44・戴冠式と本心

 張り詰めた空気の中、エドガーの戴冠式は行われた。


 円環の儀に先立って、エドガーは王位を得る。『贄の王子』とは呼ばれてるものの、形式上、円環が必要とするのは『新王』なんだって。勿論、お務めに入れば国王の仕事なんか出来ないから、本当に短期間の、名前だけの王だ。円環に入る時に王冠と王杖は妃に託され、そこで妃とも別れて彼女はそれを王国へ持ち帰り、元の王へ返す。そして改めて元の王が王冠を被る……それが習わしだそう。

 謹厳で美々しい大聖殿で執り行われる重要な式典は、半年前のエドガーとアリーシャの結婚式以来だけれど、あの時はあんなに湧きたって祝賀の雰囲気でいっぱいだったのに、名目上は同じ慶事であるのに、何だかお葬式のように皆暗い顔をしている。勿論、皆、本当はこれが、戴冠式という名の、大切な王太子を贄に差し出す為に儀式だと知っているからだ。


 銀糸の刺繍が散りばめられた紺のびろうどの裾広がりのマントを纏って祭壇の前に跪き、天使長からその刺繍糸よりずっと柔らかく煌めく銀の髪の上に王冠を乗せられたエドガーの姿に胸が痛い。結婚式の時は、ミカエリス側の方々も多くて王族貴族しか入れなかったけれど、今日は正面の大扉は開け放たれ、誰でも自由に入れるので、広い大聖堂の中は息もつけない位、セラフィムの天使で溢れている。

 エドガーの半歩後ろには、大きなお腹を抱えたアリーシャが同じように跪いている。彼女の頭にも、セラフィムの王妃の冠が乗せられた。もうあたしはあの女の事を考えている余裕なんてない。あの女が、せめて今まで保って来たのと同じように優しい態度で、エドガーを見送ってくれるのを……本性を現してエドガーの心を乱さないで欲しいと願うばかり。……でも、エドガーは『アリーシャの事は俺が何とかする』と言っていた。円環までの旅路で、目的と手段を見極めるつもりかも知れない。

 そして王となったエドガーは、王杖を右手に、檀上から詰めかけた民を見下ろした。


「皆! たった今俺は御神より誉れ高きセラフィム王国の王の位を頂き、国王エドガー7世となった。……だが、これは王家の系図に刻まれる為だけの名称に過ぎぬ事は承知の上だろう。俺は、俺の民を直接統治する事が出来ない。その事については皆に詫びを言いたい。俺は数日間旅をして円環に入るまでの名ばかりの王に過ぎぬ。だが、今後も我が父、弟が、セラフィムを一層の祝福と幸福に満ち溢れた国となるよう尽力すると信じている。そしてひとつだけ言っておきたい。俺はここにいて皆をこの手で護り導く事は出来ないが、ひとたび王冠を被ったからには、勿論贄の王子としては、あまねく全世界、御神と天界と人間界の平和を祈願してお務めに励む事になるが、その長き間、俺に関わって尽くしてくれた皆の今後を……誰もが安らいで幸せな気持ちでいられるよう……父と弟の統治が皆の為に恵まれたものになるよう……ずっと祈っている」


 聖堂内はしんと静まり返り、時折洟をすする音があちこちから微かに聞こえるだけ。


「皆も知っての通り、俺は一時期、畏れ多くもこの誉れ高きお役目をこなす為に生まれた己の運命を憎み、それを授けた世界を憎んでいた。でも、今は違う……ある者との出会いにより俺は再び世界を愛せるようになった。疑っていた、皆の俺への気遣いも、素直に受け入れられるようになった。俺は世界が、俺が育ったセラフィムが愛おしい。『なんで俺だけが?』と不幸に思っていた世界を護るお務めを、今は、『俺だけが出来るのだ、俺以外の誰かじゃなくて良かった』そう、心から誇らしく思える。だから、王冠を返還しても、俺は王の心で、命尽きてもなお、常に俺の魂の一部はここにいる……皆を陰から護る……そう、思ってくれれば、俺は幸せだ。……以上だ」


 泣いてない者はいなかった。

 常にここにいる……そうなんだよね、エドガー……。姿が見えなくなったって、比翼のあたしがここにいる限り、今までと同じように、祖国の風を感じる事が出来るよね。そして、みんなもエドガーを感じる事が、きっと出来るよね……だって、エドガーに護られてるんだから。

 希望は、誰かに貰うものじゃない。自分で生み出すものなんだ。それは時にはとても困難な事だけど、生きている者の務めでもある。去ってゆく者から幸福を望まれたならば、尚更。


「……エアリス。あなた案外しっかりしているのね」


 傍らのカステリアさまが、鼻を真っ赤にして不思議そうに問いかけてくる。別に責めるような口調ではないけれど、もっと泣き叫ぶのかと思っていたのに、という疑問が伝わってくる。

 あたしは、いつの間にか自然に流れてた涙を袖で拭って、


「だって、エドガーはずっとそこにいるんだ、って、今自分で言ったじゃないですか。あたしはそれを希望にします」

「あなたは強いわね……」

「強くなんかないです。離れていても、眠るエドガーに歌を聞かせたいし、悪夢を見るならそれを癒したい。それが、これからのあたしの望みです。前例がなくったって、どれだけ絶望に襲われたって、あたしが負けたら、エドガーが傷つくから……」

