どたどた、ばたばた、と廊下を行ったり来たりしているのか、慌ただしそうに複数の足音が絶え間なく往来しているのが聞こえる。

目を擦り、布団から顔だけ出して枕元のゆいがセットした目覚ましを寝ぼけ眼でみた。

まだベルが鳴る時間の三十分以上前だった。何事かと思い、隣で寝ているゆいを起こそうと隣を見る。

しかし、ゆいが寝ていたはずの布団はもぬけの殻だった。昔から寝覚めが悪いゆいは、目覚ましなしで起きることはほぼ不可能と言っていい。そのゆいが自ら起きて活動を始めているなら、客人の自分も起きるべきではないか、と思い身体を起こした。

鞄から着替えを取り出し、来ていた寝巻きから普段着へと着替える。支度を終え、廊下に出てみると膝からくずおれたナツさんが固定電話を片手にどうしよう、と喚き、叫んでいた。

「ナツさん、どうしたんですか」

「し、し!」

動揺しすぎてうまく話せないのか、言葉が出てこないようだった。しかし、緊急事態であることはすぐに伝わった。

「し?何があったんですか!」

私の声に気付いたのか、栄吉さんが台所から飛び出し、真琴ちゃん!と呼んだ。

「栄吉さん!一体何が……」

「こっちに来ちゃダメだぞ!いいな!」

その一言で、何かが私の心の警鐘をガンガンと鳴らし、直ぐにあちらに行かなくてはと自然と両足を走らせていた。

「真琴ちゃん!ダメだ!」

「どいてください!」

栄吉さんの体を体当たりですり抜け、台所に飛び込む。



そこには、数々の煌びやかな美味しいおせちになるはずであった、食材達が床に散乱していた。コンロにかけられた鍋からは湯気が今も立ち上り、食欲を唆る香りを台所に充満させている。

しかしその香りの中で一人、おせちではない、別の食事を楽しんでいる人物がいた。

その人物は椅子に座り、昨日振る舞われたお雑煮を一人食べていたらしい。床には空の器が転がっている。

寂しく台所で食べるお雑煮の味の感想を彼女から聞き出すことは、残念ながらもう出来そうにない。

この家の主である霧矢たえが、椅子に背を預け苦悶の表情でこと切れていた。


「おばぁちゃん!おばぁあちゃあああん!」

「ゆい、落ち着いて、お願い」

椅子に腰掛けたまま動かないたえさんにすがりつくゆいを精一杯抱きしめ、落ち着かせようとする。

「嫌だ!死んじゃ嫌だああああああ!」

「ゆ、ゆい……」

今まで一度も見たことの無い、取り乱し、泣き叫ぶゆいの姿。とてもじゃないけど見てられなかった。可愛そうで、痛々しくて……

「たえさん……」

太一さんも、光也さんも台所に立って口を抑えたえさんの亡骸を苦しそうな表情で見下ろしていた。

「おい、ナツさんよ、ケーサツと救急に電話できたんかよ」

栄吉さんが少し苛立った様子で廊下にいるナツさんに怒鳴った。

「あ、あの。電話の調子が悪いみたいで、かからないんです、どこにも」

「じゃあ携帯使え!誰か持ってないのか!」

あります、と私の携帯をポケットから取り出した。二つ折り式のそれを開き、キーを押した瞬間、画面左上のアンテナの横に不幸にも圏外の文字が見えた。

「ダメです、圏外でした」

「クソっ、車、車出せるか」

車ならこの家の入口前にナツさんのがまだ止めてあったはずだ。

「ナツさんの車はあの雪の壁の手前にあるから出せそうですよね」

「よし、ならそれだ。ナツさんK村か街まで下りてケーサツか救急、呼んで来てくれ」

はい、と返事をしたと同時にナツさんは玄関に掛けてあったコートを引っつかみ、そのまま飛び出して行った。

「そういえば、村の他の家に助けを求めに行くのはダメだったんですか?」

ああ、と光也さんが栄吉さんの代わりに答えてくれた。

「数少ない村の若い連中は老人だけ残して数日出払ってるんだよ、K村主催でやる観光客向けのお正月イベントの設営と交通整理でね。今年残ったのは僕と太一だけだ。そして彼らは三が日は少なくとも帰らない」

