第4話 こよみその2 

バイトに行くと言う雄太郎と別れた航は、今日はバイトが無いのをいいことに旧万世橋駅へと向かっていた。

旧万世橋駅という名称は今ではオタクか年配者でもなければ使わない名称で、最近、特に女子の間ではマーチエキュートとかいう航や雄太郎の様なオタク少年は意地でも使わない洒落た横文字で呼ばれている。


確かに、アキバの回遊に疲れたオタクが数少ない休憩場所に使う、和泉橋防災船着き場跡を活用した休憩スペースから望む、古風な煉瓦作りの外壁から零れる照明の灯りを映す神田川の風景は、およそオタクには不釣り合いな情景を魅せる。


広大なUDXの施設内を、物思いに耽りながらそぞろ歩く航の背中に微かな振動。

同時にリュックから微かに聞こえる着信音は紛れもない檄!帝国華撃団のメロディ。

曲が曲だけに音量を絞ってはいるが、航が心配せずともアニメファンでもなければ気付かない曲。

暦からの着信音に選んだメロディに航は慌ててスマホを取り出す。

「もしもし、窪田様のご自宅でいらっしゃいますでしょうか?」

通話アイコンをタップした航の耳に暦の柔らかい声が心地良い。


「あ、俺です。こんばんわ、どうしたの?なんかあった?」

暦からの電話に狼狽えた航は、己のチキン振りに、誰に見られている訳でもないのに周囲を見回して虚勢を張る。

無論だだっ広いUDX内の通路に、リュックを背負った如何にもなオタク少年がスマホに耳を充てていても気にする者など居ない。


「航さん、ご本人でしたか、良かった。ご両親でもお出になられたらわたしどうしようかと……」

相変わらず馬鹿丁寧な暦の言葉に、航は苦笑と微笑が混じる。

「俺の電話だからうちの親は出ないよ。そういう心配いらないから」

航の返事に電話の向こうの暦が感心したような声を上げた。

「航さんもご自分専用の電話お持ちなんですの?」

航は暦の方から電話をくれた事への喜びと、自分にも一応とはいえ電話をやりとりする女子が出来た事の喜びに暦の言葉の違和感に気付かない。


「こんな時間にお電話申し上げてご迷惑かとは思ったのですけど」

もとから丁寧な口様の暦の言葉に航は言い返す。

「まだまだ宵の口じゃん」

UDX2階のアキバICHIの通路を秋葉原駅方向へ歩きながら、航は外の光が徐々に弱くなるのを感じて言った。


「都会はうちみたいな田舎と違って夜遅くまで賑やかなんでしょうね」

自嘲するような暦の物言いに航は彼女を慰めようと言わなくてもいい事を言う。

「確かに夜も灯りが消えるのは遅いし、店も遅くまで開いてはいるけど……遅くまで街うろついてる奴に碌な奴は居ないよ」

言って航は深夜までアキバをふらついている自分を思い出し自嘲する。


「宿題も終えて……」

何故かひと呼吸置いたこよみの柔らかな息遣いが耳に心地良くて、航は深く息をついた。それで電話の向こうの暦の香りが嗅げる訳も無いが。


「航さんの声が聴きたくなって……」


とても恥ずかしい話だが。

オタク少年はどこかでみた古い映画のワンシーンを思い出して、UDXの広大な通路を走り出したい心境だった。


「ついこの間知り合ったばかりの男のかたに、女の私からお電話するなんてはしたない奴だと思われたかもしれませんが……」

暦の言葉にオタク少年は激しく首を横に振る。

無論そんな航の様子なぞ電話の向こうの暦に伝わる筈もないのだが。

「とんでもない。俺なんかで良かったらいつでもどこでも」

「どこでも?」


電話の向こうで暦が首を傾げる様子に航は頬をほころばせる。

(ちょっとキザだったかな……)

思いながら航は電話の向こうのまだ見ぬ暦の姿に想いを馳せる。

「暦ちゃん、真面目なんだな。俺なんかレポートまだだよ」

苦笑する航の耳に暦の涼やかな声。

「航さん。大学生でいらっしゃったんですよね」

「いやまあ、いらっしゃるなんて上等なもんじゃないけどね」

「素敵です。もしよろしければ学校名など教えていただけないでしょうか」

相変わらず馬鹿丁寧な暦の言葉に航も意味もなく緊張して答える。

「東京都立大学って言うんだけど」

「都立!」

あからさまに驚いた暦の声に航が慌てて反論する。

「都立ってもそんなすごい大学じゃないから」


実際かつて首都大学東京と呼ばれていた東京都立大学は6大学の様な名門ではない。

東京都に存

点在していた各種専門学校を統合して作られたような大学なので、偏差値もお世辞にも高いとは言えない学校なのだが暦の様な地方の高校生にはそれでも憧れなんだろうなと航は理解した。

「東京の大学……」

電話の向こうで呟く暦の息遣いが感じられて、航はつい受話器の向こうの少女に語り掛けた。

「暦ちゃんも、頑張って勉強してこっちにおいでよ。いろいろ案内してあげるよ」

航の言葉に暦が大きく息を吸い込む気配がスマホを通して航に伝わる。

「東京の街を……」


暦が教えてくれた新潟県村上市という暦の所在地も、ググって知りえた情報しか航は持ち合わせていないが。

ド田舎という程でもないけど、同時に都会と呼べるような土地でもないんだな、というのが航がネットで見た印象だった。

「東京、来た事無いの?」

航の質問に暦の息を呑む音。

「中学校の修学旅行は関西の方で……」

「そうなんだ」

答えて航は考える。

(新潟は関東じゃなくて関西なのか……)

