第92話 表現
英雄さんと千歳が交代し、英雄さん相手にミット打ちをしていたんだけど、英雄さんは、普段ミットを受けている智也君やヨシ君以上に厳しく、普通に倒されまくっていた。
容赦なく殴られ、倒されまくっていたんだけど、英雄さんと打ち合えることが楽しく、痛みすらも吹き飛ばすほど嬉しかった。
3分5ラウンドのミット打ちを終えると、起き上がることさえ出来ないほど、全身が痛んでいたんだけど、痛みよりも清々しさと喜びが勝っていた。
「ちー鍵頼む」
英雄さんはそう切り出し、当たり前のようにみんなを連れてジムを後に。
リングの上で大の字になったまま、呼吸を整えていると、千歳がしゃがみながら俺の前で手を振り、切り出してきた。
「生きてる?」
「3回死んだ」
「3回で済めば上出来」
千歳はそう言いながら、俺の腕を引っ張り、座らせる。
「合宿以来、ミット打ちして貰えなかったし、マジ嬉しすぎるんだけど…」
一人幸せを噛み締めるように呟くと、千歳は微笑みながら切り出してきた。
「悔しいの消えた?」
「ああ。 マジ最高の気分」
「本当に父さんに憧れてるんだね。 どこがいいんだか」
千歳は笑顔でそう言いながら立ち上がり、リングを降りてベンチに座ると、すぐにミットの手入れをし始める。
千歳を追いかけるようにリングを降り、千歳の隣に座って、グローブの紐を口でほどいた。
「明日、駅に10時で良い?」
「あ、明日だったっけ? つーか動けるの?」
「死んでも動くよ。 初デートじゃん」
はっきりとそう言い切ると、千歳は少し顔を赤らめたまま、黙って手を動かし、すぐ隣でグローブの手入れを始めていた。
『さっきの返事、聞きたい。 好きだって言った返事、聞かせてもらってない』
言葉に出すことができず、シーンと静まり返ったジムの中、黙々と手入れをし、後片付けを終えていた。
片づけを終えた後、千歳の前に立ったんだけど、言葉に詰まってしまう。
「…何?」
千歳は不思議そうな表情で俺を見てくるだけ。
『俺のこと、どう思ってる?』
はっきりとそう聞きたいんだけど、聞き出すことができず、「明日、遅れるなよ」とだけ言い、勢いよくジムを飛び出していた。
なんで聞けないんだろ?
なんで肝心なことが聞けないんだろ?
好きだって気持ちを伝えたのに、なんで答えを聞けないんだろ?
自宅に向かって走りながら、自分自身に問いかけ続けていた。
帰宅後、頭に浮かんだ疑問を流すように、シャワーを浴びていると、千歳の言っていた言葉が頭をよぎる。
負けて悔しいときはミットにぶつけろ。 そうすればもっと強くなる。
涙の代わりに汗を流せ。
乗り物は甘えだから走れ。
言葉で伝わらなかったら、体で表現しろ。
『表現力が足りないから、千歳に伝わってなかったのかな? 本気だって伝わってないから、冗談って受け止められたのかな… 負けたから、冗談って受け止められたのかも… つーか、英雄さんの許可取らないと電車乗れねぇんじゃん。 あの店、徒歩じゃいけないし、後で電話しないと…』
シャワーを浴びながら考え続け、『冗談』として受け止められてしまったことに、大きくため息をついていた。
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