〈8〉

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 夢中で逃げ出したときには気付かなかったけれど、『解放の子供たち』の事務所が入っている建物は赤茶色い煉瓦で彩られたかわいらしい四階建てだった。一階はエントランスになっていて、『ネズミの煙突掃除』と書かれたネズミ形の看板が二階へ伸びる階段を指している。

 いったい誰の冗談なのだろう、と思ったけれど朝月もヒナコも、シュンでさえその看板を乗合バスの停留所みたいに無視していたから訊きそびれてしまった。

 二階の薄暗い廊下には両側に四枚の扉が並んでいて、その一番手前の扉が『解放の子供たち』の事務所だった。それなのに、なぜかここにも『ネズミの煙突掃除』の看板がかかっていた。所長の趣味なのかもしれない。

 ボクがここで目覚めたときは所長しかいなかったのに、ヒート・ミールで一悶着起こしている隙に、事務所の中には何人もの人が詰め込まれていた。躯体のいい男の人が主流だけど、女の人も何人か交ざっている。

 そうでなくても雑多にものが溢れていた部屋が、人間たちによってさらに救いようもなくごった返している様に、ボクは扉の前で立ち尽くすしかない。

 迷惑そうに顔をしかめたヒナコは、ネコじみた身のこなしでボクを避けて事務所に入っていった。人間たちと挨拶を交す彼女は、ボクと対峙していたときとは別人のようににこやかだ。

「ケイ?」事務所のデスクに就いた所長が首を傾げる。「どうしたの? もっとこっちにいらっしゃい」

 その声で部屋にいた人々は初めてボクの存在に気が付いたようだ。いくつもの好奇の視線が肌に突き刺さる。

「新しい仲間?」

「その顔どうしたの? 昨日の騒ぎに巻き込まれた?」

「ぼく、お名前は?」

「ユエさんの隠し子?」

 口々に勝手なことを言いながら近寄ってくる人間たちに怯えたように、シュンはボクの背に隠れた。ボクだって誰かの背に隠れてしまいたかった。

 けれど、唯一壁にできそうな朝月は「おう」と返事なのか相槌なのかわからない声を上げて、ボクを取り囲む人間たちの向こうへ紛れてしまった。

 ボクとシュンは喧騒から逃れて事務所の壁際に退避する。

「で?」所長の張りのある声が喧騒を鎮める。「結局、何人集まったの?」

「今は十八人ですけど、明日には中央ブロックからも何人か来てくれるそうです」

「そう、なら待ちましょう。ヒナコ、みんなに概要を説明してちょうだい」

「はい」と素直に頷いたヒナコは、なぜか事務所から出ていってしまった。

 他の人間たちも彼女の後を追ってぞろぞろと廊下に消えていく。すれ違いざまに何人かが「よろしく」とか「がんばろうね」といった言葉をボクの上に落としていった。

 どうやら愚かにも、彼らはボクが彼らの味方であると信じきっているらしい。

「ここの三階が作戦室になってる」

 最後の一人を送り出した朝月が教えてくれる。

 残っているのは朝月と所長、そしてボクとシュンの四人だけだった。

「二階は事務所と給湯室。三、四階の残りの部屋は宿泊施設になってる。まあ、どうせ泊まるのなんざ数人だ。大人数で一カ所に群れてたらすぐ教会に怪しまれるだろ」

 ボクは黙って俯いた。朝月の口調だけで彼が長い間この事務所に出入りして、何度も作戦とやらをこなしているのだろうと想像できてしまった。

「作戦ってさぁ」シュンが間延びした抑揚で言った。「ホタルを助けるための作戦なんだよね?」

「まあ……」と曖昧に視線を逸らした朝月は、けれど唐突に唇を引き結んで肩に掛けたままだった銃をデスクに放り出した。地図や書類が雪崩を起こしかけるのを器用に肘で押し戻して、彼は「上に出てくる」と言い訳のような声音を残して出て行ってしまう。

