第73話 会話
来る日も来る日も、紙を参考にして、部活の時間にトレーニングをしていたんだけど、時間内に終わらせることができずにいた。
そのため、トレーニングの順番を変更し、ミット打ちをみんなのいる時間帯にやっていたんだけど、試合の近いヨシ君が、俺を名指し指名し、毎日のようにスパーリングをするように。
部員のみんなが帰った後、一人でもできるトレーニングをこなしていたため、一人でジムにいる時間が多くなったんだけど、英雄さんはそれを見て、鍵を預けてくれるように。
預けるといっても、ずっと持っているわけではなく、トレーニングが終わった後、自宅に届ける日々を過ごしていた。
相変わらず、千歳は陸上部の練習に参加しているせいで、顔を合わせることが少なかったんだけど、ジムの鍵を閉める際、部屋の電気がついているかどうかを、確認するようになっていた。
ある日の事。
みんなが帰った後、一人でタイマーをセットし、サンドバックを殴っていた。
タイマーの音が鳴り響いたと思ったら、音は鳴りやみ、肩で息をしながら振り返ると、千歳がベンチに座っていた。
「あれ? 来てたのか?」
そう言いながらベンチに座り、タオルで顔を拭き始めると、千歳が切り出してきた。
「何ラウンド目?」
「5。 もう終わり」
「練習不足が解消されて強くなったんじゃない?」
千歳はそう言いながらタイマーを所定の位置に戻した後、隣に座っていたんだけど、普通に話せていることが嬉しくて思わず笑みがこぼれてしまう。
「まだまだ。 千歳の足元にも及ばないよ」
「…ねぇ、私がマネージャー始めたとき、毎日イラついてたけど、あれってなんでイラついてたん?」
「ああ… 千歳と千尋が被って見えたから。 つっても、千尋の顔ははっきり覚えてなかったんだけどな。 当時、松坂にあいつを紹介された直後だったし、違うって思ってるんだけど、雰囲気が被って見えたし、練習不足で松坂に負けっぱなしでイライラしてた」
「あいつに紹介されたんだ…」
「そそ。 『中田英雄の娘なら知ってる』って言われて、紹介されたのがあいつ。 今考えればおかしいとこだらけだったんだよなぁ。 『試合中に大怪我したのがトラウマだから、ボクシングの話はしないでくれ』とか『広瀬は女性会員が多いから行くな』とかさ。 あそこ、ボクササイズに力を入れてるから、女性会員が多いんだよ。 バンテージの洗濯を頼んだら、絡まって切り刻まれた事もあったな。 どんどん違和感が大きくなって、あいつの定期を見たのが決定打になった。 『両親が離婚して名字が違う』って言ってたけど、下の名前は変わんねぇだろ?」
「そっすか…」
「本物が見つかったからもういいけどな」
千歳はうつむきながら、申し訳なさそうに言ってきたんだけど、その表情が可愛すぎて、思わず頭をグシャグシャっと撫でた。
「グシャグシャすんな」
千歳はそう言いながら立ち上がり、つられるように千歳の前に立つ。
「1位、おめでとう」
思ったことを素直に言うと、千歳は少し顔を赤らめながらうつむき、視界に入った時計を見ると19時を過ぎたところ。
『千歳、そろそろ寝る時間か』
それ以上声をかけないまま、1階にある更衣室へと向かっていたんだけど、千歳との会話を思い出すと、胸の奥がギュッと締め付けられる。
急いで着替え、鍵を取りに2階に行くと、千歳は鍵を持って待っていた。
「あれ? 鍵、届けるのに」
「来たついでだからいいよ。 汗臭いから早く帰れ」
「んのやろ… 引っ付くぞ」
「いいから早く帰れ」
千歳はそう言いながら鍵を閉め、さっさと階段を下りて行ってしまった。
ほんの小さな会話だったんだけど、普通に話せたことが嬉しくて、軽く浮足立ちながら走り始めていた。
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