「エアリス……きっとあなたは、御神がエドガーさまの為に遣わして下さったのかも知れないわね……」


 カステリアさまはあたしをぎゅっと抱きしめる。あたしも抱きしめ返した。

 その時、天使長が微かに震えた声で、


「エドガーさま……いえ、陛下……ご出立のお時間でございます」


 と告げた。


「エドガーさま……」


 傍で、松葉杖に身体を委ねたレガートさまが力なく名を呼ぶ。


「俺も一緒に行って半分でも肩代わり出来たら良かったのに……」

「レガート、あなたは次期天使長でしょう。あなたにはあなたの役目があります。あなたはエドガーさまのお話を聞いてなかったの?!」


 って何故だか怒るカステリアさま。きっと気持ちの持って行きようがないんだろう、って思ったけど、レガートさまは、


「……そうだよね。ごめん」


 って素直に謝られた。


「エドガーさま!」

「エドガーさま……!!」


 涙を流す天使をかき分けて、王冠を被ったエドガーは階段を下り、迷いのない足取りで扉に向かっていく。その後ろには、しおらしい表情のアリーシャと、唯一肉親として随行を許されているシャルムさまが続く。

 ほんの……ほんの一瞬、エドガーがあたしを見た気がした。


(大丈夫、あたし、頑張るから)


 とあたしは、通じるかどうかわからない気持ちを送る。


 でも。

 啜り泣きに見送られてエドガーが大扉を出ようとしたその時。

 ひとりが、絶叫した。


「エドガーーーーー!!!」


 皆が驚いてその叫びの主を見る。そのひとは、その身分にあるまじき事に、髪が衣装が乱れるのも構わず、慣れない足取りで天使たちを押しのけて走り、途中で靴が脱げて転びそうになるのも自分で気づかないくらいに必死でエドガーを追っていた。


「エドガー! エドガー! エドガー!! 行かないで……!!!」


 そのひとは、外聞も厳格な式の段取りも何もかも頭から吹っ飛んでしまったみたいだった。エドガーは驚いたように目を瞠り、呟いた。


「……母上? どう、なさいました」


 エドガーの母、リーゼリア王妃は、エドガーが幼い頃から、エドガーを突き放すように接し、誉れあるお務めを立派に果たす事だけを要求してた筈。


『よく解ったよ……母上にとって俺は、誇れる完璧な贄の王子である事と、直系の血を残す為の種馬である事、それだけが大事なんだ、って……』


 エドガーのいない間にあたしを葬り去ろうとして、エドガーにそう言わせたくらい、氷の態度を貫いてきた筈なのに。


「ああ、エドガー! わたくしのいとし子! ごめんなさい、ごめんなさい! わたくしは、そなたを身ごもったと知ったその日からずっと、そなたを愛し、同時にそなたの運命に苦しみを感じました。そして、その苦しみは、誉れ高き贄の王子を授かった王妃としては罪だと思い、わたくしの役目は、ただ、そなたに立派にお務めをさせるよう導く事だと思ったのです……。だからそなたに冷たくあたり、心を持つなと教え……いずれ御神に差し出す子だからと己に言い聞かせ、そなたの為に母の愛など知らない方が未練もなくなると思ったのです。でも、でも、やっぱりそなたが行くのに耐えられなかった……ごめんなさい! 大事な時に、心を乱すようなことを……!!」


 王妃陛下は号泣していた。息子の腕に縋って叫ぶように心中を吐露した。

 エドガーは涙ぐみ、母の手に自分の手を重ねた。


「母上は……私を、贄の王子ではなく、ただの息子である私を、愛していて下さったのですか?」

「そうよ! 贄の王子でなければどんなに良かったか! お務めなんか糞くらえだわ! そなたにここにいて欲しい……ああ!」


 今までの王妃陛下からは想像も出来ない発言に、エドガーは笑み、


「ありがとうございます、母上……。本心をお聞かせ下さって、私はいま、天にも昇る心地です。大丈夫です、シャルムが私に代わってお仕えしますから」

「シャルムはシャルム、そなたはそなたなのよ! どちらもかけがえのない我が子なの!」

「母上……ならば、お願いがございます。私と思って、私の比翼であるエアリスを心にかけて頂けませんか。私の代わりの、娘と思って……。レガートはエアリスに求婚していますが、エアリスの立場は弱い。母上もご承認いただければ」

「あれは、そなたを贄にする人間でしょう!」

「もう天使の一員ですし、何より私に幸せを教えてくれた者です。母上が解って下されば、もう私に憂いは何もありません」

「……」


 王妃陛下は、大勢の中からすぐにあたしを見分けた。


「……わたくしは、何年も心を閉ざしていたそなたを開放したあの娘に、嫉妬していたのかも知れません。解ったわ、あの娘をちゃんと知るようにします。そなたがそういう位なのだから、良い心根なのでしょう」


 エドガーは、ややぎこちなくは見えたけれど、母を抱擁した。


「行って参ります、母上。母上のおかげで私は救いを得ました。私はずっとここにいます。私を愛して下さる母上なら、きっと感じて頂ける……そして、ずっと母上の息災を願っています」


 そう言うと、エドガーは王妃陛下を離し、踵を返した。


「行くぞ、シャルム。母上と父上を頼む!」

「エドガー……」


 泣き崩れる母を、ちらりと振り返ってエドガーは、


「いつまでもお元気で。本当にありがとうございます」


 と言った。


 守護騎士に護られたペガサスの馬車は、エドガーとアリーシャとシャルムさまを呑み込み、空へと旅立っていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る