全に的中したことが、余計に癪に障った。
「あんたのものじゃない! 尾藤はひとりの人間、ひとりの人格、あんたがどうこうしていいわけない!」
「そうは言われてもさ。邪魔なんだよ。あの子。わたしの将来に」
「邪魔って……」
喉がつかえた。
こいつは、尾藤のことを何とも思っていない。
「あの子がいると、わたしの将来は閉ざされたままになっちゃう。だから、今のうちにきれいにしておかないとって思ってさ。こういうのは焦っちゃだめだけど、遅すぎてもいいことないし、できるときにやっとこうって思って」
殺人者?
いや、ただの我儘な子供だ。倫理観の欠如した機械みたいな子供、それが江口。だから、顔が同じという理由だけで、わたしのものを勝手に使っていったんだ。椎名は完全に納得がいった。やはり、江口を生かしてはおけない。
「でもさ、それってあんたにも言えることなんだよね」
江口は椎名から目を離し、夕日に向かって深呼吸を繰り返す。
同じだ、尾藤の記憶の中で、尾藤を殺したときの行動と。
これからわたしは殺される。彼女はその気だ。椎名は全身に力を込めて身構えた。
「あなたがいると、わたしの将来の邪魔になるんだ。あの子と一緒に。だから今ここで消えてくれないかな」
手が伸びた。
来た。
椎名はとっさに腕につかみかかて、体勢を入れ替えた。
「え?」
ぽかんとした顔のまま、江口は欄干を飛び越え宙に舞う。
沈黙。
無力感。
爽快感。
達成感。
椎名の体をめぐり、ついつい顔がゆがむ。
斜面を転がっていく江口を見下ろしながら、椎名はつぶやいた。
「やった……」
直後にやってきたのは寂しさだった。
「でも、ひとりになっちゃった……」
椎名は急に眠けを覚えて、その場に座り込んだ。
視界が暗転した。
夜の展望台にパトカーの赤いライトが差した。
人の形に張られたテープの周りで、刑事らしき中年の男が部下と話していた。
「それで、身元は?」
「江口紗季。17歳。近所の高校に通う三年生です。メンタルクリニックに定期的に通院しているようで、解離性同一症の疑いあり。精神も不安定で、抗精神病薬を常用していたみたいです」
「なるほどな。転がっていたスプレーは?」
「市販のシンナースプレーでした。ホームセンターか、ネットショッピングでも簡単に手に入るものです」
「死亡推定時刻の前後、このあたりに人影は」
「防犯カメラに、展望台でスプレーを使う江口紗季の姿がはっきりと映っていました。彼女に危害を加えた第三者は確認できませんでした」
「つまり……」
刑事はしばし沈痛な面持ちで、江口紗季の死体が転がっていた場所を見つめた。
「受験か部活か友人関係か、まぁそこらへんは断定できないが、精神的に不安定になった女子高生が医薬品を乱用、さらにはシンナーにも手を出したあげくの事故死ってところか。本人も親御さんも、なんともいたたまれないな」
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