花束とアスファルト
川の湯煙
第1話
はた、と足を止めた。それは家に忘れ物をしたことを思い出したとか、見知った顔を見かけて声をかけようとしたからとかではない。あるものが僕の視界の中にふと入り込んできて、それがどうも僕の意識を吸い取ってしまったからだ。僕はそのまままっすぐ歩いていくはずだった道を少し曲がってソレの前に立った。
小さな、花束だった。赤や黄色の花が数輪、それこそ片手で数えられるくらいの本数の花がまとめられ控えめに包まれていた。特に綺麗だとは思わなかった。実際その花たちは包まれてから日が経っているのか、葉に元気がなく花は首を垂れていた。
そんな特にこれといった魅力もない花束が、僕にはどうしても気になって仕方なかった。似合わない、そう、僕はそれを見た時にこう思ったのだった。花は土とともにあるべきだ。こんな汚いアスファルトの上にあるべきじゃない。だがくすんだ花びらの色は皮肉にも、アスファルトの色と絶妙なコントラストを生んでいた。
僕が止まっている様子を見てちらちらと通りがかった人がこちらを見ている。その人もまたこの花束を目にするだろう。しかし通り過ぎる際にそれをちらりと見ただけで、逆に顔を顰めて早足に去っていく。
悲しいのか、虚しいのか、この感情はよくわからない。けれど僕はこうして目に留めて、足を止めてこの花束を見ている。僕だけが、いまこの花束を見ていた。
ふと視線を上げると、周りに人はまばらで夕日が目に染みた。そもそもここはあまり人通りも車通りも多いところではない。僕もよく通る道だ。信号のないこの小さな交差点では、渡る時にさっと車がいないことを確認して横断歩道の上を歩くだけ。
あの日、あの子もいつものように歩いていたのだろう。家に帰る途中、この交差点で人だかりと耳をつんざく嫌なサイレンで眉を顰めた覚えがある。何があったんだろう、事故か?僕は興味半分、帰宅経路だと心の中で言い訳しながら野次馬の一人と成った。
人の頭の隙間から見えた夥しい量の血に、正直吐き気がした。近づくとわかるむせ返るような鉄の匂いに吐き気がした。あの子の靴だろうか、血溜まりの中にポツンと落ちていた。近くからあの子の名前を叫ぶ声が聞こえて、救急隊員に縋り付く女性を見た。あの子と同い年ほどの少女がわんわん泣いていた。車のボンネットはひしゃげ、ナンバープレートには絵の具のように血が張り付き、ブレーキ痕が何メートルも道路に引かれていた。
僕はなんだかその場にいられなくて、来た道を引き返した。違う道から家に歩いていく。徐々に早くなっていくそれは、家に着く頃には全力で駆けていた。荒い息を整えながら、トイレに駆け込んだ。胃の中にあるものを全て吐き出してそれでも足りなくて胃液が喉を焼くほど長い間便器の縁を掴んでいた。
僕はあの子を知らない。多分あの場にいたほとんどの人間があの子のことを知らないのだろう。だから、いま目の前にある花束に立ち止まる人間を見かけたことは今までに一度もない。僕だってここに花束があることを今日初めて知った。いや、本当は見ようとしていなかっただけなのかもしれない。見たら、あの日のことを思い出してしまいそうだったから。思い出したくない、あんなショッキングな映像は人生で一度も見る必要がない。あの時好奇心に負けた自分の頬を引っ叩きたいくらいだが、生憎そうもいかない。
視界に入ったそれを無視することもできたはずだった。だけど何故か僕はこの小さな花束の前にしゃがんで、手を合わせていた。
「あら、こんにちは」
不意にかけられた言葉に肩を揺らした。驚いて見上げると、ほっそりとした女性が僕を見つめていた。その女性には見覚えがある。あの時現場で救急隊員に縋り付いていた女性だった。あの子の母親なのだろうか。
「こんにちは」
たどたどしく言葉を返すと、女性はすこしやつれた顔で笑って僕と同じようにアスファルトの上に膝をついた。
「ありがとうございます。娘のこと、ご存知でしたか」
「はい、その、現場にいまして」
「そうだったんですね。なら現場の様子も見ましたでしょう」
「ああ、はい」
「あんなにこの道路に溢れていた血は綺麗に洗い流されて、もうあの子のものだとわかる痕はなくなってしまいました」
女性の目線があの日血溜まりと化していた道路に向いた。僕もつられるように道路を見つめていた。もうどこにも、血の痕は見つからない。
「そうですね」
「でもあの子はいました、存在していました。あの場にいた大勢の方からあの子の記憶が無くなっても、あの子がここで命を落としたということは変わりません」
女性は肩にかけていたバッグから小さな花束を取り出した。それは今しがた僕が見ていた花束とよく似ていた。ああ、この花束は母親が供えていたのだと、ここで知る。手慣れたように古い花束を袋に入れて新しい花束を電柱に括り付ける。
「だから、これは印なんです」
「印」
「覚えていてください、っていう。あと、もう二度と繰り返さないでって願い」
女性は手を合わせて、何かを堪えるように目を瞑った。数十秒の沈黙が降りて、再び目を開いた。女性は僕にありがとうございましたと言って立ち去った。僕はどうも、とか言って頭を下げて女性の後ろ姿を追っていた。彼女が言っていた言葉を頭のなかで反芻していた。
印、願い。彼女はそう言っていた。たしかにそう思うのも無理はない。ただ、僕はそれがどうにも違うように思えて仕方なかった。
「それは、呪いではないでしょうか」
忘れるな、目を背けるな、受け止めろ。そう思えてしょうがない。僕は新しく供えられた小さな花束を見つめた。
僕は家に帰ることにした。膝についた小さな砂を払って立ち上がる。立ちくらみでフラつきながらも、数秒すると元に戻る。元々の帰路へと足を踏み出す。きょろきょろと周りを見て車が来ていないことを確認して横断歩道を渡る。
彼女の呪いはたしかに効いている。僕はもう、あの花束を忘れることはできないし、これからもあの道を通るたびにあの花束を目にすることになるだろう。忘れてはならない。ただの物語してはならない。
歩き慣れた道を歩いている。夕日は落ちて辺りを闇が包んでいく。そんな中で僕は考えていた。女性のやつれた顔。血痕が全く残っていない道路。そして真新しい花束の鮮やかな色。あの時思ったことは間違っていなかったのだと確信する。ああ、アスファルトと花束はやはり似合わない、と。
花束とアスファルト 川の湯煙 @kawa_no_yu
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