19・堕天使と深刻な事態

 誰も何も教えてくれない。気の毒そうな顔で、『(あたしにとって)悪いようにはしないから、今まで通りに』と言うばっかりで、全然謎が解けないので、いい加減うんざりしてきた。


 シャルムさまと話を終えた後、あたしは気分転換がしたくて、ペガサスに乗って、前にエドガーが連れて行ってくれた綺麗な場所に行ってみる事にした。

 マニーさんを連れていけと言われてはいたけれど、マニーさんと一緒では気分転換にならない。それに、もうあの頃と違って、迷子になる心配もないし、あたしを襲ってくる存在もないでしょう。遅くならないうちに帰れば大丈夫。


 半年……とりあえず、今日明日に何かが起こる事はない、って判ったのが唯一の収穫なんて。半年もこんなもやもやを抱えたままなの? そして、半年後には今の生活は終わる……?

 結婚するんだと思ったのがあたしの勘違いなんだとしたら、なんなんだろう。やっぱり円環の儀……? それが終わったら、エドガーは今の国王陛下みたいに奥の宮に籠ってしまって、二度と会えなくなるとか……?


 そんな事を考えながら、目的地に着いた。

 楽しくて綺麗だったあの日と同じように、花は咲き乱れ、美しい泉にきらきらと光が輝いている。でも、あの時みたいな楽しい気持ちには全くなれない。今は、エドガーがいない。そして、いつか傍からいなくなる?

 座り込んで、暫くぼーっと景色を眺めていた。そよそよ吹く風を頬に受けながら、時々小石を拾って泉に投げ込んだ。ぽちゃりと落ちて、波紋が広がって、そして消えていく。消えていく……。


 不意に、あたしはぞくっとして、背後を振り返った。突然、ただならぬ気配がそこに現れたのを感じたのだ。


「あら。随分と勘が良くなったようね。人間風情も、時間のおかげで、天使が身について来たのかしら?」

「リ……リベカ!!」


 表面上はのどかな日々が続いていたので、あたしはすっかり忘れていた。あたしを殺そうとした女が、この世界のどこかに潜んでいるという事を!

 だけど。前に会った時と、随分雰囲気が違う。黒い羽根。そして清浄な天使とはかけ離れた、おぞましい邪気……!


「あ、あんたはいったい……」

「相変わらず礼儀がなってないわね。でも、ようやく一人でのこのこと、誰もいない所に来てくれて嬉しいわ」

「その、羽根! いったいどうしたの?! まさかあんた……」

「あら、ちゃんと勉強はしているみたいね。そうよ。わたくしの事を受け入れない王国なんか、捨てる事にしたの。わたくしは、堕天したのよ! あれからすぐに、おまえが開けた真穴から飛び降りて。天空の情報をたくさんもたらしたわたくしを、魔界は丁重に受け入れてくれたわ。そして、わたくしの復讐にも手を貸してくれたのよ」

「ふ、復讐って! まさかあたしを恨んでるの?! あんたがあたしを殺そうとしたんじゃない!」

「わたくしが恨んでいるのは、おまえよりむしろエドガーよ! わたくしは彼の為を思ってやったのに、あんな辱めを受けるなんて!」

「誰かを殺そうとしたのに、正体暴露されただけで罰されなかったのは温情、とは思えない訳?」

「いいえ、生き恥をかかされたのよ。だから、わたくしは魔族として生まれ変わり、復讐を遂げる!」


 きりっと宣言されても……。単なる逆恨みでここまでしてしまうこの女は恐ろしすぎる。一人でいるあたしの前に現れて、なにするつもり?! あたしはそっと後ずさる。ペガサスの所まで行ければ、逃げられる筈。

 あたしが動いた途端。あたしの頬を何かがかすめた。


「痛っ……」


 手をあてると、血がついた。何をしたの?!


「これが魔族の刃……逃がさないわよ、エアリス。エドガーはおまえを何より大事に思ってる。だから、おまえを斬り刻んで、死体をあいつに見せつけてやるのよ!」


 発想が怖すぎる。それに……、


「な、何より大事に、なんて。あたしはただのペットよ。つなぎの癒しに過ぎないんだから!」

「つなぎ? ああそう、円環の儀の事、知ったのね。でも、させないわ。わたくしの復讐を魔界が手伝ってくれるのは、円環の儀を阻止する為でもあるのだから」


 そうだ、リベカは秘密を知っている。でも、それを聞き出す余裕はない。時間稼ぎをしなくては。エドガーにはあたしの居場所が判るんだから、遅くなれば、探しに来てくれるかも知れない。それに賭けるしかない。


