二
満身創痍になりながらもなんとか年内全ての補習を終えた私は大晦日の朝、東京の玄関口にあたる駅にいた。無事着いたはいいものの、あまり来る機会がないものだから、北口やら東口やらがどこにあるのか、どう行けば着くのかがさっぱり分からず右往左往してしまっていた。さ迷い歩き続けて結局なんとか待ち合わせ場所には着いたけど、そこには既にゆいが待っていて、しばらく待ちぼうけをさせてしまっていたらしかった。慌てて駆け寄り、声をかける。
「ご、ごめん。あまりに広いから迷っちゃって」
「あは、まぁ仕方ないよ。何回か来ないと分からないよね。ささ、早くお弁当買って電車乗ろう」
不意に手を握られ、ぐいぐいと引っ張られる。恐らくゆいと手を繋ぐのは小学校以来で、それがなんだかむず痒かった。
構内の駅弁専門店で数ある種類の中から一つ駅弁を選び、ペットボトルのお茶と一緒に購入した。私は焼肉弁当、ゆいは海鮮丼を選び、それらを手に電車のホームへと少し早足で向かう。
「別に一本逃したくらいは大丈夫なんだけど、やっぱり着くのは早い方が向こうもいいと思うからさ。あ、この電車かな」
目的の電車を見つけ二人で乗り込んだ。車内は暖房がかなりきつめに効いていたので、数分と経たずにコートもマフラーも脱いでしまった。すこし汗ばんだ体を狭いシートにもたれかけて、先程買ったお茶を飲んで一息つく。
「やっぱり年末だからかな、人が多いねぇ」
車内には私たちより後に来た乗客たちで埋め尽くされていた。通路に立っている人もいれば、後ろのデッキで座り込んでいる人もいる。私たちはどうやら座れてラッキーだったらしい。
「ちょっとお弁当食べづらいね」
私がそう言うと、何故そんな事いうのかわからないと言ったふうな顔をして、彼女は構わず弁当をビニール袋から取り出した。
「別に関係ないよ。私たちが買ったお弁当は匂いもきつくないし。そもそも座れたのは早く来たからなんだからさ」
相変わらずの歯に衣着せぬ物言いで半ば無理やりに私にも弁当を食べるようにと言葉と手振りで勧めてきた。彼女らしいと言えば彼女らしいけど、あそこまで大胆なことを大勢の前で言うのは少なくとも肝の座っていない私には到底無理である。言われるがまま、弁当の包みと蓋を開けて割り箸を取り出す。
昔食べたのとは比べ物にならないくらい、その弁当は美味しそうに見えた。やはり月日を重ねるごとに駅弁であれお茶であれなんであれ、食べ物も日々進化を遂げているらしい。
いただきますと小声で呟き、箸でご飯を摘んで口に運んだ。甘辛く味付けされた牛肉と、冷えてはいるがしっかりした甘みと弾力のあるご飯が口の中で混ざり合い、実に美味しかった。
「美味しい」
「そう?良かった。電車も走り出したし、ご飯食べたらゆっくり過ごそう。そこそこ時間かかるからね」
そう言って私の数倍の速さでゆいはご飯を口に運ぶ。ゆいが早食いなのは昔からで、恐らくではあるけど、給食のお代わり争奪戦が原因だと私は勝手に推測していた。配膳された食事全てを完食しないとお代わりが出来ないルールだったから、それを何回も経験しているうちに速くなったのだと思う。
気付けばすべてを平らげていたゆいはお腹をさすりながら天を仰いで満足そうな笑みを浮かべる。そしてゆっくりと目を閉じた。
「ふわぁ……私寝るねぇ。Sって駅に着いたら起こして……」
まあ、これは予測していた事態だった。ゆいを家に呼んだ時は必ずと言っていいほどに、食事の後はすぐに寝ていたから。それがお菓子であろうと、昼飯であろうと、何かがお腹に入ると途端に眠くなるらしい。でも給食の時はそうでは無かったから、何か他の要因もあるんだろう。
「いいよ、分かった。よく休みなよ」
返事は無かった。既に睡魔によって夢の世界に引きずり込まれていたらしい。
