02.瓜生聖「今年の新人に元カノの先輩がいるんだが(試し読み版)」)


    一


「おはようございまぁす」

 僕――後久のちひさしゅうはオフィスに入ると、いつもの癖で先花さきはなさんの姿を探した。フリーアドレスを導入したこのオフィスでは共有の席を自由に使うため、個人の固定席がない。

 先花さんは奥の席でノートPCの画面に目を落とし、細い指先でキーを叩いていた。

 切れ長の瞳に黒髪ロングは一見地味そうに見えるけれど、すっと鼻筋の通ったシャープな小顔、ナチュラルメイクの肌は陶磁器のようにつるつるで、その整った顔はめちゃくちゃ美人だ。気合い入れてフルメイクしたら芸能人やモデルと間違えられてもおかしくない。

 僕は、美しい稜線を描く横顔に心を奪われながらも入り口近くの席に荷物を置く。

 ほんとは隣に座りたいけれど、そんなことはできそうにない。

 平凡な僕とは釣り合うはずもない今年入社の新人、先花さきはな永遠とわ


 彼女は僕の元カノだった。


    二


 話は三ヶ月前――六月のころにさかのぼる。


後久のちひさ、お前今週の金曜って空いてるか?」

 締め切りに追われて提案書と格闘している僕に、チャラい茶髪の浜田さんがにやにやと話しかけてきた。

「用件次第ですね」

「合コンのメンツが一人足りないんだけど」

「行きませんよ。浜田さん、三十過ぎて合コンとかなにやってんですか」

「なんだよー、彼女いない歴二十五年のくせに」

「八年ですよ」

 僕の抗議に浜田さんはぷっと吹き出す。

「おま、八年前じゃ高校生じゃねーか。そんなガキの頃の元カノを引きずってるわけでもないだろ?」

 悪かったですね、引きずってて。

「その元カノだってとっくに別のヤツと付き合ってるって。なんなら結婚してるまである」

 そりゃそうかもしれないけど。

 僕はずかずか来る浜田さんを無視してキーを叩く。けれども浜田さんの弁舌は止まらない。

「吹っ切れてないのはお前の方だけだぞ、後久。彼女だってお前には新しい愛を見つけてほしいと思ってるよ」

 その言葉にキーを打つ手が止まる。

 ……そう、なのかな。

 お前のことを忘れてなけりゃな、と浜田さんは付け足して笑う。

「その彼女のためにも、お前は合コンに行って幸せにならなきゃいけないんだ。いつか会ったときに再び笑いあえるように」

「なんかいいこと言ってるふうなのやめてください」

「はい、注目! みんな、手を止めてくれ」

 パンパン、と手を叩きながら課長が声を上げる。僕はモニタに目を落としたまま立ち上がった。

「今日からうちの部署の配属になった、新卒の先花さきはなさんだ」

 その名前にどきりとする。

 それこそが、八年前――僕が高校二年のときに初めて付き合った元カノの名前だったからだ。

 もっとも、その女性は僕より一つ年上だったし、僕はこのウェブコンサルティング会社に就職して三年目になる。今更新卒で入ってくる新人が彼女であるはずはない。

「熊本大学大学院卒、先花さきはな永遠とわです。わからないことばかりですが、一日も早く戦力となれるよう努力しますので、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」

 先花永遠だって?

 僕は思わず顔を上げた。視線の先の「先花」さんは深々とお辞儀をしていて顔が見えない。

 いや――まだ、喜ぶのは早い。同姓同名かもしれないじゃないか。

 永遠先輩は少なくとも一浪しているはずだから、もし大学院に進んでいたら、僕の二年後に新卒として入社するということもあり得なくはない。というか、ぴったり計算が合う。

 だめだ、期待するな。そんなに期待して違ってたらがっかりするだけだ。

 それでも、僕は先花さんがゆっくりと頭を上げるのを、固唾を飲んで見つめていた。

「あ……」

 ぽかんと開けた口から声が漏れた。

 先花さんはあの頃と同じ――いや、あの頃よりも綺麗だった。

 無垢な少女の神秘的な美しさはより澄んだ水のように研ぎ澄まされ、原石は今や磨き抜かれた宝石のように輝きを放っている。

 先花さんはゆっくりと周りを見回し、僕と目が合うと「あっ」というように小さく口を開けた。そして、長い睫毛を伏せるように目を逸らし、目尻をそっと拭うと穏やかに楚々と笑った。

 そうだ、この、先花さん――永遠先輩の笑顔に高二の僕は参ってしまったのだ。

 笑顔が素敵、なんて使い古された陳腐な表現だと思うけれど、彼女の笑顔はそんなありきたりの素敵さとは全然違う。

 なんの変哲もない、枯れすすきの河川敷に一本だけ咲いている花――それが永遠先輩の笑顔だ。華美な花じゃない。派手な花の中では儚すぎてその存在を見落としてしまうような、水仙のような花。

