侵入者
だから目を離した隙に――
ああ、悪かった。俺のせいだ。だから――
うつらうつらと船を漕ぎながら、梓真は心で弁解をつぶいていた。
人は完全に不眠となることはない。覚醒剤の助けでも借りれば別だが。とにかく、生理は睡眠を要求し、脳は、どこかで必ずそれに応えている。
梓真の睡眠欲求はまたしても四時限目に訪れていた。今日は日本史だ。
しかしキリキリとした胃痛に目が覚め、帰宅後の母との会話を想像して、眠気はどこかへ消え失せる。
しかししかし、思い煩うことにも慣れてしまうのか、眠気はふたたび襲い来る――その繰り返しだ。
(母さんは俺を責めるだろう。そしてそのあとで自分を責める、絶対に。いつもそうなんだ、母さんは。自分のせいで瑞希と親父がいなくなったと思い込んでる。……それは、絶対にさせたくねえ)
そして四年前の、梓真が長い眠りから覚めた時のような、ひどい鬱状態にまた陥るかもしれない。
どうしたら避けられるだろう?
(どんな言い訳したって、結局……)
今度は追いつめられた梓真の脳が防御手段を講じはじめた。
“逃げ“だ。
(感情を、心を殺すんだ。“瑞希“が書いた手紙を渡して、あとは黙ってなじられる。泣き叫ぶぼうが寝込もうが、どうだっていい。表面だけ取り繕って、あとは放っておこう。そうすりゃ……)
ある意味それが一つの正解、母が立ち直る一番の早道かもしれない。
そう結論づけ、梓真は本日何十回目かの船出に旅立とうとした。
けれど――
「静かに!!」
松本の一喝で教室は静まった。
だが外のざわめきは止まず、かえって生徒たちを不安がらせた。
(……なんだ? 何か――)
松本が端末をいじり出すと、クラスのあちこちで私語が始まる。
悪い予感に身震いがした。虫の知らせというものがあるなら、この時がそうだろう。
「梓真!!」
その声に梓真は驚愕する。
突然開いた扉から、輝矢が叫んでいた。
「おい、何してる、おまえ!」
「駄目よ、
輝矢に松本が詰め寄る。背後には真琴の姿があった。A組は現国の授業中だったようだ。
国語教師に組み付かれながらも、輝矢は叫ぶのを止めない。
「梓真! 部室に……」
それで充分だった。
部室で何かがあったのだ。輝矢が授業に乱入するほどのことが――
梓真は塞がれていない後ろのドアを飛び出した。階段を駆け降り、猛然と一階へ向かう。
やがて東の廊下に差し掛かる。ここを抜ければ部室はすぐそこだ。
しかしその行く手には、埋め尽くす人だかりが待ち受けていた。
(ったく、なんだってんだ!)
一様に、窓の外へと目を向けている。ここは部室を見張る絶好のスポットだった。
梓真は制服の群をかき分けながら、非常口から渡り廊下に躍り出る。
立ち止まって見渡すと、ここを見晴らす窓という窓に生徒たちの顔が並んでいた。
その視線が集中するのは――
「へ、なんだろなあ、これ……」
驚くべきか笑うべきか。
目の前の深刻と滑稽が融合した光景は、見せ物としてうってつけというしかない。
「おい、おまえかぁあ……」
作業服の男が、ヒキガエルのような豊かなビブラートを発した。
梅雨晴れの空の下、ひと固まりに転がる人影が二つ。それを囲む教師たち。
近づく梓真に気づいた彼らは、不愉快な表情を一斉に浴びせた。
その一人、体育教師の原田が、
「おいっ! 早くコイツをなんとかしろ!」
と、上から伸し掛かる人影を指さす。
(マルス……)
無言の呼びかけに応え、異形の人影は黒光りするバイザーを向けた。
“マルス“は腕、足、胸と人並みはずれて太く、全身は分厚い服ですっぽりと覆われて、肌の露出はどこにもない。
その異様に人ではないものを当てはめたくなるが、そうさせない人間的な雰囲気も漂わせていた。
そう、彼もまたオルター、人を模倣した機械だ。そして梓真の部活“
「おまえ、何をやった?」
梓真は大股でしゃがんだ。マルスではなく、組み伏せられた男に尋ねている。
代わって答えたのは別の教師だ。
「こちらはなあ、水質の調査に来ていただいた検査員の方だ。な、頼むから、早くコイツに命令して解放して差し上げろ。なあ、加瀬……」
「……」
「ハァッ……ね、あっくん……マ、ズイよ……ハァ……」
駆けつけた真琴が、息も絶え絶えに言葉を掛ける。
「……味方はおまえだけだな」
「……っへ?」
「ちょっと、待ってくれ」
占領された窓から時折起こるヤジも、本気で梓真たちを応援してはいない。
すでに笑っていられた状態は過去のもの。喜劇の舞台の第二幕は、梓真を主役に据えていた。
(マズい……マズいんだろうな、この状況は)
どうしてこうなった? なぜマルスはこんなことをやってる?
この男を解放させれば、このまずい状況は終わる。簡単なことだ。
けれど――
マルスが無意味に見知らぬ他人を締め上げるはずがない。何か理由があるはず。
しかし、マルスの正当性はともかく、あとで問題になる可能性はある。
(……いったん解放したほうがいいのか?)
「クレイ!」
原田が叫んだ。このままでは埒が明かないと思ったのだろう。
待機していたクレイが近づく。
「この人を助けるんだ、いいな?」
「はい……」
前へと進み出るクレイ。ところがそれ以上の行動に移らない。
迷い、教師と梓真の板挟み。彼は動作でそれを見せていた。彼ら汎用オルターは絶妙に感情を演技し、錯覚させる。そこに人の魂が宿っているかのように。それこそ梓真がオルターを恐れる理由だった。
しかし、今は弱みを見せるわけにいかない。
「よお、クレイ」
「梓真さん。マルスに命令を。この方を放すように」
「だめだ」
「なぜです?」
「こいつに聞きたいことがあるんだ」
すると地面にめり込んでいた“こいつ“が沈黙を破り、
「てめっ、いい加減にしろ! さっさと放さないいと……」
「あそこはウチの部室だ。いったい何をしでかしたんだ?」
と親指で、開けっ放しの部室を指す。
「だから、水道管の検査だ。写真を撮ってただけだ! ちゃんと許可も取ってある! ……なあ、もういいだろう」
男の口調がやや弱気なものに変わる。
真実なら、非はマルスにある。
そこへ響く原田の怒声。
「クレイ! 早くやれっ! このいかれたポンコツを引き剥がすんだ!!」
「……」
その言葉に、クレイはしぶしぶマルスに向き合う。
梓真は言わずにいられない。
「マルスはこれでも手加減してんだぜ。わかってんだろ?」
「はい」
「マルスが狂ったと思うか?」
「……いいえ」
「それでもあいつの――」
梓真は原田にあごをしゃくる。
「命令に従うのか?」
「はい」
答えると同時にクレイはマルスに掴みかかった。
(だったら、最初からそうしろよ!)
結局クレイは正当性の在処より、上位者の指示を選んだ――人間的な気遣いを見せながら。それが腹立たしかった。
途端にギャラリーから歓声を上がる。このハプニングこそ野次馬たちは待ち望んでいたのだ。
(お気楽ヤロウども!)
梓真は後ろへと退いた。オルターニ体の格闘戦に巻き込まれれば、無事では済まない。
事態は最悪の方角へ舵をとりつつあった。
マルスの指を、クレイは男の腕から引き剥がそうとしていた。無理をすれば男の
つまりこれは、マルスが男に負傷させられないことを見越しての行動なのだ。
しかしクレイも苦悶の表情を見せる。
人に危害を加えられないのは彼も同様だ。苦渋の決断だったに違いない。
(大丈夫だよな……)
男の怪我など梓真にはどうでもよかった。しかし、マルスが処分を受けることはなんとしても避けたい。
一見するとマルスは微動だにしていない。しかし――
「おっ! おまえら……
悶絶する作業着の男。その様子に観客がざわめき始める。
痛い? 本当だろうか?