ゆいが言っていたS駅を忘れないようにして、メモに書き記しておいた。漢字までは分からなかったから、とりあえず平仮名で済ませた。
メモを鞄にしまい、座席にもたれてリラックスしようと試みた。座席は狭く、そして絶妙に固くも柔らかくもないので体勢が中途半端に傾いてしまうけど、数時間座り続けるには充分であった。
窓の外を眺めると、まだ高層ビル群が立ち並び背比べをしている中を電車は走っている。まるで陽の光の取り合いをしているように背伸びしているそれは、何かの競走のようにも、戦争をしているようにも思えた。一番の被害者はその遥か下にある小さな家々だとはそのビルたちは到底思っていないし、気付いてもいないだろう。そんなことを考えていると、もしかすると自分が就活をして内定が取れた時に、私のせいで職にありつけない人だって居るんじゃないか、なんて今まで一切考えなかったことがふと頭に浮かんだ。
何故そんな事を思ったかはわからない、ただ、陽の光を浴びて煌めきながら目の前にそびえるビル群と暗い足元で肩を寄せている家々を見ていたら、そういう考えに至ってしまったのだ。
私が陽の光を浴びようとしているせいで、もしかしたら、私の陰で暮らさなければならない人もいるのかな。
いや、やめよう。こんなくだらないことを考え続けたって何にもならない。人間はそういうものだし、そうやってここまで文明が発展、発達してきたんだから。そう、いくら神でも全ての人は救えないのだ。いくらかの犠牲、しわ寄せがどこかに起こってしまう。幸せとはそういうものだろう。全員が幸せに暮らすというのは有り得ないんだ。
はぁ、と深くため息をつく。吐息で窓が曇り、しばらく都会の景色を遮断してくれたお陰で、それを思考することをやめさせてくれた。
隣を見ると、相変わらずゆいが寝息を立てて気持ち良さそうに寝ている。
ゆいに今の話をしたら、なんて言うだろう。
考えすぎだよ、と一蹴されるかな。
似合いもしない哲学的な思考に疲れた私は、大学でよくしているように窓の外に目を向けて、しばらくの間ぼうっとすることにした。
東京に今年初の雪が降り始めていたことに気がつくのは、それからしばらく経ってからのことである。
ーーS駅……S駅……ーー
それから恐らく二、三時間が経った頃、車内アナウンスでS駅と聞こえたように思えた。しかし車掌の声とマイクの音量が小さすぎる故にはっきりとは聞き取れず、確認のため慌ててゆいを起こした。
「んー?どうしたの」
「ごめん、車内アナウンス聞き取れなくて。もう着く頃かな」
ゆいは私の前に体を起こし、窓の外をしばらくじっと見た。
「ああ、K山が見えるし今ちょうど駅の手前の陸橋を渡ってるところだね。うん、次がS駅で間違いないよ」
「良かった、聞き逃したかと思った」
「まあ乗り過ごしても死にはしないよ。でももうそろそろ降りる準備をしようか。人が多いから降りるのに手間取りそうだし」
そう言って足元に置いた鞄を片手で持ち上げ、ゆいはすみませーん、と言いながら人をかき分けてデッキ方面へとずいずい歩いて行った。私も遅れを取らないようにゆいのあとに続いた。
自動ドアの前にゆいは立って、気だるそうに背伸びをしていた。デッキは暖房の効きが悪いのかかなり冷えており、私は慌ててコートを着た。ゆいはこの程度の寒さに慣れているのか分からないけど、コートを片手に持って特別気にしていない風だった。
電車は速度を落としゆっくりと走っている。降車はもうすぐだ。
「あ、しまった」
電車が駅のホームに止まるか止まらないかというところで、突然ゆいが急に口を手で抑えてしまったしまった、と連呼して慌てだした。
「何?座席に忘れ物?」
「違う、もっと大変なこと忘れてた」
家から何かを持ってくるのを忘れたのだろうか。おばあさんへのお土産とか、生活用品とか……?