「あたしを殺せば、円環の儀はなくなるの?」

「そういう訳ではないわよ。おまえを殺して、動揺してるエドガーを殺す!」

「なんで? あたしが死んだって、エドガーはそんなに悲しまないかも知れないじゃない!」

「馬鹿ね。エドガーの空っぽになってた心を奪った癖に」

「な、なにを言ってるの。あたしはただのペットで……」

「そんなの、傍に置く為に言い訳に決まってるでしょ。そう、本当は、みんな悔しかったのよ。おまえに嫉妬してたのよ。だって、おまえにだけ、ずっと誰にも見せなかった表情を見せるのを何度も見たから……尤も、本人は気づいてないのかも知れないけれどね。でも、おまえが死体になったら、もう立ち直れないというのは確かよ。さあ、じわじわと苦しみを味わえばいい」


 ひゅんひゅんと、見えない刃が飛んでくる。あたしは必死でリベカに背を向けて走ったけれど、刃はあたしの服を裂き、皮膚を裂き、翼を傷めた。飛べなくなる程ではないけれども。

 ペガサス……! 樹につないだペガサスは、異変に気付いて嘶いている。

 全身が痛い。傷だらけになって、血まみれになって、あたしは膝をつく。もう走れないよ。これで、終わりなの? エドガーの言いつけを守らなかったから? でも、あたしが死ぬのはそのせいだとしても、それでエドガーが悲しむのは嫌だ! エドガーが、みんなの言う、『笑顔のない』状態に戻っちゃうなんて! 『シャルムさまとレガートさま以外とは目も合わせない』状態に戻っちゃうなんて! 嫌!!


 その時。

 ぴかっと光が輝いた。なにこれ、どこで何が光っているんだろう?


「ううっ!!」


 背後で、リベカの呻き声。

 あたしの翼が、光っている。聖なる光……魔族には苦しみを与えると教わった。でも、何故いま?


「小癪な!! もう痛めつけるのはこれくらいにしましょうか。その首を刎ね落としてやる!!」


 物騒な事を叫びながら、リベカは近づいてくる。苦し気な息を吐いているけれど、動きを封じる程の効果はないみたい。


「エドガー……ごめん」


 リベカの渾身の攻撃を、避ける力が残っていない。あたしの首筋を目がけて、禍々しい魔力の刃が飛んでくるのが判ったけれど、どうしようもない。


 その時。


 額の傷から流れる血が目に入って、ぼんやりとしか見えなかったけど、大きな影が羽ばたいて近づいてくるのはわかる。


「エアリス!!!!」


 ああ、最期に聞きたかった声。焦った声……エドガー、来てくれた……。でも、もう遅い。見ないで。あたしの首が落ちるところなんて……。

 あたしの事なんか気にしないで、リベカをやっつけて。でないと、エドガーも危ない……。

 目を瞑ってそんな事を思っていると。

 がしっ、っと首根っこを掴まれた。

 えっ、ちょっと、まずい……。


「くっ! 馬鹿な!!」


 リベカの叫び。あたしは放心状態で見た。エドガーがあたしの首根っこを掴んで頭を下げさせて、凄まじい刃から護ってくれた代わりに、その、掴んだ腕が、あたしの首の代わりに切断されたのを。


「やだ!! エドガー!! エドガー!!」


 左腕からどくどくと血を流しながら、エドガーは膝をつき、それでもあたしを見て、にやっと笑った。


「首一本に比べれば、腕一本くらい、どうってねえよ。……馬鹿が、泣くな。あいつくらい、片腕でもやっつけてやるから」


 あたしの首から離れて、地面に転がったエドガーの腕。とんでもない事になってしまった!

 でも、エドガーは右手で剣を抜き、ふらつきながらも立ち上がって、リベカを睨み付ける。


「貴様。あの時あれで見逃してやったのは、間違いだったようだな」

「……そうよ。いっそ、あの時斬っていてくれれば、わたくしは堕天せずに済んだのよ。愚かな愚かな、宿命を負った王子!」

「うるっせえ!!」


 ぶんっ、と、エドガーの剣が、深手を負っているとは思えないほどの速さで空を斬る。その、剣に込められた聖なる魔力に、リベカは敵わない。


「く……こんな、筈じゃ」


 白い光を放つエドガーの魔力の刃を胸に受けたリベカは、恐ろしい形相であたしとエドガーを睨み付けたけれど、それが限界のようだった。胸から瘴気を振りまきながら、リベカの姿は形を保てなくなって、そして……あっけなく消滅した。

 それと同時に、エドガーは、吐息をついて、意識を手放した。倒れる身体を受け止めて、ペガサスに乗せてお城まで運んだ間のこと、あたしの記憶には殆ど残っていない。

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