 でも、それを傷つけずに手折ることができるほど、十七の僕は器用でも繊細でもなかった。


    三


 先花さきはなさんには、実際の仕事を通じて業務を学んでもらうことになっていた。教えるのはもっぱら一番若手の僕の仕事だ。

 僕は会議室に向かう廊下で、先花さんの背中を見つけた。

 タイトスカートに細いストライプのブラウス。

 すっとした立ち居振る舞いはあの頃と変わらず華奢で儚くて――そして凜々しい。

「永遠せんぱ……」

 思わずあの頃の呼び名を口に出しかけてはっとする。

 しっかりしろ、ここでは僕が先輩なんだ。

「えっと、先花さん」

「なんでしょうか」

 振り向いた先花さんはびくっと身を縮めて、落ち着かなさそうに目線を這わせた。

 しまった。つい声をかけてしまったけれど、なにを話せばいいのかわからない。

 ええい。

「その、覚えてますか、僕のこと」

 僕は思いきって先花さんに訊いてみた。後味の悪い別れではあったけれど、あれからもう八年も経っている。若かりし日の思い出としてお互い懐かしく語り合うこともできるかもしれない。

 そして、もしかしたら……。

 そんな僕の下心を知ってか知らずか、先花さんは恥ずかしそうに俯くと上目遣いで僕を見上げ、ん、とだけ答えた。

 可愛い……。

 ぶわっとあの頃抱いた恋心が膨れ上がる。

 黙って僕の言葉を待つ先花さんに、僕は焦りながら言い訳のように言った。

「あの頃は僕もまだ子どもでさ――」

「なー、後久のちひさ。金曜の合コンの店だけどさ」

 背後からの唐突な声に僕は慌てて振り返った。

 よりによってこのタイミングでその話題ですか、浜田さん……。

「行かないって言ったじゃないですか」

「昔の女を吹っ切りたいんだろ?」

 なに言い出すんだこの人は!

「そ、そんなこと言ってませんよ! 違うからね、先花さん」

「……なんでわたしに言うんですか。先に行きますので失礼します」

 表情を消した先花さんはぷいっと背を向けると、すたすたと会議室に歩いていった。


    *


 せっかくいい感じになりそうだったのに。僕は心の中で浜田さんを恨んだ。

 そんなやりとりの後では、せっかくの先花さんと二人きりの会議室も居心地が悪い。十二時のアラームが鳴ったときにはほっとしたくらいだ。

「後久ぁ、メシ行こーぜー。永遠ちゃんも一緒にどう?」

 ノックもなしに会議室のドアが開き、その張本人が顔を覗かせる。

 浜田さんはプロマネ――プロジェクトの提案から全体の管理までを行うプロジェクトマネージャだ。去年、僕がそのプロジェクトに参加して以来、なにかと絡んでくるようになった。

 チャラい容姿そのままの性格だから仕事のトラブルも多いけれど、たまにどでかい案件を獲ってくるから始末に負えない。打率一割のホームラン王、て感じの人だ。

 そんな浜田さんを無碍にすることもできず、僕はどうする? と先花さんに視線を送る。

「わたしがいるとお邪魔じゃないですか。合コンの話とかあるんですよね」

 先花さんはファイルをまとめながらつれなく答える。

「だから僕は合コンには行かないんだって」

 浜田さんのせいで変な先入観できちゃったじゃないですか。

 僕がそう言っても、浜田さんは悪びれもしない。

「でもさー、こいつ、顔も性格も悪くないと思わない?」

 いきなり何訊いてんですか――と言いつつ、僕はどきどきしながら先花さんの答えを待つ。

「どうでしょうか。ちょっと薄情なんじゃないですか」

 うぐっ。

 あっはっは、と浜田さんは笑う。

「永遠ちゃんの好みじゃないかー」

 さらりと言わないで。けっこうダメージでかいんですから。

「ねぇねぇ、こいつ彼女いない歴どれくらいだと思う?」

「さあ」

「八年だよ、八年。大学時代なにやってたんだよって話だよ」

 浜田さんは笑って親指を曲げた両手のひらを向ける。

「八年……くすっ」

 あれ? 今、笑った?

「別に彼女を作らないつもりじゃなかったんだよ。ただ、なかなか機会がなくってさ」

 言い訳のように言う僕を見て、浜田さんは愉快そうに続ける。

「だからさ、こいつが吹っ切りたい昔の女って、高校のときの元カノってわけ。笑えるだろ?」

「……」

 先花さんの眉間にはっきりとした皺が寄る。

「笑えますね」

 全然目が笑ってない。

 そりゃそうだ。本人の前で「吹っ切りたい昔の女」呼ばわりなんて。

「というわけで、こいつには可及的速やかに新しい出会いが必要なんだよ」

「好きにすればいいんじゃないですか。わたし、お昼はお弁当なので失礼します」

「お、うん。じゃあまた今度」

 先花さんはぺこり、と頭を下げるとぱたぱたと会議室を後にした。

 残された僕は浜田さんを睨み付けて言う。

「……浜田さん、今日のお昼はおごってくださいよ」

「じゃあ鰻行こうぜ!」

 まったく悪気のなさそうな浜田さんの笑顔に、僕は大きなため息をついた。


    *


 ――彼女を作らないつもりはなかった、か。

 僕は咄嗟に出た自分の言葉を考える。

 多分、それは半分正しくて半分正しくない。

 僕は、永遠先輩――先花さん以外の人を好きになったことがなかった。

 それまで好きだ、と思った異性がいなかったわけじゃない。でも、永遠先輩と出会って「今までの『好き』はホンモノじゃなかった」と思った。本当の意味で好きになったのは永遠先輩が初めてだと思った。

 そして、今もって二回目は来ていない。

 僕が永遠先輩と付き合ったのはわずかに二ヶ月だけだったというのに。



(※この続きは12月30日発売の合同誌本編でお楽しみください)


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