「とりあえず降りよう、ドア閉まっちゃうよ」
私が電車から降りると、どうすべきか真剣に悩んでいるゆいが、ドアの内側でまだ立ち尽くしていた。
「ちょ、ちょっと!ドア閉まるよゆい!」
仕方ない、と呟いてゆいは鞄を手に電車から降りた。
「危ない、電車出発しちゃうとこだったよ」
「いやね、ある意味出発したほうが良かったかも知れないのよ」
「どういうこと?」
いやぁ、と頭をぽりぽりとかきながら照れくさそうにゆいは話し始めた。
「実はさ、何時頃着くっておばあちゃんに電話するの忘れてて。迎えが来てないかも知れないや」
なんだそんなこと。今から電話すればいいことだし、そして待ってる間はカフェにでも入って暖を取ればいいだけのことじゃないか。最悪タクシーだって使えるだろう。何をそんなに慌てる必要があったのか……
「別に今から電話すればいいじゃん、待ってる間はカフェでお茶しようよ」
するとゆいは何を言っているんだとばかりに目を見開いて私の顔を引き気味に見た。
「カフェなんてこのド田舎の駅にある訳ないでしょ……それに家から駅までは一時間かかる。それと、タクシー呼べばいいって思ってそうだけどここにそんなものは無いよ」
なるほど、私の読みと理解が大変甘かったらしい。そしてやはり色々見透かされている。
「つまり私たち二人はこの極寒の駅で一時間待ちぼうけ、と」
「そうなるね」
今ここでようやく先程のゆいの行動の理由がわかった。少なくとも電車の中から電話して、適当な駅で引き返し超過分の料金を支払えば私たち二人は暖かい思いをできたままでいられたという訳か。それで車内から出るのを一瞬ゆいは躊躇った、と。
「とにかく降りちゃったものは仕方ない、駅前に小さなロータリーと小屋があるからそこで暖をとろう。もしかしたら昔と違って石油ストーブくらいはあるかも知れないし」
微かな奇跡を信じて私たち二人はホームを離れ、改札を抜けた。気づかなかったけど雪が横殴りに降っていて、頬が一瞬でピリピリと痛くなってくる。
「小屋は……あそこだね」
改札を抜けた左手に、実に年季の入った木造の、本当に小さな小屋が佇んでいた。大人五人は絶対に入れないくらいの広さで、中には数脚の椅子と仕事をしていない石油ストーブが置いてあった。
「げぇ、燃料切れてるのかな」
かちゃかちゃとゆいはスイッチを回すが、威勢がいいのは音だけで火がつく気配はなかった。
「あ、そうだ電話をしよう」
ゆいは携帯を取り出し、手袋を外すとどこかへ電話をかけ始める。
するとそれと同時にどこかで着信音が鳴り響く。えっ、とびっくりした私は思わず自分の携帯を取り出し、確認した。電話はかかってきていない。一瞬、ゆいが間違えて私に電話をかけたのかと思ったけど、どうやらそうではないらしい。そしてゆいはその着信音に気付いていないらしく、耳に携帯を当てたまま石油ストーブとまた格闘し始めた。
まさか……と思い小屋の外に出てみると、そこには割烹着の上にダウンコートを羽織り小屋の前で佇んでいる、老いた……と言ってもお婆さんと呼ぶにはまだかなり若い女性が、携帯を持ったままこちらを見ていた。
「あの……えと……」
こちらを見てはいるけど、怪訝な顔をしていたからなんと声をかけたらいいかわからず、言葉に詰まってしまった。そもそも声をかけてよかったのだろうかとも思い、寒さで赤かった顔がさらに赤面したのが自分でも分かる。
「あなた、ゆいちゃん……じゃないわよね」
「いえ、違います。でもゆいなら小屋の中にいますよ。もしかしてゆいのお婆さんで……?」
ようやく合点がいったのか、その女性は先程の暗い表情から笑顔になり、安堵した様子で話し始めた。
「良かったわぁ、連絡がないもんだからね、心配して一応来てみたのよォ。そしたらね、二人の女の子が小屋に入るのが車の中から見えたから、慌てて来たわけ」
ゆいのお婆さんかどうかの問いには答えてもらえなかったけど、どうやら心配して迎えに来てくれた家の人であることは確からしい。これで女二人で吹雪の中、雪だるまにならずに済みそうである。
「連絡せずに申し訳ありませんでした。迎えに来て頂いてありがとうございます、本当に助かりました」
「いいのいいのぉ、で、ゆいちゃんどこかしら。早く呼んで車に乗らないと皆して凍えちゃうからね」
ゆいの名前を大声で呼ぶと、彼女は小屋の入口からひょっこりと顔を覗かせた。そろそろとこちらに近づくと、ゆいはその女性に軽く会釈をした。
「どうも、霧矢たえの孫のゆいです。どうやら迎えに来て頂いたみたいで……」
「そうよォ!連絡ないから心配しちゃったわ!」
すみません……とゆいにしては珍しく申し訳なさそうに小声で謝り頭を下げていた。
「いいのよォ、じゃあ早く車に乗って頂戴!あなた達も寒かったでしょうけど、私も寒いからねぇ!」
車はちょうど改札を出た位置からは死角になっている場所に停めてあったらしい。小屋からはなんとか見えるけど、私たちは寒さでそれどころじゃなく、全く気づかなかったようである。
コートに積もった雪を払い、車の後部座席に二人で飛び込む。暖房が程よく効いており、かじかんだ指や頬をゆっくりと暖めてくれた。
「さて、自己紹介でもしましょうかねぇ」
サイドブレーキを解除し、車が発進したと同時に運転手の彼女が言った。
「まずは言い出しっぺの私からね、名前は御影(ミカゲ)ナツっていうのよ。今年の秋から霧矢邸で働かせて頂いてるから、ゆいちゃんとは会うの今回が初めてね」
はい、とゆいが頷くと続いて話し始める。
「霧矢(キリヤ)ゆいです、霧矢たえの孫で……す。お正月の間、よろしくお願いします」
何か詳しく話そうとしたのだろうけど、特別無かったから自分で無理やり打ち切ったような自己紹介だった。あの口が達者なゆいの別の一面を見れたみたいで嬉しかったけど、どこか少し違和感があった。それが何なのかは分からない。でもきっとそれは今まで私が見てきたゆいと、今見ているゆいのどちらが本当のゆいなのか、という疑問に基づいている気がした。もちろん人間なのだから、人や環境によって話し方や気分が変わるのは当たり前だしそれは分かってはいるのだけど、そうではなくて、もしかしたらゆいは……どちらか一方のゆいが、嘘をついてもう一人を演じているんじゃないか。そんな印象を私に与えさせるくらいに、真実味を帯びた不自然さがあって、そして奇妙なくらい自然だった。
「あなたはゆいちゃんのお友達ね?」
「あっ、はい。宗田真琴(ソウダマコト)って言います。ゆいとは小学校の頃から仲良くしてもらってます」
自己紹介をしたところで、先程の違和感の件は完全に頭から離れていった。解消された訳ではなく、会話に集中したために意識の外に飛び出ただけのようだった。
「小学校から!すると幼なじみなのねぇ。そういえば、ゆいちゃんのお父さんお母さんも幼なじみって聞いたわよ。あっ、たえさんも旦那様とは幼なじみだったかしら。それでねぇ……」
どうやら話し始めると止まらない人らしかった。その後も延々と霧矢邸、特にゆいのお婆さんのことについて話をしていた。良くしてくれるとか、素敵な思想を持ってるとか、そういった話を結局到着するまでの丸々一時間して、私たちはそれを黙って聞いて、時折相槌を打つことしかできなかった。