となれば頼みの綱はナツさんの車だけど……何故か胸騒ぎがして、それを抑えるのに必死だった。とにかく、今私に出来ることをしよう。ゆいを落ち着かせること、そしてナツさんの帰りを待つことだ。

「ゆい、大丈夫だからね。だから落ち着いて」

「おばぁちゃん……ううぅ……」

ゆいを慰めていてすぐ気配に気づかなかったけど、後ろを見ると、私ではない方の客人がタイミングの悪いことに眠そうにしながら台所に現れたところだった。

「おはようございます、昨日はお世話になり……え」

「おう、こっちはいいから、あんたはもう帰れるなら帰りな」

栄吉さんが夜鷹の身体をくるりと回し、玄関の方へと無理やり押していった。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」

「いいからいいから」

「僕K村までの道わからないです、送ってくれとはいいませんがせめて道を……うぐぅっ!」

夜鷹が呻いたと同時に、栄吉さんを巻き込むかたちで彼は仰向けで廊下に倒れ込んだ。

ゆいが、夜鷹に飛びかかり馬乗りになっていた。

「お前のせいでえぇっ!」

「え、ゆいさん、一体何が」

一発、ゆいの鉄拳が夜鷹の右頬を抉った。

「お前が!来なければ!おばぁちゃんは皆と一緒に仲良くお雑煮を食べれたんだ!それに、それに……!」

夜鷹は黙って、真剣な顔でゆいを見つめていた。

「それに!お餅が喉に詰まったって助けてもらえたかも知れないんだ!」

夜鷹はようやく、たえさんがお餅を喉に詰まらせて亡くなったこと、そして自分が来なければたえさんは一人でお雑煮を食べることにならなかったことを、ゆいの口から知った。私も、死因が餅を詰まらせたことによるものだったことをこの時知ったことになる。

「それは、完全に僕のせいですね」

「そうだ……お前さえ来なければ……」

「ゆいさん、本当にごめんなさい。そして出来れば、もう遅すぎるけどたえさんにも謝らせて欲しい」

ゆいは黙って立ち上がり、夜鷹の顔を見ることもなく走って私たちの寝室へと戻っていってしまった。

追いかけるべきだっただろう。でも、夜鷹のたえさんへの謝罪も見届けるべきだと思った。だから、私は少しばかり台所に残ることにした。

「たえさん……昨日は本当にありがとう、こんな僕を助けてくれて。お雑煮美味しかったけど、一緒に食べてればこんな事にはならなかったんですよね」

そういってたえさんの前で、彼は土下座をした。

「たえさん、ごめんなさい」

それを聞いていた大人たちは何も言わなかった。流石に、責めることはしない。感情的になっているゆいとは違い、彼らは直接的に夜鷹のせいでたえさんが死んだとは思っていないからだった。

夜鷹は顔を上げ、たえさんの顔を見ていた。苦悶に歪んだ表情と、口から吐き出されている吐瀉物とで決して穏やかな死に顔ではない。それでも、夜鷹は自分の罪を目に焼きつけるかのように、見ていた。

そして立ち上がり、私たちの方を向くとまた頭を下げた。

「もういい、ゆいはああ言ってるがな。流石に俺らだってあんたが原因だとは思ってない」

「でも、もしも僕がいなければ」

「その時だって、もしかしたら僕たちがいる時に詰まらせてた可能性もある」


……その会話を聞いていて、明らかに何かを忘れていることに気がついた。でもそれが何なのかはすぐには浮かばない。でも何かを、「皆がしている決定的な勘違い」を思い出さなければならない気がした。それを思い出すことで、なにか別の不穏な事実が浮かび上がることも、感覚的に理解していた。だからこそ、これを思い出すことは必要なことなのだ。しかし私の腐り切った灰色の脳細胞は全く活動する気がないのか、ただただ「思い出さなければ」とだけしか信号を出さない。

「すみません、気まで使って頂いて」

「帰りはナツさんが送ってくれるだろう」

またすみません、と言って彼は俯いた。

するとちょうど玄関の扉が開く音が響く。ナツさんだろうか、それにしても帰ってくるのがいくらなんでも早すぎるように思えるけど……

「ナツさんどうした」

「く、車が……その」

「なんだよ」

「雪の下敷きになってて、全く動かせないです」

はあ!?とその場にいた全員が絶望的な声をあげ、天を仰いだ。

「落ち着いたらあとで雪かきして、それから行くしかないな……太一、光也、手伝ってくれや」

「わかった、光也も付き合わせて悪いな」

「いいんだ、一大事だからね」

とりあえず車の救出はあとでやることになったらしい。となると夜鷹はまだしばらく帰れないことになる。

「それにしてもたえさん、なんでこんなに大きなお餅を一口で食べようとしたんだろう」


えっ?


