41・王太子妃と、令嬢と、温泉と

 アリーシャの糸を絶った事でようやく情報の洩れはなくなったように思うけれど、それでも判らない事だらけで手詰まり状態である事には変わらない。アリーシャも、ばれたらばれたで別にいい、という位の気持ちで、エドガーの前で心話を送ってきたのかも知れない……自分の絶対的な優位を見せつける為に。だって、ただの人間だったあたしに何の目的でそんな糸をつけたのかすら、さっぱりわからないのだから。

 あたしは実は天使の血をひいていた……あたしは記憶喪失で人間界に落ちたミカエリスの天使だった……あたしは生まれつき特別な力を持った人間だった……色々と仮説を立ててみたけど、悉くエドガーに否定された。最初にあたしを拾った時に、何の特別さも全く感じない普通の人間に間違いないと感じた、と断言されてしまう。……最初は、『未確認生物』なんて言ってた癖に……。懐かしい……たった一年近くしか経っていないのに、なんて色々なことが変わってしまったのだろう。

 残り少ない時間は慌ただしく過ぎていく。みんなで一緒に、という形で前のようにエドガーと話せる機会は増えたけれど、二人きり、という事は起こらない。どうもエドガーは、あたしと二人になると自分を抑えられなくなりそうだと怖がっているようにも見えた。あたしだってそうだ……。エドガーは神聖なお務めを果たさなければならない身。許されない恋を言葉や態度に出す事は出来ない。

 もうすぐエドガーがいなくなってしまうなんて……信じられない。でも、お城の雰囲気は悲し気で、数か月後にはエドガーの子どもが生まれる事になっているのに、誰もが寂しげにエドガーをそっと見る。威風堂々としていつもみんなの中心にいるエドガー……あたしと出会う前はみんなを寄せ付けずに遠巻きにされていたらしいけど、今は、その立派な王太子然とした姿がやがてここからなくなるなんて考えられない。


―――


 妊娠の嘘さえ暴けばアリーシャを追い詰められるかも知れない……その希望に賭けたカステリアさまは、危険な提案をしてきた。


 妊娠発表と同時にアリーシャはエドガーと寝所を別にしてしまったので、最初にエドガーから『指一本触れない』と宣言したのだけど、今やエドガーが探ろうと思っても、その丸みを帯びたお腹に触って胎児の存在を確かめようにも出来なくなってしまっていた。

 エドガーは、積み重なったアリーシャへの怒りのあまり、もう仲の良い夫婦のふりは止める、と言って、人前でもアリーシャに対してよそよそしい態度をとるようになった。でも、最早ミカエリスから来た方々は、それに眉を顰めたり諫めたりするような事はない。だってどうせエドガーはそのうちいなくなってしまうのだから、アリーシャ妃さえ良ければそれで構わない、むしろ仮面夫婦である方が、アリーシャ妃にとっての別れの悲しみも和らぐだろう、と考えているのが手に取るように見える。


 それはともかく、カステリアさまは、なんとアリーシャ妃をその身重の身体を労わり、気分転換を勧める、という口実で、温泉に誘うと言い出したのだ!

 王城の近場に、温かな聖水の迸る癒しの泉があり、湯あみの設備も整った立派な名所があるとは聞いていたけれど、あたしは行った事はない。

 王族貴族の使う場所とは別に、一般の天使も自由に使える場所があるのだそうだけど……そんな習慣を持ってなかったので色々気後れするし、勇気を出して行ったって、他の美しい女性天使に比べて貧相な自分が惨めな思いをするだけだろうといじけた思考で、全く興味はなかったのだ。


「カステリア、おまえは一番危険な立場だと言ったろう! 自分からあいつに近づくなんてもっての外だ!」


 とエドガーは叫んだ。


「でも、表向き、わたくしは今も妃のお茶会に呼ばれ、親しい友人としての扱いを受けています。浴場でなら、女同士ですから確かめられます」

「あいつが妊娠してる筈がない。それなのにもしその誘いを受けるとしたら、もしかしたら、そこでわざと事故に遭ったふりをして流産した事にして、その責任をおまえになすりつける、というような可能性が高いんじゃないか」