道中、たまに話を聞きつつ窓の外を見やると、確かにゆいの話していた通り一面綺麗な雪化粧に包まれた山々が連なっていた。後で感想をゆいに伝えるのを忘れないようにしようと心に留め、再びナツさんの話の続きを聞くのであった。
「もうそろそろ村に着くわよぉ、いい所なんだから本当に。私もここに生まれて誇りに思ってるくらいよ」
「ナツさんもS村の出身なんですか」
「ええ、そうよぉ。でも私は若い頃に一度離れているから、ずっと住んでいるわけじゃないわね。でもやっぱりここが恋しくなって、戻ってきたわぁ」
そう言うとナツさんは嬉しそうにうんうん、と頷いてみせた。
「もしかして、私のお父さんお母さんのこと知ってたりするんですか」
「そうね、同じ村だったから一応は知ってるわよ。ただあまりお話はしなかったかしらねぇ、私はその時こんな風にべらべら喋るオバサンじゃなかったから」
「では、私のことも?」
「もちろん知ってるわ、幼稚園に行く前くらいの年齢まではあなたもこの村にいたものねぇ。でもやっぱり乙女の力ってすごいわね、刮目して待ってたけどあのおちびちゃんがとんでもない美人さんになっててびっくりしちゃったわぁ」
やめてくださいよ、とゆいは少し照れた風に顔を伏せた。
そうか、ゆいは幼稚園の年中さんくらいから東京に来たんだった。それで確か地元の友達もいなくて、いつもクラスでひとりぼっちだったんだっけ。それを何となく、本当になんとなくあなたの名前はなぁに、って声をかけたらいきなり怒られたんだ。まずは自分の名前を名乗ってからだよ、って。それで私もムカッときちゃって、酷い言い争いの喧嘩をした記憶がある。でもゆいの口には当時でも勝てなかった。あまりの強さに結局私が折れて、名前を叫びながら名乗ったらけらけら笑いながら名前を教えてくれたんだ。その日から自然と話す機会が増えて、いつの間にか友達になってた。
でもその頃からゆいはその口の達者さと正直さが祟って今と同じように友達もあまり出来ず、私以外とはあまり喋ったり遊んだりはしなかった。今は分からないけど、当時は友達が少ないことを気にしていたように思う。それをなんとなく察して、皆に合わせて上手いことやればいい、と中学の頃アドバイスしたことがあったけど、嘘は言えないし言いたくないから嫌だって頑として聞かなかったなあ。
「真琴、どうしたの。もう着くよ」
「んあ、ええ?」
またいつものように外を見ながらぼうっと考え事をしていたせいで、随分と時間が経っていたことも、話しかけられていたことも気づかなかった。
「ご、ごめんごめん。また考え事してた」
「あまり思い詰めない方がいいよ。結局、人は変えられない。変われるのは自分だけなんだから」
ゆいは恐らく元彼の事を言っているんだろうけど、私はその言葉を思わずゆいに当てはめてしまった。
「さあ、村に着いたわよ。真琴ちゃん、見てご覧なさい!この藁ふき屋根」
「わあ……すごいですね、雪が積もってより綺麗に見えます」
S村はいわゆる藁ふき屋根が家屋の屋根の大半を占めており、すべて手作業で交換や手入れをしているそうだ。この屋根なら積雪にも耐えられ、耐久性に優れているらしい。
この村の近くにはもっと大きな集落があり、そこも藁ふき屋根で有名らしく毎年大勢の観光客が来るとナツさんは言った。
「こっちの村には観光客の人こないんですか?」
「観光客はほとんど来ないわねぇ。こっちはそもそも藁ふき屋根の数が少ないし、何より宿もご飯屋さんもないから。それに、あっちの村には人手不足でこっちからは人が手伝いに行ってるのよ。だから中々ねぇ」