「これじゃあ、嚥下能力の低下した人だったら絶対に詰まっちゃうのに。おせちを作りながら食べてたみたいだから、慌ててたのかな……」

「ちょ、ちょっと待ってください夜鷹さん。それどういうことですか」

ほら、と言って夜鷹はたえさんの口の中を指さした。

「かなりの大きさのお餅が口の中に入ってるんです。これじゃあご老人には飲み込むのは一苦労だしかなり危険ですよ」


ここで、私のさっきから思い出そうとしていたものがようやく思い出された。そうだ、「餅」だ!不自然な点は、餅のことだったのだ。


「あ、あのちょっといいですか」

「どうしたの、真琴ちゃん」

太一さんが優しく反応してくれた。

「太一さん、たえさんと昨日座ってる場所近かったから聞こえてたかもしれないんですけど、たえさんは昨日、私は喉に餅を詰まらせて死ぬなんて恥ずかしい事は嫌だって言って、餅なしのお雑煮をわざわざ用意したんですよ」

あぁ、と太一さんは思い出した、と呟いた。

「そういえば、そう言ってたね。聞こえてたよ。それがどうかしたの」

「それで死ぬのは恥ずかしいとまで言ってお餅を食べなかったのに、喉に詰まるリスクを犯してまでその夜に、なんでお餅を食べたのかな、って」

「皆が食べてるのを見たら食べたくなったと考えるのが普通だろうな、あんなことを言った手前、もう皆の前では食えないだろうしよ。昔からそういう人だったよ、たえさんは」

そうですか、と納得しかけた時、思わぬ人物が私に声をかけてきた。夜鷹だった。

「ええと、宗田さんでしたか。たえさんは昨日私はお餅は食べない、そう仰ったんですね」

「え、あ、はい。そうです」

ううん、と彼は長く後ろに伸ばした髪を撫でながら唸ると再度立ち上がり、台所をぐるりと見回した。

すると今度はいきなり台所を後にし、廊下を歩いて自分が昨日寝ていた部屋に戻って行った。

「やっぱり変わってんな、あいつ」

栄吉さんがぽつりと呟いて、胸ポケットにしまっていた箱からタバコを取り出し火をつけた。

私は一人きりになっているゆいに夜鷹がたえさんに謝ったことを伝えようと、部屋に戻ることにした。変な人かも知れないけど、あんなにして必死に謝っている人は初めて見た。きっと、悪い人じゃない。それをゆいにも伝えたかったし、分かってもらいたかった。

「ゆい。入るよ」

ゆいは布団に包まって体育座りをしていた。

「……あいつ、なんか言ってた」

押し倒し殴ってしまった夜鷹のことを多少なり気にかけていたのだろう、少し申し訳なさそうな顔で私に聞いてきた。

「夜鷹さんね、たえさんに土下座して謝ってたよ。僕がいなければこんなことにはならなかったんですよね、ごめんなさいって」

それを聞いた途端、ゆいが嗚咽を漏らし泣きじゃくり始めた。

「私だって分かってる!あいつのせいじゃないことくらいは!でも、誰かのせいにしないと私の頭がおかしくなりそうだったの!」

ゆいは夜鷹に当たってしまった理由を泣きながら吐露した。

「うん、うん。夜鷹さんは多分大丈夫だから、気にしない方がいいよ」

「夜鷹さんが帰っちゃう前に私謝る」

「そうだね、それがいいよ」

零れた涙を拭って、ゆいは立ち上がる。そして太一と光也、夜鷹の三人が寝ていた部屋へと私たちは向かった。


「あの、夜鷹さん」

扉越しにゆいが夜鷹に声をかける。返事はなかったけど、扉がゆっくり開いた。

「ああ、ゆいさん。本当にごめんなさい、僕のせいで」

「違うの、夜鷹さんのせいじゃない。私が誰かのせいにしたくて……それを都合のいい夜鷹さんに押し付けてしまっただけ。私の方こそ、酷いことをしてしまった、ごめんなさい」