「療養に誘ったくらいで、命に係わるお咎めを受けるとは思えませんわ。それに、もしそんな事態になったら、強引にこちらの侍医にも御子が存在したのか確認をさせる事が出来るでしょう。御子さえいなければ、円環の儀の後で妃がどうしてもセラフィムに留まらねばならない理由はなくなる筈……。エドガーさまとシャルムさまが、皆の前で、故郷に帰るよう説得すれば、断る事は出来ないのではないでしょうか」


 ……あの狡猾なアリーシャが、うまく策にはまってくれるだろうか? どうも危なっかしい気がして仕方がないけど、カステリアさまはとにかく何かしてみないと気が済まないらしい。結局、子どもの頃にエドガーを逃がそうとした時と、カステリアさまはあまり変わっていないんだな、と思ってしまう。

 それに比べてあたしは、火刑にされかけた恐怖が残っているのと、エドガーと離れる悲しさばかりが心を占めて、あの女への対処を考える気力が萎えている……駄目だと思いつつも。

 あたし達が一生懸命止めたのに、カステリアさまはさっさとアリーシャにお茶会でこの提案をもちかけてしまった。アリーシャは喜んで、皆で出かけてゆっくり楽しみましょう、と発言したそう。温室育ちのカステリアさまの思惑なんか見え見えだと思うんだけど、罠と思いつつ乗ってきた、という事は、向こうにも思惑があるに違いない。

 温室育ち……アリーシャだって、皆に愛される美しい王女として何不自由なく育った筈なのに、いったい何故あんなに歪んだ性格になったんだろう? 外には見えない、王族の間での争いがあったとか? でも、以前にレガートさまが部下をミカエリスに派遣して、密かに結婚前の彼女の身辺を徹底的に洗ったそうだけど、とにかく優しくて明るくて……という以外の悪い話は一切出なかったそう。


―――


 一方、シャルムさまは全然別の方から、アリーシャの追い出しの方法を考えていた。

 なんと、エドガーがいる内に自分も結婚してしまおう! というものだ。

 確かに、嫁いできて程なく出されたアリーシャの希望は、エドガーが旅立った後、再婚の許される贄の王妃であるアリーシャは、四百年不在のエドガーに代わって王太子となるシャルムさまと結婚して、エドガーの子を育てながら将来は王妃となり、生涯をこの国に捧げたい、という健気に聞こえるものだった。その約束は妊娠発表の前から内々に取り付けられていて、仮にエドガーとの子どもが出来なくても、ミカエリスとの関係の為にも良い事、としてシャルムさまも受諾せずにはいられない状況だったという。そのせいで、魔力の高いエドガーがいなくなれば、セラフィムはアリーシャの魅了に乗っ取られてしまうのではないか、と今ではあたし達が恐れている事なんだけれど、考えてみれば、子どもがいない上にシャルムさまも既婚の身になってしまえば、アリーシャの居場所はなくなるじゃないか、という訳だ。

 今はアリーシャはエドガーの妻であるので、シャルムさまとの話は内々の口約束でしかない。


「後でお咎めを受けても構わない。密かに結婚の契りを結んでしまえば、向こうにはどうする事も出来ない。抗議されても、どうしても以前からずっと妃にと心を決めたひとがいて、葛藤していたけれど気持ちを抑えきれずに……とミカエリス側が抗議して来てもひたすら謝れば……」

「しかし、王となるおまえが私情を抑えられなかった、となるとおまえの評判が……」

「そんな事は構いません。我が国の危機なんですから」

「でも、お相手は誰なんです?」


 とあたしは尋ねてみた。シャルムさまが誰かを恋い慕っていたけれど気持ちを抑えていた……なんていう風には、今まで全然見えなかったのだけど。


「勿論カステリアだよ。幼い頃から無意識に育んできた愛……でも、彼女は兄上の婚約者候補だったから、無理に気持ちを抑えていたんだと……納得できる筋書きじゃないかい?」

「シャルムさま、カステリアさまを愛してるんですか?」

「うーん……恋人として愛しているかと言われると、そうではなく、かけがえのない幼馴染、親友、といった気持ちに近いように思うけれど、でもいずれは私も結婚しなければならないし、カステリア以上に身分、器量を備えた女性なんて思いつかない。アリーシャ妃が大人しく国に帰ってくれたら、いずれ挙がる話だったと思うんだ」

「だけどカステリアさまの方はどう思われるでしょう?」

「多分、彼女の方でも似たような気持ちだと思うけど……でも国の為の事でもあるし、彼女は受けてくれると思うよ。彼女が長年兄上を慕っていたのは知っているし、私はずっと兄上に邪険にされていた彼女を不憫に思って、助けになれれば、と思っていた。彼女もそれは解ってくれているし、兄上がきみを愛してしまったのも受け入れているしね。別に今、きみと兄上みたいな熱い恋情がなくっても、先は長いのだから、私たちは気心も知れ切った間柄だし、互いに癒し合える夫婦になれると考えている」


 ……なんかどっかで聞いたような台詞。そう、レガートさまも同じような事を仰っていた。天使ってやっぱ寿命が長いから、気も長いのかなあ……。

 カステリアさまが温泉から帰って来たら、すぐに求婚してみようかなんて言ってる。まあ確かにお似合いの二人ではあると思う。エドガーも、二人さえ良ければ案外名案かも知れない、そしたら自分も結婚式に出られるし、なんて段々ノリノリになってきた。

 しかしとにかく、そのカステリアさまが、アリーシャの悪だくみに引っかからずに無事に帰って来てくれる事がまず大事で、その上、妊娠していない証拠を本当に掴めたら万々歳……。

 あたしは最初、カステリアさまを護る為に、侍女に扮して付いていくと言ったのだけど、皆さまから、どうせすぐ見破られるに決まってるし、益々面倒を招く可能性が高い、と押しとどめられ、やきもきしながら待つしかなかった。エドガーとシャルムさまは、何かあった時の為に、あたしなんかよりよっぽど役に立ちそうな有能な侍女を選んでカステリアさまにつける。異常があればすぐに連絡するように、と。ふん、だ、どうせあたしは役に立ちませんよ……まあ勿論、あたしを危険な目に遭わすまいという配慮だとは解っているけれども。

 多分アリーシャは一人だけ別の浴室を使いたいと言うだろう。何とか覗き見すると意気込んでたカステリアさまだったけど……女風呂で覗きだなんて、貴族の令嬢がやる事でしょうか。色んな意味で大変不安です。


―――


 だけど、心配は杞憂に終わって、カステリアさまは何事もなく戻って来られた。アリーシャは始終ご機嫌で、カステリアさまにお礼や贈り物をしたそうで。

 そして、帰って来たカステリアさまは…………ちょっと怒っていた。


「エドガーさま! わたくし、エドガーさまを見損ないましたわ!」

「な、なんだよだしぬけに。こっちは散々心配してたってのによ」


 いきなりの言われようにエドガーも口を尖らす。でもカステリアさまは、


「妃は、浴場で皆とご一緒されました。わたくし、この目で見ましたわ! 妃のお腹は偽物じゃありませんでした。夜着の上からお腹を触らされました。確かに、お腹の中に動くものが!」

「……!!」


 思いもしていなかったカステリアさまのお言葉に、あたしは思わず涙ぐむ。嘘……!

 でもカステリアさまはあたしの髪を撫でて下さって、


「ごめんなさい、エアリス。そなたを悲しませる事をいきなり言って。でもね、わたくし、色々学んだのです。確かにエドガーさまは約束を破ったかも知れませんが、それは、決してそなたを蔑ろにしたり、そなたへの愛が薄れたからではないのよ。そこは、信じてあげて?」

「はあ……?」

「カステリア! ……多分、おまえは色々と間違った事を考えているようだが、とにかく、見たものと言われた事をありのままに話せ」


 エドガーは予想外の成り行きに驚いてはいるようだけど、カステリアさまが魅了されているようでもない様子と見て、説明を促す。


「妃は……浴場で、女同士普段話せないような事を語りましょうと仰いました。でも、妃以外は独身の令嬢ばかりですので、結局、殆ど妃が色々とお話しされて。そのう……男の方は、女性と……それも妃のような美しい女性と同衾すると、普段いくらに心映えの素晴らしい方でも、理性がなくなってしまうのだと……子どもを作る行為をする本能に支配され、別人になってしまう、それは、肉体がそういう風に出来ているのだから、当たり前の事なのだと、教えて頂きました」

「…………」


 エドガーとシャルムさまは盛大に溜息をついた。


「あのなあ、カステリア。そんな訳ないだろうが! なんでおまえはそう単純なんだよ! 男も女も基本的には同じだ、ボケ。だったらおまえは、すげー魅力的な男が寝台に入って来たら、理性が吹っ飛んでケモノのような別人になって、本能のままにしたくもない子作りすんのかよ!」

「えっ……」

「あ、兄上、いくらなんでも露骨過ぎでは……」

「ロコツもへったくれもあるか。あいつの口車に乗せられやがって、ったく。み・か・み・に・か・け・て! 俺はあいつに指一本触れてません!!」

「でもでも、妃は、初夜にエドガーさまがとても男らしくて素晴らしくて、あんなことやこんなことをと……ああ、わたくしったら、男の方の前で何を言っているのかしら……」


 あんなことやこんなこと。どんなことでしょうか。

 それにしてもカステリアさまは初心過ぎでは……あたしだって、そんな訳ないくらい理解出来るのに……お嬢様ってものは……。


「と、とにかくそんな訳で、わたくしは最初は、何であれ御子がお腹にいらっしゃるのは事実ですから、エアリスに嘘を仰ったのかとエドガーさまを見損ないましたが、エドガーさまが理性を失って、もしその事自体をお忘れならば、男性の仕組みが悪いだけでエドガーさまが悪い訳でもないのか、とも考えたり……」

「忘れるかアホ! あの晩はあいつがあの手この手で誘惑してくるから、貴女の純潔を守ると誓ったのですから無理をせず休まれて下さいと言って、俺はソファで寝たけど、いつ襲われるかと一睡も出来なかったんだからな!」


 ぷっ、とあたしは噴き出してしまう。


「エアリス! 信じてくれるか?」

「うん、信じるって決めてるもん。大丈夫だよ、あたし。エドガーが理性を失うなんてあり得ない。だって誓ったもの」

「そうか……ありがとな」


 エドガーはあたしの言葉にほっとしたよう。カステリアさまもそれを聞いてようやくうなだれて、


「そ、そうですわね。エドガーさまを疑うなんて、わたくし、どうかしてましたわ。そのぅ、妃のお話が余りに刺激的だったので、つい……」


 と反省の弁を口になさる。


「もういいよ、ったく。仕様がねえなあ、おまえは。敵の色気話に翻弄されてどうするよ。……ま、おまえのその単純なとこがいいとこでもあるんだがな」

「しかし兄上。妊娠が本当であったという事実をカステリアが見て来たのは確かです。いったい、どう考えればいいのでしょう……」

「解らんな……しかし、これを知らしめたかった故に、カステリアの誘いを受けたのだ、という事は確かだな。俺たちが動揺し、エアリスが嘆き悲しむ様でも期待してたのかも知れん。或いは俺たちとカステリアの仲間割れとか」


 エドガーは考え込む。


「なあ、もしかして、奴は既にミカエリスで結婚してた、って可能性はないだろうか? 嫁いで来た時には既に孕んでいたとか……」

「しかし、重婚は禁忌ですよ。仮にも王女がそんな事……」

「いや……例えばそれで相手の男が密かに処刑され、結婚自体がなかった事にされてたとしたら……あいつが狂ったのも俺を逆恨みするのも辻褄が合うじゃねーか。基本的に再婚は認められないが、例外はいくつかある。結婚期間がすごく短かったとか、結婚自体が正式じゃなかったものとしてしまうとか……」

「しかし、それでは普通、兄上じゃなく、そのような酷い仕打ちをした国を恨むのでは? それに、レガートが丹念に調査していますが、そんな形跡は全くなかったようですが」

「うーん……いい線行ってると思ったんだがなあ……」


 あたしは恐る恐る言ってみる。


「やっぱり、妃の言う通り、御神が授けた……?」

「はあ? あんな邪悪な女に俺の子を? あり得ねーよ、御神がそんな意味不明な事なさる訳ねえ」

「でも、他に考えようが……」


 解らない……。天使は結婚相手としか子どもを作れないのに……。エドガーの説にもう少し何か要素が加われば或いは?


「そういえば、シャルムさま、以前お預けした紋章入りのブローチは? 何か進展ありませんか?」


 でもシャルムさまは首を横に振って、ミカエリスの、貴族でない騎士の家まで全て調べたけど判らない、と仰った。

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