32・亀裂

『作り物みたいな『健気で美しいアリーシャ姫』より、元気で可愛いおまえがいい』

『俺はずうっとおまえを愛してるし、おまえのおかげで幸せだよ』

『心の中ではずっとそう思ってる。そう呼びかけてるから、そう思ってて欲しい……。絶対にアリーシャには言わないし、結婚後もあいつには指一本触れないって誓う。あいつにもそう宣言してある』


 あの時のエドガーの言葉がぐるぐる頭を回ってる。あたし、エドガーを疑った事なんてないし、エドガーはあんなにあっさりと嘘をつける性格じゃない事くらい知ってる……。


『あのひとは、初めてふたりになった途端に、愛を告げてきたわ』

『馬鹿ねぇ、本当に、自分の方がわたくしより愛されてると思ったの?』


 あんな性悪女の言う事なんか信じるものか。レガートさまの命を質にしてまであたしに口止めするような……『暗殺なんて簡単よ』なんていう恐ろしい女の言う事なんか……。


 でも。

 なんであの女は、あたし達だけの秘密を知っているの……。

 エドガーは、比翼の事は言わなきゃ今の段階で他に知られる事はない、って言ってた。エドガーが信頼して話した三人と、エドガーとあたし、五人のうちの誰かが言わない限り、ということ……でも、誰も絶対口外するような方々ではないのに!


「レガート、エアリスはいったいどうしたのです?」

「僕にも絶対言えない、って……でも、アリーシャ姫に何か言われた事が原因なのは間違いないんだよね」


 あたしが部屋に閉じこもっているのを心配して、カステリアさまはお見舞いに来てくれたし、レガートさまもお昼休みに様子を見に帰って来て下さってる。でも、あたしは扉を開けられない。お二人を前に平気な顔が出来る自信がないし、だけど真実は話せないので、こうやって立て籠もっているしかない現状。お二人を扉の前に立たせているのは大変申し訳ないんだけど、いくら、ちょっとお腹が痛いだけで大丈夫ですと言っても帰ってくれないし……。


「アリーシャ姫は、エドガーさまの本心に気付かれたのかも? そしてエアリスに嫉妬して傷つくような事を仰ったのかも知れないわ」

「でもそれじゃ、僕らに話せない、っておかしいんじゃない?」

「それもそうね……」


 嫉妬どころか、勝利宣言され、身の程を弁えてもう近づくなと言われているんだけど……。

 ああ、話せないのがもどかしい。それに、姫の本性を知ったあたしは、ミカエリスの狙いを偉い人に伝えなければ、という焦りもある。ミカエリスはセラフィムとの平和を望んでいない。姫はミカエリスの血を引くエドガーの子どもがいつか即位した時に、子どもを操って何か企んでいるのに違いない。子どもなんか、出来る訳ないと……指一本触れないとエドガーは誓ったんだから、とは思うけれど……。

 でも、とにかくアリーシャ姫の真意を話せばレガートさまの命が……。それに、レガートさま達はともかく、他の方々はあたしの話なんかよりアリーシャ姫を信じるに決まってる。今やアリーシャ姫は美しく健気な花嫁として、セラフィム王国の誰もから大人気なのだ。両陛下も大層可愛がっておられるという話だし……ああ、八方塞がり、ってこういうこと?


 この時、廊下の向こうから別の声が近づいてくるのが判った。


「レガート! おまえは一体どういうつもりなんだ?」


 シャルムさまのお声はやや怒気を帯びている。いったい何故……?


「はい? どういうつもり、とは……?」

「円環まではと約束したのに、エアリスに手を出したろう?」

「ええっ?!」


 あたしとレガートさまの驚きの声が重なる。まああたしはお布団を被って聞き耳だけ立てているので、あたしの声は部屋の外までは聞こえてないと思うけれど。


「なんでそんな事を? 俺は約束は守りますよ。ましてや、エドガーさまのエアリスちゃんに勝手に手を出すなんてあり得ませんよ。酷いなあ、いったいどうしてそんな誤解が?」

「兄上は昨夜から何かエアリスの事を気にしておられる。口には出されないけど、傍にいれば解る。苛々したり黙り込んだり……そんな時はいつもエアリス絡みだ。おまえは外でエアリスを恋人として扱っている。最初は、エアリスがおまえに付いて夜会に出られるようにする為の計らいかと思ったが、実は本当にそうなっているのではないか、と思えて来たんだ。だから、私が気づくような事なら兄上も気づかれたんだろうと。最近、おまえとエアリスは以前より親し気だし」

