第3話
「女の名はスエ、これ以上生まれるなという願いを込めた貧乏子だくさんの末の娘じゃ」
イワシの骨をしゃぶりながら竹庵がそう語り始めたのは、もう外は真っ暗になり、門野がそろそろ尻を浮かそうとしていた、その時であった。
「その娘は、十になる前に売りに出されての、とはいえ売られた先は普通の商家。別に慰み者になったわけではなく、女中奉公でな」
女中奉公、か。
もう十年も浪々の身として市井に生きている門野には、女中奉公が言うほど楽な仕事ではないことは知っていた。ただ、確かにヒヒ爺(じじい)の慰み者として囲われたり、廓に売られるよりはましではある。
うまくいけば、普通の暮らしの中で、普通の幸せを見ることのできる、そんな境遇だ。
「それは可愛い娘だったそうじゃ。愛くるしく、よく笑い、気が利いて、働き者。その商家の主もご内儀も、掃き溜めから黄金(こがね)を掘り当てたと大喜びだったそうで、末は息子の嫁に、と考えておったようでな」
言い終えて、竹庵はグビリと酒をあおる。
「スエだけに、な」
もうじき、一升はその腹に消えていそうな勢いだ。
「……で、予告通り、その娘はその家の若旦那の嫁に収まった」
「それはそれは、めでたい話ですな」
「うむ、まぁそこまではじゃが、な」
だろうな、と門野はひとり納得する。
竹庵がここまで大仰な前振りをする話だ、そんな簡単に尻の落ち着く話ではあるまい。
「その若旦那、ずいぶんと廓遊びが好きな男でな」
「吉原ですか」
「ああ、まあ金もあって暇もあれば、若い男であれば、無理もないことではあるのじゃが、な」
「では、そのスエとかいう女が口うるさく?」
「それがじゃな、何一つ文句も言わず、ただ笑って見送り、笑って出迎えるのだそうでな」
門野は首をかしげる。
「では、何の問題もないでしょう?」
「まあたしかに、その若旦那も、理解のあるいい女を嫁にしたと喜んでおったそうじゃし、それなりにスエのほうもきちんと可愛がっておったらしいのでな、確かに何の問題もなかった」
「なかった?」
「ああそうじゃ、何の問題もなかったのじゃが、ただな、なぜか家の中に徳利が増え始めてな」
話の先が見えない。
「徳利?ですか」
「ああそうじゃ、どこにでもあるような何の変哲もない一升徳利なんじゃがな」
ふむ、となればそのスエという女、夜の寂しさに酒を飲むようになったということか。と、門野はうなずく。
確かにこれも聞いたことのある話で、旦那が留守の間、その寂しさを紛らわすように酒を飲み続け酒の毒にやられてしまった女というのは、この江戸の市中にも相当な数いると聞く。
ところが、門野のその合点を、竹庵が覆す。
「しかもその一升徳利、封がされていて開けることもできんようにしてあったそうでな」
「封が、ですか」
「ああ、飲んだ形跡もなく満々として、家人のだれも開けることを許さんかったそうじゃよ」
おかしな話あるものだ、と。
ただまぁ、若旦那の廓通いを放置しておけるような家だ。その女房が陰鬱の気を払うために、ただただ金を使うことを目的に何かを買い求める様なことがあってもおかしくはない。とはいえるが、着物や飾り物ではなく、一升徳利とは。
門野はむぅとうなって腕組みをする。
「奇妙ですなぁ」
言いながら門野は竹庵の表情を伺うが、その顔色からは話の中心はまだ遠くにありそうだ。
「もちろん家人はいぶかしがったがの、とはいえ将来の女主(おんなあるじ)、これといって口出しすることもできずにほおっておいたのだが、一升徳利が二十ほど集まった頃、とうとう若旦那が気づいてな」
まあ、気付くであろうな。
というよりもだ、家の中に一升徳利が二十も集まるまで気づかないとは、やはり相当羽振りの良い商家でなくてはそうはいかないであろう。少なくとも、九尺二間の我が家では三本も隠せば妻の気付くところとなるのは明白。
と、門野は心でつぶやきながらも、そのまま黙って話を聞く。
いつの間にやら部屋の隅にともされていた、燈心の燃える音がじりじりと聞こえる中。
竹庵の話は続く。
「ところがこの若旦那、自分の悪所通いが原因であることはうすうす気づいておってな、面と向かってスエに問い質せんでな」
まあ確かに、男はこの辺りは弱いものだ。
「そこで、廓に行く振りをして、スエの様子を見張ることにしたというわけじゃよ」
そこまで話して竹庵は「パァン」と小気味よい音を立てて手を打った。
と、その音を聞きつけて、若い男がそそくさと現れ「お酒ですか」と問うと、竹庵は「うむ」とうなずき、それを見て若いとこはまたそそくさと奥に消えた。
これは長くなりそうであるな。
門野はなんとなくそう覚悟したが、むしろありがたい話であると、運ばれてくる酒を楽しみに待った。
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