第201話 ニアミス

カズさんと飲んだ翌朝。


朝日の上る前の時間に合わせて起床し、ストレッチをした後に一人でロードワークへ。


朝日を眺めながら走っていると、いろいろな記憶が走馬灯のように蘇ってくる。


『2年ってあっという間だと思ったけど、長い時間だったんだな…』


朝日が水面に反射し、光の粒を放ちながら、朝日の中に溶け込んでいく光景を、横目で眺めながら走り続けていた。


光の粒を追いかけるように走っていると、目の前を走る女性ランナーの姿が視界に飛び込んだんだけど、その後姿が千歳と被って見えた。


思わずスピードを上げ、その人の肩をつかむと、その人は驚いたように足を止め、慌てたように振り返った。


けど、その女性は、まつげが長く、少し垂れ目で、千歳とは正反対の顔立ちをしていた。


「す… すいません… 間違えました…」


息を切らせながら告げると、その人が切り出してきた。


「…中田ジムの菊沢奏介さんですよね?」


「え?」


「あ、すいません。 元東条ジムの綾瀬梨花です。 千歳ちゃんと決勝で対戦した…」


「ああ!! あの時の!!」


「そうです! 戻られてたんですね」


「ち、千歳って… 元気っすか?」


「え? お会いになってないんですか?」


「会ってないですけど… なんで?」


「昨日、『新作のミットを売りに行ってくる』って、外出したんですよ。 ヨシ君が『親父のところか?』って聞いたら、無視して行っちゃったんですけど、違うんですか?」


「…俺、昨日帰国したばっかで、寝てたから知らないのかも」


「そうだったんですね。 あ! すいません。 トレーニング中に足止めしちゃって」


「いえ、千歳に『落ち着いたら連絡くれ』って伝えてもらえますか?」


「きっと喜びますよ」


梨花ちゃんはそう言った後、勢いよく走りだしてしまい、それ以上のことは言えず。



急いでジムに戻り、置かれているミットを見てみると、真新しいミットはなく、少しがっかりしていた。


『ここじゃないんだ…』


そう思いながら筋トレをはじめていたんだけど、少しすると吉野さんがジムに現れ、真新しいミットを棚に置き始める。


「吉野さん! それってどうしたんすか?」


「ああ、ちーちゃんが『試してみてくれ』って置いていったんだよ。 英雄さんには内緒な」


「会ったんですか!?」


「うちの奥さんがな。 自宅に直接来て置いて行ったんだって。 ちょっと試してみないか?」


吉野さんに切り出され、急いでバンテージと練習用グローブを手にはめ、ミット打ちを開始。


吉野さんは嬉しそうに俺のパンチを受け止め続けていた。



午後のトレーニングの際、英雄さんは新しいミットを手にはめ、トレーニングをしていたんだけど、ミットが新しくなったことに気が付かないのか、何も言わず、黙々とミット打ちばかりを受けていた。


凌のミット打ちを終えると、英雄さんは不思議そうにミットを眺め始め、なかなか俺のパンチを受けようとしない。


すると、英雄さんは思い立ったように切り出した。


「吉野、ミット変えたのか?」


「昨日業者が来て、サンプル置いて行ったんですよ。 どっかのメーカーの新作だって言ってたかな?」


「来客なんてあったか?」


「英雄さんが飯行ってるときに来たんですよ。 それ、どうっすか?」


「全然蒸れなくていいな。 これいくらだ?」


「さぁ? これだけ置いて行ったんすよね」


「変な営業。 予算範囲内だったら、全部買い替えるか」


「流石。 きっとち…」


「ち?」


「近いうちに来ると思うんで、金額聞いておきます」


「おう。 そうしてくれ」


英雄さんは何事もなかったかのように指導を開始し、吉野さんはホッとしたような表情を浮かべていた。


『めっちゃ反応早かったんすけど… つーか、吉野さんも言っちゃダメなん? 恐ろしい…』


そう思いながら英雄さんの構えるミットを殴り始めたんだけど、適度な厚みとカーブがあるせいか、かなり殴りやすく、高音のいい音が響き渡っていた。


ミット打ちを終えた後、思わず笑みがこぼれてしまった。


「このミット、マジで良いっすね。 殴りやすいっす」


「俺も受けやすいんだよ。 計算されつくされてんのかな?」


「長年の経験を生かしてるんじゃないっすかね?」


「知ってるのか?」


「いや、あの… 経験者にアドバイスもらって開発したんじゃないかなって! そうじゃないと、この絶妙なカーブは作れないっすよ!」


「そういう事か。 誰のアドバイスもらったんだろなぁ…」


英雄さんはブツブツ言いながらリングを降りてしまい、ホッと胸をなでおろしていた。

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