「そんな。そりゃあ、エアリスちゃんの力になりたいと思って話すから、前より仲良くなれてるかも知れないけど、それだけですよ。恋人宣言に関しては、シャルムさまの仰った通りですし。そもそも、エドガーさまにはその許可も頂いてますし、誤解なさる訳ないですよ」

「最初はそういうつもりでも、元々おまえはエアリスに気があるのだから、段々その気になるかも知れないじゃないか。……おまえ、今日は兄上に会ってないのか」

「なりませんてば。……あー、でも、そう言えば今朝、エドガーさまになんか避けられてる気がしたのは気のせいじゃなかったのか……。確かに、普通なら、昨日の様子を見られてたんなら真っ先に理由を聞いてこられそうなのに」

「昨日の様子?」

「エアリスちゃん、アリーシャ姫になんか言われて、具合が悪くなって途中で退席したんです。そして今も、こうやって呼んでも部屋から出て来てくれない状態で……」

「エアリスが姫と話しているのは私も見た。でも、あの強いエアリスが、仮に姫が無意識に何か見下すような事を言われたとしても、それくらいで具合が悪くなるなんて事はないだろう」

「でも、遠くからはわからなかっただろうと思いますけど、本当に真っ青になってて……あ、もしかしてエアリスちゃんが倒れそうなんで心配して俺が肩を支えてたから、エドガーさまは誤解されたのかなぁ……。でもそんな事あるかなぁ……」


 そんな。たったあれくらいの事で誤解される事はないと思う。確かに前は、レガートさまに、あたしを見るな話しかけるな汚れる、なんて悪態ついてたけど、それは信頼してるからこその軽口にしか思えなかったし。


「確かに結婚を目前に控えて、エドガーさまは神経質におなりなのかも知れません。でも、たったそれくらいの事でレガートへの信頼を失われるなんてあり得ませんわ。ご自分がお務めに旅立たれた後は、レガートが幸せにしてくれるから、ってずっと仰ってましたもの。エドガーさまのご様子がおかしいというのは心配ですけど、それはレガートのせいではないと思いますわ」

「では何なんだ。本当に何もないのか、レガート」

「ある訳ないでしょう。俺だってなんなのか分からなくて心配してるのに。でもまあとにかく、アリーシャ姫とエアリスちゃんが話をしてから、エドガーさまとエアリスちゃんはおかしくなっちゃった。これには間違いないですよね」


 そうだそうだ。レガートさまとカステリアさまはちゃんとわかってくれてる。ああ、あたしが言わなくっても、皆さまがアリーシャ姫の本性に気付いてくれれば、問題は解決するかも……!

 だけども、シャルムさまのお声は相変わらず厳しい。


「アリーシャ姫のせいにする気なのか」

「せい、って……何のお話をなされたのかもわからないのに、誰のせいとか言ってないじゃないですか。ただ事実を言っただけでしょう。どうしたんです、シャルムさま。なんか変ですよ」

「何が変なんだ。あの慈悲の塊のような姫がなにかエアリスに仰ってエアリスが落ち込んでいるのならば、エアリスは恐らく、姫と自分の差に気付き、兄上に為に自分は完全に身を引いて、姫に兄上を任せ、兄上と姫の御子を望んだ方が良いと考えたんだろう……そうか、それを察して兄上の様子がおかしくなっているのかも知れない。エアリスは間違っていないのに」


 ああーっ!! シャルムさまは他の方々と同じように、アリーシャ教に洗脳されてる! シャルムさまはある意味一番純粋な方だから、エドガーやカステリアさまが感じた、姫の『完璧すぎる胡散臭さ』に全く気付いてない……。


「シャルムさま。もしエドガーさまがそう望まれたら、エアリスちゃんは自分から身を引く子だと思います。でも、エドガーさまがエアリスちゃんを愛しているのにエアリスちゃんの方から離れるなんて、それはエドガーさまを傷つける事だって、彼女はわかっていますよ」

