第8話 夕立
二コンビニ裏の僅かな敷地の端は境界線代わりの低いブロック塀。
玲子の買い物袋を、立てかけていた自転車のハンドルに引っ掛けた克己はさっさとブロック塀に腰を下ろす。
一瞬躊躇って。玲子は他に取るべき行動も思いつかず克己の隣に腰を下ろした。
「スパッツの件なんだけどさ……」
克己の言葉に玲子は身を竦ませる。
(やっぱりちゃんと断らなくちゃ)
自分の曖昧な返事が先輩に思い違いをさせてしまい、それが原因でしなくてもいいアルバイトを克己に始めさせてしまったのだと後悔の念がある玲子は、申し訳ないと思いながらも二度目の拒絶の言葉を言いあぐねて黙り込んだ。
言葉が見つからず佇む玲子に、克己もそれ以上言葉を続けず視線を周囲に向ける。
何を喋ったらいいか分からず黙っていた玲子の耳に何やらカリカリいう音が聞こえて来る。
思わず音の方に目を向けるとジーンズの表面を爪で掻く克己の姿。
克己の見やる視線の先に目を向けた玲子は、コンビニ裏のコンテナのそばにこちらを見つめる猫の姿を見つける。
「猫……」
咄嗟に口をついて出た玲子の言葉に、克己が玲子を向いて笑顔で答える。
「近所の猫だと思うんだけどさ。よくここに来るんだよ」
笑顔で言いながらジーンズを掻く事を止めない克己の動きに、耳を立てていた猫が立ち上がりそろりそろりと近づいてくる。
猫の可愛さに、思わず抱きしめに行こうと立ちかけた玲子の僅かな動きに克己が反応する。
「まだダメ」
思わず克己の横顔を見つめてしまう玲子に、猫から目を離さず、それでも意識はハッキリ玲子に向けて言葉を繋ぐ克己。
「呼べば来てくれるんだけど。こっちから行くと逃げちゃうんだよ」
言い終えてから礼子に顔を向けて微笑む克己。
「待ってて。ここに呼ぶから」
言うだけ言うと再び猫に視線を戻す克己。
もう猫の方に集中して、さっき自分が言いかけた言葉も忘れているよな克己の横顔に玲子は頬が緩んでしまう。
(このひといつもこんななんだだろうか)玲子は思う。
図書室の前での告白も。
校庭端でのダンスへの誘いも。
知らぬ間のアルバイトも。
何時も唐突で、いきなりで、気が付けば巻き込まれていて。
決して本意ではないはずなのに、気が付けば綻ばされてしまっている。
気付かず見つめてしまっていた克己が身を屈め、玲子の意識を手元に戻す。
「ハイ」
笑顔で差し出された猫を、両手で受け止めた玲子は、意外に大人しい猫の反応に驚くより、不可抗力で触れた克己の肌の熱さにどぎまぎしていた。
人の為に勢いを控え始めた訳でも無いのだろうが、西日が背中に心地よくて、玲子は時間を忘れる。
柔かな朱の日差しに、手の中の優しい温もり。
(こういう時間をなんというんだっけ?)
思い出せないが確かこういう情景を表す言葉があった筈。
猫の毛の感触に癒されながら玲子はようやく克己に向けて言葉を紡ぐ。
「先輩。ごめんなさい。あたしやっぱり踊れません……」
一瞬克己の首が竦められたようにも見えた玲子に、克己は意外な反応を返した。
「振られるの二度目だな」
言いながら、その表情は清々しい笑顔。
顔半分に西日を浴びた克己の笑顔に、玲子は申し訳なさよりも驚きを隠せない。
(又だ。又この人はめげない……)
(言いやすくなった!)
玲子の言葉に、克己は不謹慎だが胸の内で快哉を叫んでいた。
クラスメートの思わぬ発言に。散々考え抜いたダンスを通じて仲良くなろうと目論んだ計画を。
玲子の浴衣姿に目が眩んで。とは言っても所詮克己の妄想の中だけの姿だが。
スパッツ購入の夢をあっさり放り投げて浴衣に切り替えようと言う滅茶苦茶な提案。
ハナから乗り気を見せていない玲子に言おうものならどんな反応を返されるか気が気でなかったのだ。
「当然だよな。いや俺も小笠原の気持ちも考えず一方的過ぎたと反省してたんだ」
ここぞとばかりに思いついたばかりの言い訳をそれらしく並べ立てる。
バイト終わりに玲子が尋ねて来ることも。
手渡されたチョコミントも。
不意に現れた猫というキューピッドも。
まるで無計画な克己を見かねた神様が手助けしてくれているかのようなお膳立て。
(俺は神様に愛されていたのか!)
男子高校生の妄想は遠慮すると言う事を知らない。
ついでに言えば、父親に頼まれて、店員に書類を届けに来た杏が遠くから見ていたことも知らない。
コンビニの裏手の事務所入り口から入るつもりで、裏手の敷地の端から来た杏の視線は、ブロック塀に並んで仲睦まじそうな二人の姿をしっかり捉えていた。
(好きな子なんか居ないって言っといて……)
杏は何故だか身を隠してしまい。大回りして店の正面に向かう。
(バイト終わればどこで何しようが自由だよそりゃ)
何故かあらぬ方に視線を向けてうそぶく。
(でも、デートするんなら喫茶店ぐらい連れてってあげなさいよ!)
人の事だし。人のデート。
それなのになぜか苛立つ自分に杏は自分で呆れる。
(書類届けたらさっさと帰ろ)
どこで感じているのかわからずも、ヒリヒリする感覚に杏は腹を立てていた。
表から入って来た杏に店員が驚いた表情を見せるが余計な事は言わない。
そそくさと奥のドアを開け事務室に入った杏はモニターを覗いていた事務員に預かって来たバインダーを差し出す。
「あ、ありがとうございます」
店側から現れた杏に、僅かに首を傾げて礼を言う事務員。
「変わった事は無い?」
何時もは店に来ても事務室になぞ碌に顔を見せない杏の態度に、事務員は改まって答える。
「トラブルは何も起きてませんが」
「そう……何も……」
生返事を返した杏の視線は何故か裏口のドアを見ている。
「何か心配な事でも……」
杏の様子に事務員が気を遣って問いかけるが。
「ううん、何でもないの……そう、何でもないの」
硬い微笑みを浮かべて杏は店内へ向かうドアを開けた。
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