第226話 鈍感

来る日も来る日も、仕事後にはトレーニングに明け暮れ、休みの日には1日中ジムにこもりっきり。


時々、試合に出ては勝利を飾っていたんだけど、奏介とヨシの試合を見た時のような興奮や、熱さは感じずにいた。


『やっぱり、あいつじゃないとダメか…』


試合後には、そんな風に思いながら帰宅していた。



ある日のこと。


ジムでサンドバックを殴っていると、東帝現オーナーである柴田さんが切り出してきた。


「中田ジムの菊沢奏介、初防衛成功だってよ。 さっき試合が終わったって」


柴田さんの言葉を聞き、思わず笑いが込み上げてきた。


「あいつはまだまだ強くなりますよ。 潜在能力を引き出すきっかけを作りましたしね」


「潜在能力?」


「婚約したらしいっす」


「そうなのか! 守るべきものがあるんじゃ、そりゃ強くなるな! その相手って知り合いだったりするか?」


「千歳っす」


「ええ!? ちーちゃん!? ちーちゃんって、まだ10代だろ?」


「10コ下だから23? ん? 24になったのかな?」


「へぇ! あのちーちゃんが婚約か! 小さい体で駆け足飛びをしてたと思ったら、もうそんなになるのか!!」


『さすが、10年以上前に同じジムに通ってたってだけあって、話が早くて楽だな…』


そんな風に思いながら、柴田さんと話し続けていた。



奏介の初防衛戦から数か月後。


世界ランクに俺の名前が載ると同時に、柴田さんに呼び出され、事務所に行くと、柴田さんが切り出してきた。


「菊沢奏介が世界戦に指名してきたぞ」


「え? ついさっき更新されたんすよね?」


「ああ。 更新すると同時に、協会に連絡をしたらしい。 パソコンの前で待ってたんじゃないのか? それくらい早かったらしいぞ?」


『流石三男。 話が早くて助かる』


そんな風に思いながら、柴田さんと話し続けていた。



試合まであと1か月を切ったころ。


ジムでのトレーニングを終えた後、バイクでマンションに戻り、その足でロードワークへ。


土手沿いを少し走った後、マンションの近くにある公園に行き、駆け足飛びを開始していた。


オーバーワークになるギリギリのラインで手を止め、呼吸を整えていると、誰かの足が近づき、おでこにピタッと冷たい何かが当たる。


ふと顔を上げると、桜がそっぽを向きながら、俺の前に水を差しだしていた。


「サンキュ」


「今日、英雄さんが奏介に『中田家の男3人を倒してからじゃないと、入籍させない』って言ってた。 すぐリングに上がって、奏介にボコられてたけど…」


「いい年して何してんだよ…」


「奏介、『後はカズさんだけだ』って言ってたよ。 試合に勝ったら、すぐ入籍するって」


「そうか。 全力で阻止しに行くか…」


「…シスコン」


「違ぇわ。 桜、試合終わったら飲みに行こうぜ」


「多分無理だね」


「なんで?」


「ヨシ君と奏介の試合、覚えてないの? 二人とも、顔が変形するくらい殴り合ってたんだよ? もし勝てたとしても、痛くて飲めないね」


「そういやそうか… まぁ、試合終わったら付き合えよ」


桜は急に固まり、呼吸すらも止めてしまう。


「桜?」


不思議に思いながら桜を見ていると、桜はいきなり抱き着いてきた。


何が起きたのかもわからず、呆然としていると、桜が小声で呟くように告げてきた。


「…遅いぞ。 バカ」


「は? 何が?」


「何って… 『試合終わったら付き合え』って、今言ったじゃん」


「ああ。 試合終わったら飯行こう。 どこがいいか考えといて」


桜は顔を真っ赤にし、小刻みに震え始める。


「どうした?」


「カズ兄のバカ!! 奏介に殺されちまえ!!」


「は? 何キレてんの?」


「うっさい! この鈍感!!」


桜は顔を真っ赤にしたまま走り去ってしまい、なぜか置いて行かれた思いでいっぱいになっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る