第216話 尊敬

「…実はさ、東条のTシャツを作ってる会社の人に『付き合ってくれ』って言われてるんだよね」


千歳の言葉に驚きを隠せず、血の気が引き、頭の中が真っ白になっていくのを感じていた。


「…どんな奴?」


頭の中が真っ白になりながらも、必死に言葉を絞り出すと、千歳は缶チューハイをテーブルに置き、膝を抱えながら答えた。


「普通の人。 ごくごく普通のサラリーマン。 1個上って言ってたかな?」


「で? そいつと付き合ってんの?」


「『今度の世界戦でチャンピオンになる人が彼氏だ』ってはっきり言ったよ。 それがきっかけでヨシ兄がブチ切れたけど」


「ヨシ君が?」


「ほら、チャンピオンになったのってヨシ兄じゃん? 『親近相関』だのなんだのって大騒ぎしてたのよ。 それが秀人さんとヨシ兄の耳に入って、ブチ切れて契約解除。 うちに『Tシャツ作れ』って言ってきて、大慌てでTシャツを作り始めてるんだ」


「ブチ切れた結果、毎日残業して連絡が取れなかったと…」


「そそ。 今日は早く帰れた方だよ。 給料が増えるのは嬉しいし、毎日差し入れでお弁当をくれるから良いんだけど、ほとんど休みもないし、連日、深夜に帰るのはちょっとねぇ… どっかの誰かさんたちが、揃いも揃ってうちのシューズを履いてあんな試合しちゃったら、そりゃ注文が殺到するっしょ。 負けたけど」


「俺、あの試合、ほとんど覚えてないんだよね。 8ラウンド超えたあたりから、『頼むから立たないでくれ』って考えてた。 10ラウンド超えたあたりからは『ビール飲みてぇ』って思ってたなぁ… 『俺奢るから、もう立つのやめようよ』って本気で思ったりもしたよ」


「そんな気がした。 前回の試合の最後のクロスカウンター、めちゃめちゃびっくりしたし、最高にかっこよかったよ。 負けたけど」


「負けた負けた言うな」


「だって本当の事じゃん」


千歳は俺の顔を見ながら、あの頃と同じ笑顔で言いきる。


その顔を見ただけで、なぜか昔の千歳の姿と、『完敗』の文字が頭を過り、思わず笑ってしまった。


「何笑ってんの?」


「ん? 千歳にはどうあがいても勝てないんだなってさ」


「そんなことないっしょ」


「いや、千歳には初めて会った時から負けてたんだよ。 千歳、ジムの片隅で駆け足飛びしたり、ファイティングポーズ取ったりしてて、毎日それを見に行ってたんだけど、あの頃から追いかけたくて、追いつきたくて仕方なかったんだ。 どんなに近づいても取り残されてるような気がしたのは、憧れてたんじゃなくて、尊敬してたんだよ。 端っから俺の完敗。 そりゃ、どんなに話しかけても̪シカトされるよな」


「高校の時?」


「いや、小学校。 毎日『駆け足飛び教えて』って話しかけてたけど、ずっと̪シカトされてた」


「え? あれって奏介だったの!?」


千歳は大きく目を見開き、驚いたような顔をしている。


「ああ。 そうだよ。 あの時の男の子が俺。 言ってなかったっけ?」


千歳は『信じられない』と言わんばかりの表情をし続け、俺の顔をじっと見てくるだけ。


「覚えてる?」


「うん… その子の顔もはっきりとは思い出せないんだけど、毎日しつこく『駆け足飛び教えて』って言ってきた子が、毎日ジムを覗きに来てたのは覚えてる」


「それ俺。 つっても証拠なんかないけどな」


はっきりとそう言い切ると、千歳はクスッと笑い切り出した。


「『おい!』って怒鳴られたでしょ? あれカズ兄が言ったんだよ」


「マジで!? あれってカズさんだったん?」


「うん。 しかも、奏介が乗ってたあの自転車、父さんが買ったばっかりだったんだよ。 スポークが曲がっちゃってたんだけど、『あいつが世界チャンプになったら弁償させる』って言ってた。 修理代がかなり高かったような気がするなぁ… 忘れてると思うけど、チクって良い?」


「ダメ。 絶対言うな」


はっきりとそう言い切った後、千歳は小さく笑いながら切り出した。


「じゃあ… 指輪買いに行こ。 そしたら黙ってる」


「…絶対行こう」


そう言いながら唇を重ね、強く抱きしめ合っていた。



久しぶりに抱きしめた千歳の体は、昔よりも体脂肪が増えたのか、抱きしめた体温で溶けてしまいそうなほど柔らかく、同一人物とは思えない。


けど、唇の柔らかさは昔と変わらず、俺の思考や理性を瞬時に溶かし、幸せな気持ちに包まれ続けていた。

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