第31話
じっくり奉納相撲など見た事が無かった玲子は、土俵の周囲に敷かれた大きなブルーシートの感触に何処か懐かしい感覚を覚えた。
(ビニールシートの感触なんて何年ぶりだろう……)
玲子の記憶に残る感触は幼い子供の頃の両親に連れられて行ったハイキング位だ。
子供だった自分が今は異性と手を繋いで相撲観戦をしている。
玲子は周囲の歓声と夜風に撫でられて克己の指の温もりに浸る。
胡坐の克己の前には、観戦場所の入り口で配られた使い捨てビニールにくるまれた克己と玲子の下駄が仲良く並んでいる。
繋いでいた手は今はシートに伏せられて指だけが組まれている。
「玲子……」
背後から声を掛けられて玲子は思わず克己に重ねた指に力を入れた。
振り向いた玲子の視線に、仄かな提灯の灯りに照らされた級友の笑顔。
「玲子が相撲観戦なんて珍しいー!」
頓狂な声を上げる級友が隣の克己に一瞬視線を流して玲子の肩をつつく。
玲子は全身に火が点いたような錯覚を覚えた。
隣の克己が身体を捻って級友に頭を下げる。
「こんばんわ」
克己の挨拶に満面の笑みを返すクラスメート。
土俵を照らす灯りは強く。観客席の提灯の灯りを打ち消しているので、シートについた玲子の手元は薄暗く。
(繋いだ手は見えてないよね)
自分に言い聞かせながら、どこかで見えていたらどうしようとはにかむ自分が居る事に玲子は身もだえる。
級友達は挨拶もそこそこに神社に向かって行った。
取り組みを終えた力士達が観客に頭を下げて退場を始めたのを確かめて、克己が二人の下駄に手を伸ばした。
まだまだ祭りの賑わいは続くが、玲子は喉の渇きを覚えていた。
出掛ける前の水分補給が足りなかったのかと自問するがそうとも思えない。
下駄を履く為に屈んだ玲子の肘を支えた克己の存在を改めて意識して玲子は渇きの元に思い当たる。
立ち上がりながら見上げて克己に言い募る。
「喉、乾いちゃったかも」
乾いた理由は勿論口にしない。
頷いた克己が右手の手のひらを上に向けて指を開く。
見上げた玲子は、いつの間にか落ち着きを身につけた克己の表情に見惚れる。
初めての告白の時に見せたような、ふらつきも、自信の無さも今は見えない。
相撲観戦を終え、家路に向かう人混みに紛れて再び夜店の並びに向かって歩き出した 克己は、社殿前の瓢箪池に近ずくと玲子の手を引いて巫女たちの並ぶテントの端へ玲子を誘った。
「?」
怪訝な顔で克己を見上げる玲子の前で、克己は巫女に話しかけた。
「二つ、下さい」
克己が差し出した千円札を受け取った巫女が、玲子を向いて手元に並べたさらの絵馬を指差して問いかける。
「どのデザインになさいますか?」
克己も玲子も何も言ってはいないのだが、巫女は克己からお金を受け取り、選択はさも当然の様に玲子に尋ねた。
テントにぶら下げられた裸電球の灯りが様々のデザインの絵馬を玲子に見せる。
オーソドックスな家形の絵馬、干支が描かれた絵馬、願望成就を願ってかだるまの描かれた絵馬。
そしてこれ見よがしに陳列台の中央に置かれたハート型の絵馬。
克己の手を離した玲子の白い手が、色とりどりの絵馬の上で彷徨う様を克己はえも言われない幸福感に浸りながら見ていた。
未だ途絶える事の無い参拝客が次々とテント前に押し寄せて、迷う二人の距離を一層詰める。
結局、ハート型の絵馬の上を右往左往した玲子の指は、隣のだるまの絵が描かれた絵馬を差した。
「かしこまりました」
満面の笑顔で答えた巫女が玲子に伝える。
「筆はあちらにありますので」
笑顔で指差したテーブル端にはサインペンを入れたケースを並べた空間。
既に絵馬を買い求めた参拝者がペンを握って思い思いの願い事を書きこんでいる。
並んでペンを取った克己は何を書こうかと額にペンの尻を充てて考えるが、隣の玲子はペンを取るなり躊躇う事無くペンを走らせた。
思わず覗き込もうとした克己に、玲子は背中を向けて手元を隠す。
口を尖らす克己に玲子は悪戯っぽい笑顔を見せて言う。
「ゆっくり考えてどうぞ」
言うだけ言った玲子は、足早に
克己も大急ぎで願い事を絵馬に描いて玲子を追いかける。
絵馬を掛ける浴衣姿の玲子の、高く結い上げたうなじに踊る後れ毛が美しくて、克己は気後れする。
「掛けたのどれ?」
克己は玲子に問うが。
「見られちゃうと願いが叶わないんですよ。知らないんですか?」
笑顔で怪しい理屈を言う玲子が可愛くて克己はだらしなく頬を緩める。
「成程それは知らなかった。教えてくれてありがとう」
言って克己が、人混みで玲子も思うように動けないのをいいことに玲子の手の届かない距離に裏返しに絵馬を掛けて見せる。
振り返れば玲子がこれでもかと言わんばかりの突き出しようで下唇を突き出している。
むくれる玲子をそのままに。克己は構わず手を引き、人でごった返す絵馬掛け所の前から逃げ出した。
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