第89話 悔しい
みんなと更衣室に行き、黙ったまま着替えていると、更衣室のドアが開き、ヨシ君が松坂を連れてきた。
松坂は完全に怯えた目で俺を見ていたんだけど、ヨシ君は苛立ったように切り出してきた。
「なんであの女を奏介に紹介した?」
「あ、あの…」
「なんで? 俺、妹を使われてめっちゃムカついてんだけど」
ヨシ君がそう言い切ると、智也君が松坂に近づき切り出した。
「は? 何その話。 お前、そんなくだらないことしたの?」
「ち、違うんです! 奏介が広瀬の見学に来た時、春香が一目惚れしたんです! 『どうしても紹介してくれ』って言われて… けど、奏介は英雄のことしか頭になかったんで… 話聞いたら、『英雄の娘の千尋を探してる』って言ってたから、従妹って嘘ついて、紹介しました!」
「見返りになんか貰ったんだろ? 何貰ったん?」
「……女です」
「はぁ? 女? ってお前、春香とやったん?」
「違います! あいつの元家庭教師の女を紹介してもらいました! けど、イメージと違うっていうか、俺、全然相手にされなくて…」
智也君は呆れたようにため息をつき、松坂を追い出そうとし、松坂は扉を開けた途端に足を止め、俺に切り出してきた。
「また負けた」
思わず殴りかかろうとすると、松坂は慌てて逃げ出し、ヨシ君が「相手にするな!」と切り出してくる。
「何でですか!?」
「負け犬の遠吠え。 さっさと行こうぜ。 ちーが待ってる」
ヨシ君に切り出され、みんなで千歳たちの待つ駐車場に向かったんだけど、頭の中には松坂の言っていた言葉が繰り返される。
ちょっと考えればおかしいことだってわかるはずだったのに、名前を聞いた途端、冷静さを失っていたことや、裏であいつらが繋がっていたこと。
いとも簡単に騙され、それを信じ切っていたことを思い出すと、悔しさだけではなく、虚しさや後悔までもが押し寄せてくる。
中田ジムに戻った後、英雄さんに「奏介、トレーニングしていくか?」と聞かれたけど、謝罪だけし、その場を後にしていた。
『千歳の言う通り、行かなきゃよかった…』
そう思いながら歩き続け、アパートの中に入っていた。
アパートに入り、軽くシャワーを浴びても、悔しさと虚しさは消えないまま。
ペットボトルの水を飲み、床で横になりながらぼーっとしていた。
『そっか… 負けたから告れないんだ。 千歳と付き合えないんだ…』
そう思うと、虚しさと悔しさは膨れ上がり、無性に千歳の顔が見たくなってしまう。
けど、会う資格さえないような気がして、ボーっと天井を眺めていた。
しばらくボーっとしていると、インターホンが鳴り響き、ため息をつきながらドアを開けると、トレーニングウェアに身を包み、暗い表情をした千歳が立っていた。
「忘れ物。 父さんが届けてこいって」
千歳はそう言いながら、バンテージを手渡してきた。
「え? これ俺のじゃないよ?」
「…そっか」
「とりあえず入って」
そう言いながらドアを大きく開けたんだけど、千歳は躊躇しているのか、なかなか入ろうとはせず。
強引に腕を引っ張り、家の中に入れると、千歳は不思議そうな声を上げた。
「一人暮らし?」
「そそ。 親父は海外出張ばっかりだからほとんど帰ってこないし、母親は小学生になると同時に、男作って出て行ったきり。 知らなかった?」
「うん… 何も聞いてないよ?」
キョトーンとした表情のまま、俺を見上げてくる千歳が愛おしすぎて、思わず千歳を抱きしめた。
「ちょ!」
「少しだけ… 少しだけこのままでいて…」
囁くようにそう告げると、千歳は嫌がることも、抵抗することもなく、力なく腕を垂らし、俺に抱きしめられ、悔しさを癒すように、千歳のことを抱きしめ続けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます