受験戦争が終わったら、きっと誠実で素敵な彼氏が出来て、友達は増えて、講義も楽しくて……なんて甘く考えていた三年前の自分を、今となっては当時に戻ってぶん殴りたい気分である。

私は今就活の真っ只中にいて、そんななか大好きだった彼氏には浮気をされ、内定を先に取った友達とは中々遊べず、そして自分をよく見せることに磨きをかけてばかりいたら講義が疎かになって、補習の連続で卒業すら危ういといった状況なのであった。

すべて因果応報、自分が悪いのは充分承知しているのだけど、やはりまだそれを受け入れられるだけの心の余裕というかゆとりはなく、出来ることなら人のせいにしたいと願って無様に重い頭を抱えることしかできなかった。

後悔にも苦痛にも似た歪んだ思いを胸に、講義の合間で中庭を慌ただしくも楽しそうに行き交う後輩の学生たちをぼうっと見ながら、私は教室の窓に頭をもたせた。

今にみてろ、楽しそうに出来るのも今のうちだからな、お前らもいつか私と同じ目に合うのだ!などと訳の分からない独りよがりの当てつけを心の中で彼らに投げ付けていると、後ろから声がした。ずいぶん大きな声だったから、悲鳴と共に飛び上がってしまった。

「真琴、大丈夫?」

そこに居たのは、霧矢ゆいだった。数少ない私の大学内での友人であり、小学校からではあるけど、一応幼なじみである。唯一と言ってもいい、大学内で最も気を許せる人物でもある。

突然声をかけられたものだから、頭と口がうまいこと回らず、あぁ、うぅ、と動物のように唸ることしか出来なかった。

「あは、なにその変な鳴き声!それにその様子だと大丈夫じゃなさそうだね、何回か声掛けても長いこと気づかなかったし」

「ごめん、ぼーっとしてたから」

無愛想に返事をしたつもりはなかったのだけど、まだ頭がはっきりとしないせいでろくな返事ができなかった。一度思考停止すると、それからしばらく脳が休み続けてしまうのは昔から私の悪い癖で、自身でもよく分かっているのだけどどうにも治らない。

「頑張りすぎて疲れてるんじゃないの?しばらく休むとまではいかなくても数日くらいリフレッシュしたら?」

ゆいはそう言ってくれたものの、正直この時期は補習まみれでまったく身動きが取れない。リフレッシュしようにもこれをサボったら就活どころの騒ぎじゃなくなる。就職どころか卒業すら出来ないのだ。

「素敵な提案ありがと、でも私、たんまりと補習があってさ」

「あは、馬鹿だねぇ。どうせ講義サボって

、彼氏とどっかほっつき歩き回ってたんでしょ」

実に耳が痛いことを言われた。実際その通りだったし、何より彼氏のことを今は思い出したくなかった。

去年の暮れから付き合い始めた学年が一つ上の彼氏と私は最近別れたばかりで、現在進行形で傷心中なのだった。

「その話はやめて、ゆいも知ってるでしょ」

「うん、別れたんでしょ。知ってる」

特に私の気持ちを汲んだりする様子もなく、彼女はあっけらかんと言った。ゆいは昔からそういうストレートにものを言うタイプの女の子である。その大胆な性格に一応は慣れたし、私自身取り繕われたり気を使ってお世辞を言われるよりは遥かにマシだったから、特に彼女に怒ったり不快な感情を抱いたりすることは無い。だけど、時々痛いところをつかれるのは滅入っている時には精神的にきつい。

そして想像されるとおり、慣れている私とは違いそういった物言いが苦手な人がかなり多く、そんな彼女の周りから自然と人が離れていったのを私は知っている。本人も薄々気づいてはいるみたいだけど、それを気にしたり悲しんだりする素振りは一切見せなかった。本当に気にしていないのかも知れないし、他人には隠していたのかも知れない。