(くそっ。どうせブラフだろ? なあ、おい……)
心に不安が
そんな時だ。
「駄目ですよお! 加瀬さぁん!!」
「ぅわあ!!」
突然現れたヴェルに、梓真は尻餅をついた。
「もう止めさせてください! このままじゃ、二体とも罰を受けてしまいます!」
倒れ込んだ梓真を彼女はなおも追いつめる。寄せる顔に耐えきれず、心臓はバクバクと暴れ出した。
「加瀬さん……お願いですから……」
「わかった! わかったって!」
その言葉にヴェルが離れると、梓真はひと呼吸おいて立ち上がった。そして――
「マルス、もういい。……拘束を解け」
命じると同時に塊はほどけて、マルスは男から距離をおく。クレイは男を起こし、そこに原田が駆け寄る。
大きなため息が出た。
ヴェルの勢いに押されたこともあったが、もはやああする以外になかっただろう。本当はあの男が何をしでかしたのか聞き出したかったが……。
野次はいつからか無責任な罵倒に変わっていた。無視したいが、嫌でも耳に入り込む。梓真は意地で立ち尽くした。
そこへ、あの男が向かってくる。はやし立てる観客たち。男が大きく腕を振り上げると、それは最高潮に達した。
それでも梓真は動かない。
男はすんでのところで腕を止め、代わりにどん、と胸を突いた。
ふらつく梓真。男は声に怒気を籠めた。
「ただで済むと思うなよ!!」
それだけ言うと茂みの方へ去って行った。
肘を掴んだのは松本だ。
「自分が何をしたかわかってるか?」
「……」
「ぼうっとしてないで後始末しろっ! まずはアレだ!」
アレ――ことマルスは、ニュートラルの状態で梓真の命令を待っている。
「……」
理不尽さに腹が煮える。
(俺は何かを間違えたのか……?)
マルスに責任はない。彼が正しい行動をしたのだとしても、梓真が“空気“を読んで判断をすべきだった。
なんらかの処分を受けるのだろうか?
AIの初期化、没収、分解……
思わず、握る手に力が込もる。
(冗談じゃねえ。まだ、何もしてねえのに……)
「……あの、加瀬さん。元気出してください」
「おまえはっ! 気安く寄ってくんなっ!」
「ごっ御免なさいっ」
無邪気に近づいたヴェルから、梓真は飛び退いた。オルターのパーソナルスペースへの侵入は、拷問と変わらない。
「ふう……くそっ……」
重なる責め苦に、神経がすり減らされていく。
そこへ新たなる攻撃が――
「もしかしてこれ、あなたのですか?」
場違いに明るい理緒の声。梓真に向けられたのなら、どれほど慰められただろう。けれどあろうことか、それはあの作業着の男に発せられたものだ。
理緒は親切に、手にしたバッグをあの男に渡そうとしていた。
「あ、ああ、ハイハイ……。そう、探してたんです。ど、どうも、ありがとう……」
男は手を伸ばす。ロゴの入った地味なバッグだ。
(お優しいこった)
けれど寸前、理緒はバッグを戻し中に手を突っ込んだ。
「お、おいっあんた、何すんだ!」
理緒は悪びれもせず笑顔のまま、取り出した何かを男に突きつけた。
「じゃ、これもあなたの?」
「……あ、ハイ……いや――」
「っておい! 待てよ!」
と、梓真。
「そいつはウチのだぞ!」
携帯用の大容量外部ストレージ。珍しくはないが、売り払えばそれなりの金額になる。
すべて合点がいった。男は部室からこれをちょろまかし、マルスに捕らえられたのだ。
「ち……違う」
「んだとコラ!?」
詰め寄る梓真に、男はなおもシラを切る。
「……は、わかった。お、おまえらグルだろ!」
「あ?」
「この女が入れたんだ! な、そうだろ」
「あのねえ……」
男のがなり声で、散りかけていた聴衆がもう一度集まり出す。その中に輝矢の姿もあった。
「これを見てもそう言える?」
輝矢がこちら向きに開いたラップトップには、暗い屋内の映像が表示されていた。タイムコードは三十分前。梓真にはなじみのSCCの部室だ。
「ここにあったストレージが、あんたの体で隠れて、そのあと無くなってる」
「……」
男の顔色が変わってゆく。
「ま、盗む瞬間は映ってないけど……。何か言いたいことは?」
「ち、違う。それは……型は同じだが、会社の……俺が買ったヤツで……」
「そ。じゃ、警察呼んではっきりさせましょうか? あ、真琴先生、すみませーんー!」
それを見て男は逃走を始める。が、行く手に理緒が回り込んでいた。
「どけ!!」
理緒は素直に退いた――膝だけを残して。
それが綺麗にみぞおちにめり込むと、男はウシガエルのようなバリトンで呻り、突っ伏す。
タイミングよくチャイムが鳴り、長い四時限目の終了を告げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます