37・信じると決めてるから
なんとなく流れてゆく時間。でも、その先に確実にあるのは、円環の儀。エドガーは四百年もの間眠りに就かなければならない。四百年もここからいなくなり、あたしは待っていなければならない、と思うとひどく寂しく辛く、胸が張り裂けそうだった。だけど、もし待ち続ける事が出来て、エドガーが帰って来たら、アリーシャ妃は国に帰るかシャルムさまと再婚するかしていて、エドガーは自由なのだから、また恋人に戻れるかも知れない……とも夢見ていた。
……後から思えば、『待てる』という儚い希望を持てていた頃のあたしはまだ幸せだったのかも知れない。円環の儀から生きて帰れた王子はこれまでひとりもいないとわかっていて……両陛下やシャルムさま始め誰もが……エドガー自身さえ、生きて帰れるとは全く思っていないこと……あたしだけがそれを知らなかった。
エドガーは戻ってこない。そう思うからこそ、みんなから愛されてるエドガーは忘れ形見を望まれていた。
―――
シャルムさまやレガートさま、男性陣は、鏡を見なくてもそこまで困る事はないのかも知れない。カステリアさまにはお化粧係がついているので、自分で鏡を見なくても身だしなみを整える事は出来る。
でもあたしは、自分で朝、洗顔して薄化粧を施さないといけないので、鏡がないのは実はかなり不自由だった。いっつも、あたしの顔、変じゃないかなって心配になるし。二か月以上鏡を見てないと、なんか自分の顔もくっきりと思い出せなくなってくる。
時々、恐々、レガートさまのお館の中庭にある池の水鏡を見てみる。ゆらゆらした水面は、余程お天気と光の加減がよくないと、ろくに顔かたちもわからないけれど、たまに偶然に、自分の姿が比較的くっきり見える時がある。それで、あたしは前と特に変わっていないんだなと知る。前に鏡に現れてた黒い影は見えない。それで、水鏡は大丈夫なんだとあたしは気を緩めていた。アリーシャ妃からの攻撃もあれからなかったし。
だけどある日。とても良いお天気で、風もなく池の水はお日さまの光をきらきら反射して揺らぎもない状態だった。あたしは覗き込んで、久々に自分の顔をはっきり見た。……別に、見て嬉しくなるような顔ではないのだけれども。
でも、顔と共に、あの恐ろしい黒い影が浮かび上がって来た……揺らぎのない状態では、水鏡は鏡と同じ作用が出来るようだ! あたしは悲鳴を上げて水辺から遠ざかろうとしたけれど、なんと水鏡から真っ黒な手が伸びて、あたしの足を掴んだ!
『やっと……もう少しで動ける……』
掠れた低い声が言葉を紡ぐ。前みたいにあたしの口に言わせてるのでなく、影自体が意志を持って喋っている。その声はどこかで聞いた事のあるもののような気がしたけれど、動転しているあたしは考える余裕もなくて。
『おまえの身体を乗っ取ってやる……』
影は気持ちの悪い事に、掴んだ足首からずぶずぶとあたしの中に入ってこようとする!
「いやあああ! 助けて! 誰か! エドガー!!」
黒い憎悪で出来た魔力の塊のような影に対抗する手段なんてあたしにありはしない。比翼の絆に縋ってあたしは後先構わずエドガーを呼んだ。
すると前の時と同じように、白い翼が空を切って舞い降り、あたしの足を掴んだ影の腕を一瞬で切断した!