そうなんですね、と相槌を打ったところで車が急に止まり、危うく舌を噛みそうになった。
「あら……いやだわ。雪が崩れてる」
後部座席から身を乗り出し前を見ると、ブルドーザーで積み上げたかのような雪の山が車の行く手を阻んでいた。どうやら除雪車が左右に高くどけた雪が何らかの理由で崩れてしまったようだ。
「もうあと50メートルで家なのに、どうしましょうかしら」
「ナツさん、もう歩きましょう。方向は分かるし、距離も問題ないですし。車は除雪車が来るまでここに置いておいても問題ないかと」
そうねえ、とナツさんも諦めた様子で、エンジンを切ってサイドブレーキを引いた。車から出るとナツさんはフードを被り、
「それじゃあ私に着いてきてね、足元に充分気をつけるのよぉ」
と言って左右に積み上げてあった雪が崩れた場所をよじ登って歩き始めた。年齢は若くないはずだけど、すごいエネルギーを持った方だな、と思う。
「真琴、雪道慣れてないだろうから気をつけてね」
「うん、ありがとう」
遠ざかるナツさんを追いかけ、私たちも雪を這い上がり後を追った。新雪に足をとられなんかいも靴が脱げたり転んだりしたけど、その度にゆいが引っ張って助けてくれた。
「真琴、しっかりー」
「う、うん」
叩きつける雪の中で立ち止まるナツさんが見えた時、彼女の後ろに巨大な影が見えた。それは、最初は真っ黒に見えたけど、近づくにつれて深い茶色であることがわかる。
「あ。すごい、これもさっきの屋根と同じ家?」
「うん、そう。この村で一番大きい家なんだよ」
確かにここに来るまで見えた家とは全くサイズが違った。恐らく先程の家を四、いや少なくとも五以上まとめた大きさはありそうだった。
「さあさ、早く入りましょぉ!」
ナツさんが手招きをしていたので家の観察はまた後日にし、今はさっさと中に入ることにした。
家を取り囲むような柵であったり壁は無かったけど、その代わりに玄関には鳥居を模したような木製の門柱があった。そこを潜り、引き戸式の扉の前に立つ。呼び鈴らしきものは一応あったけど、ナツさんは鍵を割烹着のポケットから取り出して解錠した。鍵は昔の家でよく使われてそうな柄が細い棒状のもので、先端に凹凸があるタイプのものだった。
「あがっていいわよぉ。私はおせちの準備があるから、そのまま台所に行くわね。たえさんたちはきっと囲炉裏の間にいるから、早く顔を見せてあげてね」
「はい、ナツさんありがとうございます」
いいのよ、とゆいに言うと彼女は先に家の中へと入って行った。
「緊張してるの?」
玄関にきてから棒立ちで無言だった私を見て、ゆいが笑いながら聞いた。
「そりゃあね。初めてお会いするわけだし」
「大丈夫、おばあちゃん優しいから。じゃ、入ろうか」
ゆいが先に玄関の中へと入り、靴を抜いでから廊下に上がり、手振りで私を招き入れてくれた。
「お、お邪魔します」
「はい、いらっしゃい。ゆっくりしてってくださいね」
そう言うとまた私の手を握って、廊下を先導してくれた。これ以上ないくらいに緊張していたところだから、今回ばかりは恥ずかしいとかは感じず、むしろ安心してしまっていた。
「おばぁちゃん、きたよー」
とある引き戸の前でゆいが大きく挨拶をすると、それと同時に内側から戸が開いた。そこにいたのはお婆さん……ではなく、かなりガタイのいい、私たちと同じくらいの年齢の男が立っていた。そしてゆいの言った通り、その男は確かにイケメンであることは間違いなかった。
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