「じゃあ東大寺の『柱の穴くぐり』やった?」

航の質問に暦が笑って答えた。

「くぐりたかったんですけど……流石に女の子なので……」

暦の含み笑いが航の耳に心地いい。


暦の柔らかい声に聞き惚れて。

航は気が付けば旧万世橋の灯りが望める和泉橋防災船着き場まで来ていた。

話し込んでいるうちに、空はすっかり暗くなり、旧万世橋駅の煉瓦のアーチから零れる灯りが宵闇の神田川に揺らめく光を浮かべていた。

「航さんはクラブ活動何やってらしたんですか?」

「クラブ活動?」

航は返事に困った。

中学に上がる頃にはもうオタクとしての道に目覚めていた航はまともな部活動などやった事が無い。

「いや俺もっぱら帰宅部だったから……」

「きたくぶ?……」

電話の向こうの暦があからさまにいぶかしむ声を出した。

(やばっ!軽蔑されたか?)

弓道なんぞという崇高な(オタクの航にしてみればだが)クラブに所属している暦が、帰宅部なぞという軟弱者をどういう目で見るか考えて航は慌てて言いなおす。

「いあ、総務部。そう、総務部に入ってたんだ」

勢い込んで言う航の言葉に暦の声が高くなる。

「総務部!凄い、総務だなんて」

暦の反応に航は内心動揺する。

決して嘘では無いのだが、航が通っていた高校では、体育会系とも文科系とも分類しづらい部は基本「総務」というなんとも中途半端な分類の部と称されていただけの話しだ。


有体に言ってしまえば航が居たのは放送部だ。

部員の中には真面目に将来アナウンサーを目指している優等生も居たが、航の様な声優オタクも幽霊部員として紛れ込んでいたという訳だ。


果たして暦が『総務部』という名称をどんな部活と認識したかは航には知る由もないが。

暦の声色は明らかに艶めいている。

航にとっては耳こそばゆい事この上ない。

宵闇のUDX前で、航は一人脇に汗をかく。

他愛もない会話を続けながら、航は暦との会話に飽きる事が無い。


まるで19になるこの年まで出来なかった女子との会話の分まで取り返そうとするように、オタク少年の脳裏に取り留めのない話題が浮かんでくる。

「そいや、暦ちゃんは今晩何食べたの?」

晩御飯の話題など出したのは他でもない、暦と話し込んでとっぷり暮れた日に瞬き始めたネオンに空腹に気付かされたからだ。


「今夜はイヨボヤでなく、カレイの一夜干しでしたわ」

聞きなれない言葉に航は暦に聞き返す。

「イヨボヤ?」

「ハイ」

屈託ない暦の返事に航は首を傾げる。

「ゴメン、イヨボヤって何?よく知らないや」

電話の向こうで暦が息を呑む気配がした。

「こちらこそごめんなさい、田舎の方言、都会の航さんに分かる筈ありませんでしたね」

その暦の声色はスマホを耳に充てる航の脳裏に困ったような表情を浮かべる黒髪の少女の面影を浮かばせた。

「イヨボヤというのはこの辺、つまり新潟県村上地方の方言で鮭の事を指すんですの」

「へー、初めて聞くな」

これにはなんでもググる航にも初耳の情報だった。

「語源はよくわからないんですけど……」

「?わからないの?」

「イヨもボヤも古い言い方で魚を差す言葉らしいんですけど」

電話の向こうで首を傾げる暦の姿を想像して、オタク少年は一人ほくそ笑む。


暦の言葉に海産物を思い浮かべた航は秋葉原で海鮮の食べられる店は何処だったかと思いを巡らす。


問い返した航の言葉に電話の向こうの暦がくすりと笑った。

「ごめんなさい、東京にお住みの航さんには解りませんよね」

くつくつと鳴らす暦の喉の音も航には心地いい。

「私の居る村上市には鮭の遡上で有名な三面川みおもてがわという大きな川が有るんです」


鮭と言えばシャケの切り身くらいしか知らない航は「はぁ」という生返事しか返せない。


腹の虫が鳴く声が電話の向こうの暦に聞こえはしまいかと。

くだらない心配をする航に、暦が慌てた声を出した。

「いけない!もうこんな時間!」

暦の言葉に画面を見た航は暦の電話を受け取ってから既に2時間近く経っていることに気付いた。

(どうりで腹もすく訳だ)

航は自分に呆れる。


「ごめんなさい……急にお電話して……しかも長々と……」

電話の向こうの少女の詫びる声が航には愛おしい。

「全然!俺は全然平気だから」

勢い込んで言う航に暦の優しい声。

「有難うございます。そう言って頂けると嬉しい……」

16才の少女の言葉が、彼女いない歴19年の少年の胸に沁みた。

「まだまだ……」

一息吸い込んだ暦が続けた。

「もっともっとお話したいのですけど……まだ電話料金も父に払ってもらっている身ですので」

暦の言葉に、航は改めて今自分は高校1年の少女とやりとりしているのだという現実に立ち返る。


「もし暦ちゃんさえよかったらさ。今度は俺の方から電話するよ」

数瞬、返事は無かったが、受話器の向こうで暦が身悶えする気配がしたように航は感じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る