『くっ……』
影は呻き声を残し、ずるずると池の中へ戻ってゆく。
「待てっ!」
と剣を構えてそのひとはすぐに追いかけたけれど、ざあっと風が吹いて水面は揺れ、黒い影は見えなくなってしまった。
「エドガー……」
……じゃなかった。
「大丈夫か、エアリスちゃん!!」
敵を諦め、すぐにあたしに駆け寄って来てくれたのは、レガートさま。あたしの足首を見て、
「まだ少し穢れが残ってる。すぐ浄化してあげるから待って」
と言い、すぐに足首に残った痣のようなものを、手をかざして消してくれる。
「どうして……レガートさま」
「……エドガーさまじゃなくてごめんね。僕の部屋はこの真上だよ。今日は非番だったから部屋で書き物をしていたら、エアリスちゃんの悲鳴が聞こえた。それだけだよ……」
「あっ……いえ、そんなつもりじゃなく。ありがとうございます……どうなるかと思った……」
言い訳したものの、あたしの気持ちは伝わってしまう。あたしのヒーローはエドガーなのに、なんでレガートさましか来てくれなかったのか、と……。
気まずい沈黙が下りる。でもレガートさまは少し寂し気に笑って、
「無事で良かった。やっぱりまだ危険があるんだね。気を引き締めていないとね。あれはなんなんだろ? まるで異質な存在なのに、何だか知ってたような感じもしたな」
「わからない……でも、助けてもらってなかったら、あたし、乗っ取られてたかも……」
「あんな邪悪なものがアリーシャ妃の手先なんて事があるんだろうか。もしかしたら、妃とは別な敵なのかも?」
「……」
何もかもわからない。でも、エドガーの結婚前に鏡にいたモノ、それが、見ない間に力を溜めていた感じがした。
「……エドガーさまは多分、僕が非番で館にいる事を知っておられたと思うし、今日は王太子妃夫妻からの定時発表の日で大勢の人に囲まれてた筈だから、僕に任されたんだと思うよ。信頼に応えられてよかった。エアリスちゃんを護れて」
『あの男も馬鹿ね。おまえなんかに入れ込んで……。見てたら解るわ、本気だって』
底知れない琥珀色の瞳を見ていると、いつかのアリーシャ妃の言葉が脳裏に甦る。レガートさまは、あたしの事を妹みたいに思う、って言ったのに、そんな事があるだろうか? ……もしも、あるとしたら、あたしは、レガートさまに酷い事をしているのでは……?
「どうしたの、エアリスちゃん。どこか、まだおかしな感じがある?」
あたしが暗い表情なので、レガートさまは心配顔で覗き込む。でも、必要以上には触れまいと気を遣ってくれてるのも感じる。レガートさまはいつだって優しい。エドガーを愛し、信じる気持ちが芽生える前に、もっとよくレガートさまを見ていたら……? ああでもやっぱり、エドガー以外の男の人をそういう対象に見るなんて出来ない。レガートさまだって、『誰かの為に一生懸命なあたしが好きになった』って仰ってたし……恋愛って難しいな……。でも、エドガーは、『レガートが幸せにしてくれる』と何度も言ってたけど、そうは思えない。あたしはずっと、エドガーだけを愛し、信じてる……。
「大丈夫です。本当に、ありがとうございます」
それしか、あたしには言えない。
だけど、この時、通りから大きな歓声が次々と沸き起こるのが聞こえて来た。
「ん……? どうしたんだろう」
レガートさまの呟きに答えるように、人々が喝采をあげる声が近づいて来た。
「遂にこの日が!」
「正式な発表だ、ああ、良かった! なんておめでたい!」
なんなの?
次の声は、あたしと、そしてレガートさまをも凍り付かせた。
「遂に王太子妃がご懐妊だって! エドガーさまの御子が!」
―――
「うそ……」
「エアリスちゃん」
あたしは力を失い、レガートさまはどうしていいか解らないという様子で、倒れそうなあたしを受け止める。
「約束したのに! アリーシャ妃には触れないって……あたしだけを愛してるって!」
混乱して泣き叫ぶあたしに対して、レガートさまは困ったようにそっと頭を撫ででくれる。
「きっと、何かの間違いだよ。エドガーさまに限って、そんな不誠実はあり得ないって」
「でも、正式な発表だって! それに、アリーシャ妃が妻なんだもの、不誠実じゃない……むしろ当然の……」
「だけど、そんなら先に僕らに知らされてる筈だよ。これもきっと妃の企みだよ。ね、エアリスちゃん」
「でも! さっき呼んだのに、エドガーは来てくれなかった! レガートさまがもしも席を外してたら、あたし、乗っ取られてたかもしれないのに!」
もう訳がわからなくて泣き叫ぶあたしを、レガートさまはただあたしの頭や、随分大きくなった翼を撫でてくれながら、
「信じるって決めたんでしょ? 直接話も聞かずに、エドガーさまを疑うの? そんなの、エアリスちゃんらしくないなあ。きっとエドガーさまは説明して下さるよ。……万が一、妃の魅力に負けちゃった、なんて言ったら、僕がエドガーさまを張り倒して、そのままエアリスちゃんを貰っちゃうからね。でも絶対そんな事ないよ。何か訳があるんだよ」
レガートさまの温かみのある声を聞いてたら、あたしは少し落ち着いた。
そうだ、絶対に信じるって決めてたのに、動揺するなんて、あたしは馬鹿だ……。これもきっと、妃の策略だよね。
「ありがとうございます、レガートさま……。うん、あたし、エドガーを信じます」
「それでこそ、僕のエアリスちゃんだよ」
ってレガートさまは軽く笑った。
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