第90話 冗談

悔しさをぶつけるように千歳を抱きしめ、千歳は力なく腕を垂らし、抱きしめられたままでいた。


「…ごめん。 こういう時、なんて声掛けたらいいかわかんない…」


千歳は小さな声で呟くように切り出してくる。


「…抱きしめ返してよ。 何も言わなくていいからさ」


千歳を抱きしめたままそう告げると、千歳はゆっくりと俺の背中に手をまわしてくる。


しばらく抱き合っていると、突然ドアが開き、春香が当たり前のように家の中に入ろうとし、千歳を見て固まっていた。


「もう二度と来るなって言ったよな?」


はっきりとそう告げると、春香は当たり前のように切り出してくる。


「負けて悔しいんでしょ? 達樹君に負けるたびに、悔しいって言ってたもんね」


「負けて悔しくないボクサーなんていねぇよ」


「慰めてあげるから、その子追い出してくれない?」


春香は最初から負けは決まっていたような口調で、そう言いながら千歳を指さし、千歳は俺の背中から腕を離した。


慌てて千歳を抱き寄せ「お前が出てけ」とはっきり言うと、千歳は驚いた表情で俺を見上げてくる。


「ロードワーク中なんだけど…」


「慰めてよ。 千歳に慰めてほしい」


はっきりとそう言い切ると、千歳は固まってしまい、顔を真っ赤にし始める。


『めちゃめちゃかわいい…』


自然と体が動き、千歳のおでこに唇を落とすと、春香が声を荒げた。


「そ、その子は偽物でしょ!!」


「お前さ、まだそんなこと言うの? いい加減にしろよ」


「だって千尋じゃないじゃない!!」


「だからぁ! 千尋っていうのは俺の間違いだったんだよ!! 本物は千歳!! 今まで何聞いてたんだよ!」


はっきりとそう言い切ると、千歳は俺の腕からすり抜け、靴を履き始める。


「帰るのか?」


「うん。 『負けて悔しいときはミットにぶつけろ。 そうすればもっと強くなる』ってのが、奏介が憧れてる中田英雄の教え。 本物の子供じゃないと知らないことだけど、そのおかげで、ヨシ兄はベルト取ったし、口先だけの冗談ではないよ。 腐った偽物に慰めて貰うよりはマシでしょ」


千歳は春香を睨みながらそう言い切り、春香は完全に怯え始める。


「俺も行く」


そういった後、急いで支度をし、玄関に向かっていた。


「あんたは私になれない」


千歳は春香を見ながらはっきりと言い切ると、春香は目を潤ませ、次々に涙をこぼし始めた。


「また泣いてるし…」


うんざりしながら呟くように言うと、千歳が切り出してきた。


「『涙の代わりに汗を流せ』っていうのも中田英雄の教えだよ。 涙を流した分だけパンチが飛んでくるのが中田英雄だけどね」


「他にはなんかある?」


「『乗り物は甘えだから走れ』 『言葉で伝わらなかったら、体で表現しろ』 あとは忘れた」


そう言いながら笑いかける千歳の表情は、まぶしいくらいにキラキラと輝いて見え、好きな気持ちが一気に膨れ上がった。


膨れ上がった気持ちを抑えきれず、千歳の腕を引っ張り、強く抱きしめた。


「伝わる? 千歳を愛してるって」


「…冗談でしょ?」


「マジ。 小さいとき、ずっと見てた」


はっきりとそう言い切った瞬間、千歳の背後に立っていた春香が勢いよく振りかぶり、慌てて千歳を奥の部屋に放り投げた。


『バシーン』という音の後、ガードした左腕がジンジンと痛む。


「な、なんで庇うの!?」


春香は涙をこぼしながら怒鳴りつけ、千歳を抱き起しながら言い切った。


「千歳が好きだから、何があっても守る」


「放り投げたくせに…」


千歳は小声でそう言った後に立ち上がり、春香を睨みながら歩いていた。


「邪魔」


はっきりとそう言い切る千歳に、春香は怯え、道を開けることしかできなかったんだけど、その殺気に俺までもが怯えそうになってしまう。


『キレてる… やべぇ怖いんすけど… この殺気、冗談だよな? あの時のカズさんと同じだ…』


なんてことは言えないまま、荷物を持って立ち上がり、玄関を出た途端、千歳は勢いよく走りだしてしまった。


鍵を閉めている間、引き留めようとしてくる春香を振り払い、千歳を追いかけ走り続けていた。

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