第229話 懇願

「奏介! しつこいぞ!!」


カズさんとの試合から1か月経ち、ジムの中に英雄さんの怒鳴り声が響き渡り、周囲は緊張したように背筋を伸ばす。


「お願いしますって! マジで!」


「ダメだ! お前はカズに負けたろ!! カズに勝たなきゃだめだ!!」


「だって、一昨日は了承したじゃないっすか!!」


「あれは… 血迷ったんだ!」


「はぁ?」


「とにかくカズに勝つまでダメだ!!」


『血迷ったって… どうせなら血迷ったままでいてくれよ…』


カズさんとの試合を目前にした頃、いきなり英雄さんは思い立ったように『中田家の男を、全員負かなさきゃダメだ』と言い出してから、ずっとこの調子だ。


千歳は『放っておけば?』としか言わないし、お母さんも呆れたようにしてるし、たまたま実家に遊びに来たヨシ君に至っては『ざまぁ~』としか言わない。



以前、カズさんの部屋にあった酒を、二人で勝手に飲んだ時は『早く籍入れろ』と言ってたし、一昨日、一緒に飲んだ時も籍を入れるよう促してきた。


こっちはそのつもりで準備を整え、あとは証人欄に英雄さんの名前を書いてもらうだけ。


どうしても、憧れの英雄さんに書いてほしくて頼み込んでいるのに、英雄さんは酒が抜けると『ダメだ』の一点張り。



「次! 次の試合で絶対に勝つから!!」


「奏介、おまえなぁ… そう言うことは勝ってから言えっつってんだよ!!」


英雄さんは怒鳴りつけた後、逃げるように事務所へ行ってしまった。


すかさず、英雄さんを追いかけ、事務所に行くと、千歳が吉野さんと話していた。


「んじゃ吉野さん、キックミットとハンドミットでOKですね?」


「うん。 3つずつでよろしくね。 あ、あとバンテージも10追加で」


「了解っす~。 ミットは再来週くらいになるかな… バンテージは在庫があったから、明日届けに来ますよ。 時間は~…」


千歳がそう言いながら手帳を開けると、ソファに座っていた英雄さんが切り出してきた。


「奏介、見てみろ。 ちーはバリバリのキャリアウーマンになってんだぞ? 結婚なんて仕事の邪魔だろ? 諦めろ」


「邪魔って…」


そう言いかけると、千歳が呆れたように切り出してきた。


「は? 何? 今度は反対してんの?」


「カズさんに勝たなきゃダメだってさ」


「一昨日は『さっさと籍入れろ』って急かしてきたのに?」


「あれは血迷ったんだっつってんの! 酔っぱらいの言うことなんて、間に受けんじゃねぇ!!」


自分で自分のことを『酔っぱらい』と言い切る英雄さんにため息をつき、英雄さんの正面に座り込んだ。


「お願いしますって! 証人欄に名前を書いてくれるだけでいいんですから!」


「ダメだ! カズに勝たなきゃちーはやらん!!」


英雄さんがはっきり言い切ると、千歳が呆れたように切り出してくる。


「どうせ、奏介がカズ兄に勝ったら、『おじいちゃんに勝ったら~~』って始まるんでしょ? せっかく奏介が『義理の息子になってくれる』って言ってるのに、それを無下にするのはどうかと思うよ? あ、そっか。 孫がいらないから反対してるのか!」


「そ、そんなこと言ってねぇだろ!!」


「だってそういうことでしょ!? もし、先に子供ができたら、孫は抱かせないから。 大好きな義理の息子と、どうでもいい実の娘と、かわいい孫を同時に手放すことになるけどいいんだね?」


「ま、孫にはじいちゃんが必要だろ!?」


「奏介のお父さんいるし。 一人いれば十分でしょ」


千歳は涼しい顔をしながら吉野さんと仕事の話を進め、事務所を後にしていた。


慌てて千歳の後を追いかけ、千歳に切り出した。


「言いすぎじゃね?」


「あれくらいガツンと言わなきゃダメなんだって」


「けどさぁ… ちゃんと了承してほしいし…」


「酔った隙に書かせちゃえば?」


「そんなの卑怯じゃん。 それじゃ嫌なんだって」


「んじゃカズ兄に勝つしかないね。 あ、カズ兄と桜ちゃん、同棲始めたらしいよ。 カズ兄も店辞めて、ボクシング1本だって。 年齢制限まであと2年だし、ますます強くなるぞ。 んじゃ後でね」


千歳は涼しい顔をしながらそう言い切り、ジムを後にしていた。



事務所に戻ると、英雄さんの姿はなく、ジムに戻ると、英雄さんは腕を組んでサンドバックを殴る凌を見ているだけ。


『話し合いのボイコットだ…』


そんな風に思いながら、千歳の開発した新しいバンテージを手に巻いていた。

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