「わかってないのはおまえだよ。以前におまえは、エアリスには荷が重すぎると言ったじゃないか。アリーシャ姫の方が適任だ」

「以前は以前ですよ。エアリスちゃんは円環の事を知っても、ちゃんと受け止めたじゃないですか。それに、誰がいいか決めるのはエドガーさまご自身でしょう? なんでエドガーさまのご意思を素通りしちゃうんですか? 何も仰らなくっても、シャルムさまなら、どうされたのか聞けるでしょう?」

「兄上は、エアリスに癒されてずっとそれに縋ってるだけなんだ! だからアリーシャ姫の事を知ろうともなさらないんだよ! だから私は、おまえが約束を破ったのならそれには腹が立つし、兄上に謝れとは思ったけれど、それでエアリスも納得するなら、兄上もアリーシャ姫に目を向けようと思われるだろうと考えて」

「なんですかそれ。エドガーさまの自発的なお気持ちが第一ではないんですか。シャルムさまが、アリーシャ姫の方がいいと思うから、アリーシャ姫の方へエドガーさまのお気持ちを持って行こうと言う風にしか聞こえませんよ!」

「そんなつもりじゃない! ただ、アリーシャ姫は兄上の妃になるんだから、子どもだって出来得る。エアリスには出来ないだろう!」


 シャルムさまのお言葉が胸に刺さる……それはそうかも知れない。あたしには決してエドガーの子どもを産んであげる事は出来ない……妻じゃないんだから。妻になれないんだから。

 でも、だからって、あの邪悪なアリーシャ姫にエドガーを託すなんて出来っこない。


「ちょ、ちょっと、こんな場所で口論なんて、どうされたんですの! シャルムさま、わたくしはレガートの意見に賛成です。御子を遺すかどうかも、エドガーさまご自身がお決めになる事でしょう?」

「きみもそんな事を言うのか、カステリア。何が兄上にとって一番いいか、考えてお導きするのも私たちの役目じゃないのか!」

「わたくしたちはずっと、エドガーさまの傷ついたお心を知りながら、何も出来ませんでした。エドガーさまに笑顔を取り戻せたのはエアリスだけです。その事をお忘れになったのですか? エドガーさまは、見かけの愛らしさや健気さに惑わされるお方ではありません」

「きみに出来なかったから、他の女性にも出来ないと思い込んでいるだけじゃないのか?!」

「…………っ!」

「ちょっと、今のはあんまりじゃないですか?! カステリアがどんなにエドガーさまを想っているか、シャルムさまは一番ご存知でしょう?! カステリアに謝ってください!!」

「カステリアは思い込みが激しすぎる。冷静になってくれと言いたかっただけだ」

「いま一番冷静じゃないのは、どう見てもシャルムさまだと思いますが」

「なんだと!」

「やめてください!!」


 遂にあたしはたまりかねて部屋を飛び出した。あたしが寝間着のままなので、シャルムさまとレガートさまはぎょっとしたようだけど、あたしは構わず、


「なんで喧嘩なんか……。シャルムさま、あたしはエドガーの為になることなら、なんだってします。あたしが消えてなくなったらエドガーが幸せになれるんなら、いますぐそうしたって構いません。でも、アリーシャ姫とエドガーを無理やり結びつける事がエドガーの幸せにつながるとは、あたしには思えません」


 だけど、あたしの心からの言葉は、まるでシャルムさまには通じなかったみたいで、憐れむような視線を送ってこられた。いったいどうしてしまったの、シャルムさま……そんな顔見た事ない。全然シャルムさまらしくない。


「いますぐ消えてなくなる? そんな事はさせられない。だってきみは兄上の比翼だから、そんな事になれば兄上の身にもなにかあるかも知れないからね。それを分かってて、そんな健気な事を言って見せてるだけだろう?」

「そ、そんな……」


 完全に忘れてた。なのに、なんでそんな……酷い事を仰るの?


「……シャルムさま。俺、本気で怒りますよ」

「私だっておまえには本気で失望しているよ。おまえは兄上よりエアリスの事を考えてる」

「違う! 俺にはどっちも大事な存在だ!」

「やめてレガートさま。レガートさまとシャルムさまが争ったって、エドガーが喜ぶ訳ないでしょ!」

「エアリスちゃん……」


 そこでカステリアさまが、涙に濡れた目を上げて、


「エアリス、いったいアリーシャ姫に何を言われたの? ここには秘密を口外する者はいません。口止めされているのかも知れませんが、大丈夫だから」


 ああ、言えたらどんなに楽だろう。シャルムさまだって分かって下さるかも知れないのに……。でも、質にとられたのがあたし自身であれば、シャルムさまに分かってもらう為だけにでも、昨日の会話を伝えられただろうに、レガートさまの命がかかっていると思うと、言えない……。アリーシャ姫の本性を知れば、お三方はそれぞれ国とエドガーの為に行動に出るだろう。そうしたら、あたしが喋った事はすぐに姫にばれてしまう……。


