第9話
教員室から西棟への長い廊下を歩く。
普通に歩けば、10分と経たずに西棟の中央廊下から西棟の領域に足を踏み入れることが出来そうだったが、足取りの重い少年は倍以上の時間をかけ、一歩ずつ進み、やっとのことで西棟へと足を踏み入れたのだった。
「はぁ……」
廊下を歩く最初の一歩を踏み出した時と同じため息を漏らし、西棟1階の教室を見て回る。
なるべく時間をかける為に、飛んだり、壁をすり抜けたりというようなことはせず、肉体を使って歩く──人間のように。
1階、2階と、順調に進む(ひとつの教室にかけている時間を見る限り決して順調とは言えないが)。数学や社会、英語など各科目の授業を行う為の教室が並んでいる。
3階は美術や倫理の教室、少し埃っぽいところがあり、あまり使われていないようだ。
生物と書かれた教室に入った。たくさんの空っぽの水槽や虫かごが、行き場を失ったように並び、積み立てられていた。
その中のひとつに自然と目がいってしまった。水が10センチほどしか入っていない水槽の中で、2匹の金魚が泳いでいた。水草も無く、薄汚れた水槽の中で。
水面に顔を出し、必死に口をパクパクと動かしている。お腹が空いているのだろうか。
近くに無造作にあった金魚の餌と書かれているものを手に取り、水槽にその中身を少量ばらまいた。
すると、すごい勢いで喰らいつく2匹の金魚。やはりお腹が空いていたのだということを再確認し、ほとんど入っていなかった餌の残りを全て水槽の中に入れ、教室を出た。
ゆっくりと時間をかけ、4階への階段を上る。この4階の教室を全て見終われば、次が屋上なのだ。
3階と4階を繋ぐ階段の踊り場に鏡がかけられていた。上半身がぎりぎり映るほどの小ぶりな鏡だ。だがそこに、僕の姿はない。
霊体の僕は、鏡に映らない。
現状を改めて認識し、少しだけ軽くなった足取りで先へ進んだ。
4階はほとんどが空き教室だった。如月さんによると、10年以上前は、今よりも生徒の人数が多く、東棟だけでなく西棟も教室として使っていたらしい。生徒数が少なくなり、それまでは教室として使っていた1階を受講室に変え、4階に机や椅子を移動させたのだとか。
椅子を引き、机の引き出しを確認する。ひとつひとつ丁寧にだ。やがて最後の教室になった。カーテンを開けると、日に照らされて埃が舞っているのが分かった。
埃が舞う教室を出て、階段を上がった。いよいよ屋上だ。
頑丈な扉をゆっくりと開けた。
──ここが僕が死んだ場所。
怖かった、死と対面することが。向き合うことが。僕は死んだのだと、改めて認識してしまうことが。
降っている細雪が僕の身体に触れた。
際の方にも2メートルほどの転落防止のフェンスがあり、僕はそれを超えて下を覗き込んだ。
まばらに白くなっている地面が見えた。
校舎と同じく広い屋上を見渡し、自分はどの辺から飛び降りたのだろうかとフェンスの外側をゆっくりと歩く。
ここから落ちても、僕は死なないし死ねない──もう死んでいるから。
西棟と東棟の境界線を踏み越えた。そのまま歩き続けぐるりと一周し、よじ登ったフェンスの場所まで戻った。
記憶は戻らなかった。
一度飛び降りた、それでも戻らない。
何をしても、どこを見ても、何かに触れても。記憶の片鱗にさえも触れられない。
飛び降りた時に出来た傷があるかもしれないと探したけれど、見つからなかった。何も、何一つ見つけることが出来なかった。
「僕は、誰なんだ……」
今までずっと内に秘めていた声が漏れる。初めて霊体になった時も、初めて如月さんに出会った時も、彼女に詳細を説明した時も──決して声に出ることは無かった不安。自分を知りたいという切なる願い。知らないまま成仏したくないという、死んでしまった僕の本当に死ぬまでの願い。
『自分は何者か』
産まれて、物心ついて、そして誰もが思うであろうひとつの疑問。
何故生まれてきたのか。
何故死ぬのか。
少年は思考を放棄した。垣間見える子供らしさを包み隠さず出した末に──
(この感情はなんだろう……)
胸の辺りがぎゅっとなって、それまで見ていた景色がぼやけた。
目から"なにか"が溢れ出した。
その"なにか"は頬を伝い、僕の身体をすり抜け、地面に落ち、とめどなく溢れ零れていく。
右手で触れると、濡れていた。舐めると、微かに塩の味がした。
──泣いていた。
初めての感情、初めての現象に戸惑いを隠せなかった。どうしていいか分からず、流れゆく"涙"が尽きるまでそのままにした。
10分、20分ほどそうしていたと思う。いつの間にかその"涙"は枯れていて、触ると頬に跡が残っているのが分かった。
(……そろそろ如月さんの所へ戻ろう)
空を見ると薄暗くなっていた。
またもや物理を無視して壁をすり抜け、西棟と東棟の中央廊下の2階にある資料室まで飛び抜けた。
「きさらぎさーん」
空中を浮遊し、彼女を探すが、見つからない。
資料室の一角に置かれた広い机の上を見ると、膨大な量のアルバムが一冊残らず無くなっていた。
「如月さん……?」
資料室に如月さんは、彼女は──いなかった。
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