夜鷹は少し驚いた顔をしたあと、微笑んでくれた。

「じゃあ仲直り、かな。それと、二人にちょっと聞きたいことがあったんだ。今時間少し貰えるかな」

ゆいと私は顔を見合わせ、はい、と頷き部屋の中に入った。

「座って話そう、足が疲れちゃう」

胡座をかいて、彼はまた髪を撫でた。どうやら彼の癖らしい、その後も時折撫でていた。

「えっと、聞きたいことっていうのはね、まず昨日のことなんだけど。たえさんはお餅を食べるつもりは無い、そう仰ったんだよね」

「そうです、餅を喉に詰まらせて死ぬなんて恥ずかしい事は嫌だって言って」

うんうん、と夜鷹は頷く。

「それとさ、台所のこと。あれはおせちの材料かな、野菜がたくさん転がってたけどあれはいつからそうなってた?」

えっ、とゆいがびっくりしたような短い声をあげた。

「気づかなかったです、おばぁちゃん死んだのが悲しくて。でも昨日は野菜が転がってたようなことはなかったですけど」

「ふむ。するとコンロの上にあったお鍋の中も当然見てないよね」

「ええ、さすがにそこまでは」

あれはね、と夜鷹がその中身を教えてくれた。

「黒豆だよ。食べたことあるでしょ、黒くて大きめの、甘いお豆だよ」

「あります、毎年おせちで出ますよ」

ゆいの家では定番のおせちらしく、今年もそれが用意される予定だったらしい。

「昨日実は僕が寝る前にね、水にさらしていたものを見せてくれたんだ。それで、あの黒豆が入っていたお鍋の周りにはね、大量のアクが吹きこぼれていたんだよ」

アク、つまり豆を煮る際に出た不純な、余計なものである。通常はこれをおたまなどで掬って取り除く作業が数回ある。

「黒豆はアクの量がすごいから、基本的に落ち着くまではお鍋に張り付きっぱなしなんだけど、あの吹きこぼれから察するにどうやらたえさんはそうしなかったみたいなんだね」

「つまり、黒豆の鍋が吹きこぼれた頃におばぁちゃんはお餅を喉に……?」

うん、と夜鷹は頷いた。

「その可能性が高いね。するといくつか疑問が湧く」

私にはその疑問と、違和感が薄ら分かった。

「ずっと鍋に張り付いてなきゃならないのに、何故突然椅子に座ってお雑煮を食べていたのか……ですか」

そう、と夜鷹は額に手の甲を当てて困ったような顔をした。

「ちょっとおかしいと思わないかい」

「えっと……何が……ですか」

ゆいはいまいち違和感が掴めていない様子だった。すると夜鷹が簡単にまとめて説明する。

「つまりこうだよ。たえさんは今後お餅を食べないつもりだったのに、恐らくその日の深夜に一人で餅入りのお雑煮を食べた。それも、アク取りでかなり頻繁に鍋の世話をしないといけないはずの黒豆を調理している最中に、椅子に座って」

「うーん、でも気分屋のおばぁちゃんならやりかねないかも」

すると夜鷹はふむ、と唸って考え込んだ。

「まあ、そういう人だから、で済ませられるレベルの事っちゃそうかもしれない。でもなぁ、散らばってた野菜は一体なんだ?昨日は無かったって言うしなあ」

どうやら独り言のようだった。彼が何を思案しているのかはさっぱり分からないけど。でも彼の言うとおりたえさんの死に不審な点が多いということは分かった。けどそれが一体何を意味するのかまで私は想像出来ないし考えが及ぶことはなさそうだ。

「あの、聞きたいことってそれだけですか」

「ああ!ごめんね、長話させちゃって。そうだね、それだけ」

そうですか、では、とゆいは頭を下げ立ち上がり、部屋から出ようとした。その時、夜鷹がゆいの背中に向かって、

「辛いですよね、大好きな、あんなに優しいお婆さんが亡くなってしまって。僕も一日しかお会いしてないけど、本当に悲しい」

「……そうですか、そう言って頂けておばぁちゃんも喜んでると思います」

あのね、と夜鷹はいつのまにか咥えていたタバコに火をつけながら呟いた。

「人は死んでしまったらすべて終わり、なんて言われるけど僕はそうは思わない。人はね、誰かの記憶から消えて初めて死ぬんだ。つまり君がお婆さんを想い、覚えているだけでお婆さんの存在はそこに有り続ける。その言葉も、記憶も、君の中でまだ火をともして生きている」

ゆいはその言葉をどう受け止めたのか。私はゆいの背中しか見れなかったから表情まではわからない。しかし、ゆいは夜鷹に感謝の言葉を述べた。

「夜鷹さん、ありがとう。少し元気でた」

うんうん、と満足そうにタバコの煙を吐き出すと、彼は私たちに別れの意味で軽く手を挙げた。

部屋から出ようとしたゆいが扉を開けた時、目の前を栄吉さんたちが廊下をちょうど通り抜けるとこに出くわした。彼らはこちらに気付き、止まった。

「おお、なんだ。あんたら話してたのか」

「ええ、ゆいさん、わざわざ僕なんかに謝りに来てくれたんですよ」

「ああ……そう。じゃあ、これから俺たち車の上に積もった雪をどけてくるから」

「それ、僕も手伝いましょうか」

夜鷹が慌てて灰皿でタバコを揉み消し、立ち上がった。

「いやいい、いい。気にすんな」

「一宿一飯の恩を返させてください、ここで何もせずのうのうと帰ったらたえさんに申し訳がたちません」

少し困惑した様子の栄吉さんだったが、じゃあ来てくれ、と手招きをして玄関へと先に向かった。夜鷹もコートを羽織り、あとに続いた。

男性陣を見送ったあと部屋に取り残された私たちは、とりあえず自分たちの部屋に戻ることにした。

「そういえばさ、美香さんと貴美子さんはどうしてるの?今朝から見てないけど」

「一番最初にたえさんを見つけたナツさんが私たちを台所に呼んだんだけどね、その時貴美子さんがショックで倒れちゃったの。美香さんは貴美子さんの介抱してると思うよ」

なるほど、つまり客人である私と夜鷹だけ気をつかって呼ばれず、あとあと台所に遅れてきたのか。

「そっか、そりゃ倒れちゃっても仕方ないよね」

うん、そうだね、と呟くとゆいは寝室の扉をあけた。そしてゆっくり布団に倒れ込んだ。

「お疲れ、ゆい。私ここにいるから、少し寝たら」

「うん、そうする」

ゆいの隣にしゃがみ、布団を被せてあげた。彼女はすぐに目を閉じたけど、左手を布団から出して、んっ、と唸った。私は何も言わずそれを握り、その寝顔を彼女が起きるまで見つめた。目を覚ました時、少しでも寂しくないように。


数時間経った頃、私も眠気でふらふらとしてきていた。しかしゆいのことを思うと眠る訳にもいかず、時折空いた方の手で頬を抓ったりして気を保ってきた。それが何回か続き、もう限界かなと思い始めた時に玄関から物音が聞こえ、足音がぞろぞろと廊下に響いた。

「あ、栄吉さんたちかな」

小声で呟いたつもりだったが、その声でゆいが目を覚ましてしまった。

「良かった、真琴いた」

「もちろんいるよ」

ゆっくりと起き上がって目を擦る。

「今の音は、もしかして栄吉おじさんたち帰ってきたのかな」

「そうみたいだね。行ってみる?」

うん、と言って立ち上がり二人で廊下へと向かった。栄吉さんは廊下でナツさんに話をしていたらしく、太一さんと光也さん、夜鷹がその後ろで待っていた。

「おっ、ゆい。寝てたんか」

太一さんが心配そうな表情でゆいの頭を撫でながら言った。

「うん、疲れちゃって」

「仕方ないよ、流石に」

光也さんは雪かきで疲弊したのか、額に汗が滲んでいた。その隣の夜鷹はと言うと、さらにぐったりとして顔面蒼白だった。運動というか、力仕事は苦手なのだろう。ガタイもそれほど良くないように見える。強そうに見えるのはどうやら顔と髪型だけらしい。

「夜鷹さん、大丈夫ですか」

それにゆいも気付き、夜鷹に声をかけた。

「う、うん……大丈夫大丈夫」

「何か食べますか、飲み物とかもあるよ」

「そういえば朝から何も飲み食いしてなかったな……うん、出来れば簡単なものでいいから頂けますか」

分かった、と言ってゆいは栄吉さんとナツさんの横をすり抜けて台所へと向かった。

そういえば皆朝から何も口に入れてないはずだ。あんなことがあれば忘れてしまうのも分かるけど、何か食べなければそれこそさらに疲れて動けなくなる。かくいう私も今の会話を聞いた途端一気に空腹感に襲われた。

「宗田さんも食べてないんじゃないの」

「え、ああ、私?私も、そうですね」

「お互い、ゆいさんに貰った方がいいね」

ええ、と言ってその言葉に賛成しゆいを追いかけ私も台所へと向かう。

「ゆい、ごめん。私も何が貰えるかな」

台所の冷蔵庫の戸を開け、中を物色していたゆいに声をかけた。

「もちろん。栄吉さんたちは忙しそうだから、美香おばさんたちにも何か持って行って一緒に皆で食べようか」

そうだね、と言ってゆいに手渡された惣菜や缶詰などをテーブルに置き、それを大きめの盆に載せた。

「私飲み物持つから、真琴はそっちお願い」

「分かった」

二人で台所を出て、待たせていた夜鷹を呼びに行く。

「夜鷹さん、これ持ってきたんですけど美香さん達も食べてないはずだから、あっちで一緒に食べましょう」

「うん、何から何までありがとう。助かるよ」

「いえ、雪かきも手伝ってくれたみたいですし」

「いやいやそんな。じゃ、早速行こうか」

夜鷹は相当空腹な様子で、ゆいの背中を先程とは別人のように元気そうに追いかける。その元気さはまるで餌を目の前に吊るされた馬のように思えた。

「美香おばさん、ゆいです。ご飯持ってきました」

どうぞー、と扉の向こうから声が響き、手が塞がってる私たちに代わって夜鷹が扉を開けた。

「あら……夜鷹さんも?」

部屋には布団で横になっている貴美子さんと、その横で洗面器でおしぼりを絞っている美香さんがいた。

「ああ。すみません、僕までは流石にお邪魔ですよね。ゆいさん、僕向こうで食べるよ」

「いいわよ、夜鷹さんもこっち来て座りなさいな。昨日あまり話せなかったし、話しながら食べればいいわよ」

すみません、夜鷹はお辞儀をし二人から少し離れた位置に腰掛けた。

「ゆいちゃんご飯持ってきてくれたの?気を遣わせちゃって悪いわね」

「いえ、そんな」

私も床に座り、盆を皆の中央あたりに置いた。ゆいはコップにペットボトルからお茶を注ぎ、皆に配った。

「貴美子さん、ご飯食べられそうかしら」

「食べます、食べれば元気が出るかもしれないわ」

起き上がり、貴美子さんは盆を眺め始めた。私はこれにします、と魚の缶詰とおにぎりを選んでゆっくり頬張り、上品に咀嚼している。

「じゃあ私はこれ……」

美香さんが選び終わると、ゆいが私に選んでいいよ、と手を差し出したからそれに従っておにぎりをひとつ貰った。

「夜鷹さんも」

「ありがとう、じゃあ僕もおにぎりにしよう」

彼はサランラップを上手に剥がし、一口食べると満足そうに頷いていた。皆が取ったあと、ゆいも小さなおにぎりを選んだ。

「それでね、夜鷹さん。あなたの昨日のお話……人間の幸せの、あれが本当に面白くて。また何か聞かせて欲しいの」

貴美子さんが夜鷹に昨日の話の続きを所望していた。昨日のあの話は確かに興味深い点が多かった。私は概ね賛成できる意見であったし、何より夜鷹の話し方が上手かったのもある。私も少し、他の話でもいいから聞いてみたいなと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る