第106話 酔っ払い
数時間後。
奏介はゆっくりと左右に揺れ始め、目が溶けたようにトローンとしてきていた。
「寝るか?」
「大丈夫っす」
『大丈夫』と言っている割には、左右の揺れは止まらないまま。
そんな奏介の姿を見て、ヨシは笑い転げるばかりだった。
「んで? なんでボクシング始めたん?」
ヨシが笑いながら奏介に聞くと、奏介は眠そうな声で答えていた。
「英雄さんに憧れてるんですよ。 小さいとき、ボクシング好きな親父と、英雄さんの試合を見に行ったんです。 世界チャンプになった時の試合っす」
「あの試合はかなり熱かったもんなぁ… って事は、世界チャンプ目指してる系?」
「はい! 世界チャンプになります!!」
「なんで?」
「前に、ヨシ君がベルト持って帰ってきたじゃないっすか。 その時、千歳がベルトをジーと見てたんで、本物のベルトを手に取って見せてやりたいんす!」
はっきりと言い切る奏介に、素朴な疑問が浮かび、さりげなく聞いてみた。
「付き合ってんの?」
「いえ… まだ… だけど! 俺は千歳が大好きなんです!! あんなにかっこ良い女、他にいないっすよ!!」
「いっぱいいると思う」
ヨシの言葉を聞き、奏介は急に落ち込んでしまい、俯いてしまった。
「泣いた?」
「泣いてないっす! ヨシ君にはわかんないっすよ。 毎日会ってるし、千歳のカッコ良さに見慣れてて… わかんないんですよ… あいつの左ハイキック受けたとき、マジで痺れたんですよ…」
「…お前、何したの?」
呆然としながら聞いたんだけど、奏介は口を閉ざしてしまい、それ以上話そうとはしなかった。
そんな様子を見て、ヨシが切り出す。
「さっさと告っちまえば?」
「告りましたよ! けど、俺が何を言っても、冗談としか受け取ってもらえなくて… もっと強くなって、あいつよりも強くならなきゃ、本気で受け取ってもらえないんす!」
「強くって何基準?」
「わかんないっす。 けど、あいつを超えないと、本気だって事が伝わらないと思うんで、もっともっとトレーニングしまくって、強くなりたいんす。 それくらい本気だから…」
そう呟く奏介の表情は、暗く落ち込んでいたんだけど、目の奥にはキラキラと光るものが見え隠れしていた。
『千歳よりも強くか。 ハードル高ぇなぁ…』
そう思いながらハイボールを飲んでいると、奏介はいきなり俺の顔をじっと見て切り出した。
「桜さんとはどうなってるんすか?」
「は? 俺?」
「はい。 いつも思ってたんですよ。 桜さん、カズさんが見に来ると気合入ってるし、付き合ってるのかなぁって」
「まさか…」
「じゃあ桜さんの片思いっすか?」
「それはねぇだろ? あいつとはもう10年以上顔合わせてるけど、そんな素振り見せたことないし、他に男がいたんじゃねぇのかな?」
俺の言葉を聞き、ヨシが口をはさんだ。
「別れたらしいよ? 喧嘩して1撃KOだって。 桜ちゃん、相当強いし、ライセンス取ればいいのになぁ」
ヨシが言い切る前に、奏介は机に突っ伏してしまい、動こうとはしなかった。
「あ、寝た。 世界チャンプねぇ… ってことは、俺と対戦することがあるかもな」
ヨシはそう言いながら、奏介を横にし始める。
「は? 世界チャンプ狙ってんの?」
「当然。 世界戦で奏介が対戦相手だったら、かなり盛り上がるんじゃねぇかな? 奏介とのスパー、めちゃめちゃ楽しいよ。 どんなに打ち込んでも立ち上がるし、粗削りだけど、現役時代の親父をよく研究してるのがわかるよ。 今度、兄貴もやってみれば?」
「気が向いたらな」
ため息交じりにそう言い切り、酔って寝息を立てている奏介を眺めながら、ベッドで横になっていた。
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