第5話 わたる

ジリリーン

ジリリーン


「もう友達に電話番号教えたのか?」

夕食を終えたばかりの食卓に微かに聞こえる呼び出し音に。村上市助役、東条慎太郎は食事を終えて自室に向かう一人娘のこよみの背中に言葉を投げた。


高校進学の祝いにと、進歩派の父に買い与えられた黒電話を置いた自室に急ぎながら。暦は聞こえてくる呼び出し鈴の音を訝しんでいた。

まだクラスの誰にも電話番号など教えてはいないからだ。

そもそもまだ一般には広く普及もしていない家庭用黒電話。

早くに病気で妻を亡くし、男手一つで暦を育ててきた父が。

忙しく、自分がろくに娘に構ってやれない事を気にして買い与えてくれたものだ。

若い頃から進歩派で、頑張り屋の父はいい大学に進み今はその甲斐あって市の助役という大役を預かっている。


母を亡くした一人娘を溺愛する父は、1952年のこの時代にやっと一般に普及が始まったばかりの、高価な黒電話を暦の部屋にしつらえてくれた。

母の居ない淋しさを、父は電話する友との時間で埋められると思ったのだろうか。



「もしもし?」

家の電話でなく、まだ誰にも番号も教えていない自分だけの電話の筈なのにと訝しみながら、暦は独特の手触りと、微かに匂う化学臭のする黒い受話器を取り上げて耳に充てた。

「わりい!ちょっと遅れた。電車一本掴まえ損ねてさ。今何処?すぐ行くからさー」

早口で語る、聞きなれない男の声に暦は戸惑いながら震える声で返事した。

「もしもし?……どちらにお掛けでしょうか?……」


文机の上の電話の、樹脂製の黒に点在する白い数字の文字盤を、シェードに分けられた白熱球の暖かい光が浮かび上がらせる。


間違い電話だろう聞きなれない低い男の声の不思議さも相まって円形に並ぶ数字の羅列が暦に眩暈に似た不思議な感覚をもたらした。

(なんだろう……初めて聞く声なのに懐かしい……)

受話器の向こうから聞こえてくる男の声は野太くて、まだ16歳の暦に僅かに緊張感を覚えさせはするものの、不思議と不快感は与えなかった。

寧ろどこか子供っぽい喋り方は、クラスメートのまだどこか幼い少年のお喋りにも似て暦に安心感さえもたらした。

「失礼ですが番号をお間違いではないでしょうか?こちら東条宅で御座いますが」

暦の言葉に相手は黙り込んだ。


「もしもし……もしもし……」

答える気配のない受話器の向こうに暦は耳を澄ます。

「もしもし……もしもし……」

呼びかける暦の耳に微かに雑踏のざわめき。

ふと目を向けた文机ふみづくえの上の。父から譲り受けたインテリアも兼ねた懐中時計の針が一瞬目まぐるしい動きを見せたような錯覚に暦は目をこする。

「もしもし」

ようやく聞こえた男性の声に暦は胸を撫でおろす。

(良かった……切れていなかった……)

何故安堵したのかは暦自身にもわからなかったが、聞こえた男の声は何故か暦の胸を温かくした。


「すみません。俺、ああいや、掛け間違えちゃったのかな。小野坂さんでは?」

「いいえ、私共、東条慎太郎……ではなくて、こよみ。東条暦の電話ですが……」


最初の一声とはうって変わった少年の声に暦は妙な親近感を覚えて、身を竦めるように言い淀む。


「こよみちゃん。あいや、こよみさんとおっしゃるんですか。突然電話してごめんなさい。俺おっちょこちょいで……」

電話の向こうで慌てふためく少年の気配に思わず暦の頬が緩んだ。

「いいえ。買ってもらったばかりで、電話してくれる知り合いも居なかったんですの」

無意識にらせんのコードを指に絡めて暦は初対面の相手に語る。


「買ってもらったばかり?電話を?」

低いが、何故か暦を安心させる声に。

「高校進学のお祝いにと、父が買ってくれたんですの」

間違い電話を掛けて来ただけの見知らぬ男だと言うのに、暦は何故かぺらぺらと余計なことまで教えてしまう。


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