素直で、真実しか話さない彼女が人に嘘を吐かないにしても。自分の心を守るために自分に嘘を吐いているのかな、なんて考えてふとしまう。それはすごく悲しいことで、残念で、私には理解が及ばない範疇のことだった。

「補習、いつまで?」

「年内は毎日あるよ」

ふぅん、と彼女は鼻を鳴らす。上を向いて、何かを思案しているようだった。

「お正月は流石にないよね、補習」

「ないない。家で休む予定だよ」

「ならさ!」

彼女を右手の人差し指をぴん、と立ていたずらに笑ってみせた。

「私のおばあちゃん家、来ない?」

「え?ゆいのおばあさんの家?」

彼女とは長い付き合いになるけど、そういえば彼女のおばあさんとお会いしたことは一度もなかった。母方にしろ、父方にしろ、少しも話を聞いたことすらない。お父さんとお母さんはもちろん会ったこともあるし、家にだって何度も遊びに行った。でも、おばあさんの家は一度たりとも無い。

「え、でも迷惑じゃない?だってお正月だよ」

「大丈夫、家も多少は広いし。それにお正月には近所の人が集まって食事をするから何人行ったって変わらないよ」

「ううん、それにしたって……」

人の家に行くのは小学校で散々経験したはずだけど、年齢を重ねるごとに機会が減り、慣れていたはずのことが難しく、怖く、酷く恥ずかしいように感じる。

「大丈夫だよ、おばあちゃん達優しいから。美味しい料理もたくさんある、景色は綺麗、それに村の若い男はイケメンばっかりだよ」

彼氏と別れたばかりだからだろうか、不覚にも最後の部分だけ特別気になってしまった。

別にそれに釣られたわけでは決して、決してないけれど、少し話を詳しく聞いてみようと思った。

「おばあさんの家って、どこにあるの?それと、ゆいのお母さん方の?」

「G県だよ、ちょっと郊外にあって町からは離れてるけどとても良いところ。ううん、お父さんのお母さんだね」

つまり彼女の父方のおばあさん、か。そういえばかなり昔になるけど私たちが中学の頃に彼女のお父さんと会った際、薄らと話を聞いたような気がする。地名までははっきりとは思い出せなかったけど、彼女のお父さんは山に囲まれた小さな山村出身で、一緒に山村で育ったお母さんと結婚したと。その後ゆいを授かって出産したあとに上京したって言っていたのを思い出した。子供ながらに素敵な話で、幼なじみと結婚したってところが典型的な少女漫画好きな私の心をくすぐったことをよく覚えている。つまり母方だろうが父方だろうが、行くところは同じだったようである。

考えてみれば彼女の話はまったく悪い提案ではなかったし、この地獄の補習祭りから逃れて景色のいい山村でお正月を友人とゆっくり過ごせるなら、それも案外いいかもしれないと思った。自分の家族で過ごすのももちろん悪くは無いのだけど、恐らく友人と過ごす学生時代最後のお正月になるかもしれないから、人生の記念にもなるだろう。

「じゃあ、お言葉に甘えようかな。でも両親には相談しないと」

さすがに学生の身、それに仮にも女子なので、泊まりになるならば一応両親に確認を取ってからでないと流石にまずい。今まで散々夜遊びだったり泊まりを繰り返してせいで心配をしてくれるかはわからないけど、もしかしたら数日家を空けるとなればしておくべきだろう。それを済ませてから返事をすることにした。

「そうだよね、そうした方がいいね。大丈夫そうだったらメールしてよ。それから私もおばあちゃんに連絡入れるから」

そう言うとゆいはくるりと後ろに向き、鼻歌交じりに教室を立ち去って行った。取り残された私はまたぼうっと窓の外に目をやった。彼女と出掛けるのは久しぶりになるな、そういえば最後にお泊まりしたのはいつだっけ……なんて考えを巡らせていると、講義の開始を知らせるチャイムが気だるそうに響いた。楽しい歓談から気分は一気に現実へと引き戻され、真冬の憂鬱な補習がじっとりと再開される。



疲弊して最悪な気分と楽しみを控えて高揚した気分とを胸にしたまま補習を終え、雪でも降りそうな寒さの帰り道を小刻みに震えながら歩き、家へと帰った。

家に着くなり玄関で靴をすっ飛ばして、暖房の効いた居間へと駆け込んだ。

「手くらい洗いなさいよ」

んー、と母の小言に生返事をして愛してやまない炬燵に足を入れる。心地よい温もりが寒さで冷え切った両足を包み込み、じんわりと癒してくれた。

炬燵の上に綺麗に積み重なっている蜜柑の一つに手を伸ばし、皮を剥いて一切れの果肉をつまむとそれを口に放り込んだ。そして今日ゆいと話をしたことを母に伝えた。

「あら、ゆいちゃん。久しぶりにその名前聞いたわね」

「いや、最近話をしてなかったわけじゃないんだけどね。それをお母さんに話すことがなかったってだけ」

「そうよね、もう子供じゃないんだし」

私が子供の頃はゆいちゃんが酷いことを言っただの、男の子を泣かせただの逐一お母さんに報告していものだから、きっとその名残があるのだろう。彼女と話をしたりすればその内容がすべて自分に伝わると母はまだ思っている。

「それで、ゆいちゃんがどうかしたの」

「いやね、お正月におばあさんの家に招かれてさ」

炬燵に入ったまま体だけ振り返り、台所にいた母の顔を覗いた。特別驚いた表情はしていなかったが、少し怪訝そうにしていた。

「あら、そう……ご迷惑じゃないかしらねぇ」

「私もそれを言ったんだよ。でも大丈夫だって、強く言ってたから」

「ならお邪魔させて頂いたら?お正月に友達と過ごすのも素敵なことだと思うわよ」

母は少し残念そうにしていた。一応、こんな不良娘でも多少なりともお正月には一緒に居たい存在だと思ってくれているらしかった。「お父さんには私から伝えておくわよ、相変わらず毎日帰り遅いし」

「ありがと、お願いします」

軽く礼を言って、炬燵に肩まで潜り込み腕枕をして目を閉じる。横になったら日々の補習の疲れがどっと出たらしい、色んなことが頭の中で次々と浮かんでは消える。なんでこんなことになってしまったんだろう。本当なら、順調に就活が進んで、内定が出て。彼氏と同棲とかして……それから⋯⋯

何が浮かんでも、後悔の念ばかりが湧き続けた。ふと、唇に痛みを感じる。自分では気づいていなかったけど、かなり強く唇を噛み締めていたらしい。口の中にふわりと鉄の味が広がった。

彼氏、か。本当に好きだったんだけどな。

年上の彼氏、今となっては元彼氏ではあるけど、奴は簡単に言えば浮気、つまり私に嘘を吐いて学内の女と付き合っていた。何が不満だったかを問いただしても、君が一番だの、あいつは遊びだっただの、言葉を覚えたばかりの文鳥みたいに同じことを繰り返すばかりだった。そしてその言葉も、もちろん嘘だろう。

私は嘘が嫌いだ。


人を貶めて、でも自分だけ楽になって。そういう狡い言葉も、それを吐くやつも嫌いだ。

だから、奴には別れを切り出した。未練はもちろんある。ただ、狡猾で淫乱な嘘つき野郎と付き合い続けて自分に嘘をつくくらいなら、別れた方が遥かにましだった。

切ってしまった唇を舐め、徐々にやってくる微睡みに身を任せてみる。ろくなことしか頭に浮かばない時は、寝るのが一番だと母が言っていた。その言葉に倣い、暗闇で眠りの世界の扉を叩く。出来ることなら、どうか幸せな夢を見させて欲しい、と願って。


結局、良い夢は見れなかったものの悪い夢も見なかった。しかしそれよりも、運の悪いことに……いや、当然と言えば当然かもしれないけど、次の日見事に風邪をひいた。

風邪だからといって補習は休めないから、マスクをつけ、怠い身体を引きずり大学へと向かう。

そして忘れていたけど、家を出る前にゆいにメールを飛ばしておいた。お邪魔させていただきます、との旨の内容を簡単に送信してみると、数分後には返信が来た。

「嬉しい!じゃあおばあちゃんに連絡しておくね!待ち合わせ日時と場所は追って連絡するよ!」

最近の女子大学生らしくない、ビックリマークを多用した返信だった。携帯を持つようになってからずっとそうなのだけど、ゆいは流行りの顔文字やら、既存の絵文字は一切使わない。理由を聞いてみたことがあったけど、何故かは言わなかった。そうするとこちらもそれらを使うのはなんとなくはばかられるから、私もゆいとのメールする際は使わないことにしている。

重い体を引きずりようやく大学に着くと、講義のある教室にゆいが居た。

「あれ、なんでマスクなんてしてるの」

「炬燵で寝たら風邪ひいた」

彼女はげらげらと笑って、さもおかしいと言わんばかりの顔をした。

「真琴らしいっちゃらしいか。どうせ考え事してたら疲れて寝ちゃったんでしょ」

見事に見透かされていた。流石幼なじみ、私のことを良くも悪くもわかっているらしい。

「そう、その通り」

「あんまり考えすぎちゃダメだよ。それにお正月はもうすぐなんだから、体調整えておいてよね」

昨日誘われた時点で、実はもうお正月は一週間もないくらいに迫っていた。あまりに疲弊し呆然と過ごしていたものだから、お正月があと何日かなんて完全に意識の外であったのだ。

「あ、お正月まで後少しか……」

「日付を忘れるレベルで疲れてるの?相当やばいんじゃない、真琴」

「やばいかも……」

額に手を当て、あまりにも周りが見えていなかったことを少し反省した。最悪、もし待ち合わせの一日前にゆいから待ち合わせの連絡が来ていたらと思うとぞっとする。

「でも大丈夫、準備とかはちゃんと済ませておくから。風邪も治すよ」

「よろしくね。それで、多分大晦日の日に出発すると思うよ。それで大丈夫?」

「大丈夫。それと、おばあさんの家の近くまでは電車で行くんだよね?」

「そうだよ。で、駅からは迎えに来てもらうから」

電車に長距離乗るのは久しぶりだった。昔はよく両親と一緒に電車に乗って自分のおばあちゃん家だったり、海を見に行ったりしたけど、最近はまったくない。そしてその電車の中で食べる駅弁が私は大好きだった。いつも半分残してしまい、それをお父さんが食べる、というのがいつものパターンで習慣であった。今はもう一人で全部食べられるのだろうけど、そう思うと今こうして成長したことを嬉しくも、そして何故か哀しくも感じる。

「駅弁、また食べたいなぁ」

口から言葉が自然と漏れていた。

「始発は大きな駅だからきっと売ってるよ。一緒に食べながら乗ろう」

遠足に行く前の小学生に戻ったように、私たち二人ははしゃいでつかの間の休息を楽しみに待ち望んだ。しかし間延びしたチャイムが一旦それを制し、私に補習の開始を知らせた。

「それじゃ、私今日はサークルに顔だして帰るね。もう今年は学校来ないから、大晦日にまた会おうね」

「うん、分かった。待ち合わせ場所と時間、よろしくね」

「はいはい、補習ファイトだよ」

そう言うとくるりと向きを変えて彼女は教室から出ていった。そしてそれと入れ違いにしかめっ面した教授がのそのそと入ってきて、何も言わずにレジュメを配り始める。

これさえ終われば、きっと楽しいお正月を迎えられるはず……そう思い最後の気力を振り絞って私は補習に臨んだ。

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