「言えないんです、カステリアさま……。お三方を信じてないからでは決してなくって……別の事情があるんです……」

「まさか、脅されたのかい?」

「レガート! 姫がそんな事をなさる訳がないだろう!!」

「シャルムさま、怒らないで下さい。あたしが、あたしが悪いんです」


 とにかくこの場を収めないと、と必死だった。


「もういい。私が直接姫にお聞きする!」

「シャルムさま。俺もその席に同席させて下さい」

「断る。私は姫と二人で話す権利を与えられている」

「えっ……。姫はエドガーさまの婚約者なのに、どうしてですか? いくら弟君でも、二人で、って?」


 天界の常識ではそれはなしらしい。カステリアさまの質問に対し、シャルムさまは冷ややかな目でカステリアさまを見て、


「きみたちが秘密を漏らすような者でない事は私も理解している。秘密、といっても、いずれ公になる事だけれどね、今の時点では秘密だ……心得ておいて欲しい。当初、アリーシャ姫は、円環の儀の後は、生国に戻って然るべき者と再婚される予定だった。だけど、アリーシャ姫は、兄上との思い出が出来たこの国にずっといたいと仰って……。協議の結果、姫は円環の儀から帰られた後、私と婚約を結び、セラフィム王家の一員として永住なさる事になった。兄上も、私がいいならそれでいいんじゃないかと仰ってる。だから、姫は私にとっても大切な方なのだ。悪く言うのも邪魔をするのも許さない。きみたちが当てにならないのはわかったよ。兄上と姫は私がお守りする!」


 そう言い放つと、シャルムさまはくるりと背を向けて立ち去られてしまった。残されたあたし達は茫然とするばかり。


「いったい、シャルムさま、どうなさってしまったの……」

「まさか、本気で姫に惚れちゃったとか?」


 と顔を見合わせるカステリアさまとレガートさま。しかしあたしは不謹慎にもくしゅんとくしゃみをしてしまう。だって今までお布団に潜っていたのに、いきなり寝間着で飛び出して来ちゃったから。


「と、とにかくエアリス、そんなはしたない格好でいてはいけません。早く着替えなさい。エドガーさまの事は、明日、わたくしから直接お尋ねしてみるわ。まさかそんな風にレガートとの事を誤解なさる筈はないとわたくしは信じています」

「……ですよね」


 いつも兄上第一の生真面目なシャルムさまは、姫の上っ面に騙されて気持ちが暴走していらっしゃるのに違いない……。もしかして、比翼の事もシャルムさまが話しちゃったのかなぁ……。でも、絶対五人の秘密だってエドガーに念を押されていたのに、勝手にそこまでなさるとは思いにくい。シャルムさまが姫にそれを教える益はない筈だし。でもとにかく、長い間信じあって育ってきた幼馴染だもの、すぐにレガートさまやカステリアさまと仲直りなさる筈。

 エドガーだって……あたしとレガートさまに仮に何か間違って誤解されるようなやり取りがあってしまったとしても、あたしやレガートさまを疑うなんてあり得ない……。きっと、あたしがアリーシャ姫に苛められたのではと心配してくれてるのに違いない……。


 だけど。

 そんな風にその日は気持ちを落ち着けてみたものの、すぐにあたし達は、甘かったのだと……特にあたしは、アリーシャ姫の恐ろしさを実感する事になる。

 エドガーもシャルムさまも、全くレガートさまと話そうとも、カステリアさまと会おうともしなくなってしまったのだ。勿論、あたしとも……。いったいアリーシャ姫はシャルムさまに何を吹き込んだのか。

 あたしは毎日、以前に昼休みにエドガーと会っていた庭園で、僅かな時間でもいいから来てくれるのを一日中待っていたのに。そして、エドガーはそれに気づいていた筈。一度、窓からこっちを見ているのが判ったもの。一瞬しか表情は見えなかったけれど、エドガーは、なんだかとても辛そうにも、苦しそうにも、見えた。

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