『解放の子供たち』の敵であるボクらはただ、彼らのアジトの中で立ち尽くす。どうしていいのかわからなくて、とりあえずボロソファーにシュンを座らせた。ボクがベッド代りに使っていた、黄色いスポンジが顔を覗かせているものだ。

「ねえ」ボクは一番奥のデスクでふんぞり返る所長を、顔の半分だけで窺う。「『ネズミの煙突掃除』ってなに?」

「アタシたちの表の顔よ。掃除屋なの」ボクの胡乱な視線に、所長は苦笑だ。「まあ、そうね。覗き屋ともいうわ。いろんな噂話を聞き回って、作戦のために排気ダクトや下水道の位置まで載った地図を作るのよ」

 汚いデスクでくたばっている地図を見る。

 書き込みだらけで真っ黒だ。道理で複雑に絡み合う迷路のような下水道に朝月が慣れていたはずだ。きっとボクがヒナコに撃たれたのも、この地図作りのせいだろう。

「どう?」所長はデスクから身を乗り出す。「アタシにも価値があるでしょ?」

 分厚い唇の両端を持ち上げて笑う所長の顔を、どこかで見た。そう、ヘレブにいた研究者たちと同じ笑い方だ。大した成果でもないのに褒めてほしくて仕方がないと語っている。

「『解放の子供たち』のリーダーとしての価値を認めてほしいの?」

「あの人数が協力してくれるアタシの人柄を認めてもいいんじゃないかしら?」

 ボクは疲れた気分で顎を引く。

 所長はそんなボクが不満らしい。早々にシュンへと視線を向ける。

「シュンくんはどう思う? ケイに協力してくれる仲間は何人くらいいるの?」

「ツキ姉だ」ソファーからはみ出した黄色いスポンジを毟りながら、シュンが不機嫌に告げる。

「ツキ? それが今の名前なの?」

「由月だよ」

 応じたのはシュンだった。自分の存在を通り越して会話がなされるのにはもうたくさんだ、と主張する尖った甲高い声が事務所の壁に吸い込まれていく。

 舌打ちしそうなった。簡単にバラさないでほしい。彼らにその名前を知られたくはなかった。

「アタシたちもそう呼」

「呼んでどうするの」露骨に苛立ちをにおわせて、所長を遮る。「あなたたちの知るボクはヘレブの実験体で、アララト教会の生き残りに過ぎない。どちらのボクも、あなたたちが狩るべき対象だ。本当なら『ケイ』と呼ばれるのすら嫌なんだ、親し気に『由月』の名を口にされるなんて寒気がする」

「わかったわ」所長は眼を伏せた。「大切な名前なのね。とても、大事にしてるのね」

 ボクは答えず、事務机の島に歩み寄る。シミのついたマグカップやボロボロの地図や朝月の銃が無造作に、けれど芸術的な立体構造で積み重なっていた。

 その中に、懐かしい本を見付けた。

 斜視気味の黒ネコが海賊帽の下からボクを胡散臭げに眺めている。伸ばした手が、震えた。裏表紙に張られたテープが指先に触れる。中のページには水を知っている紙特有のうねりと硬度がある。

 ああ、とボクは息を漏らす。朝月の、ヘカトンケイレスの制御室で彼が最初に読んでくれた本だ。ボクが紅茶をこぼしてつけたシミも、朝月がうっかり芯を出したままのボールペンを指示棒代りにした跡も、ようやく文字を認識できるようになったボクが書いた下手クソな字も、なにもかもが鮮やかに残っていた。そこに存在する過去の全てを、覚えている。

 ――朝月に会いたい。

 蓋をしてきた感情が心臓の裏から吹き上がる。どうしようもないくらいの圧迫感を持って、爆発的に高まった欲求が喉を塞ぐ。

 絵本を抱きしめた。思い切り、力いっぱい胸に押しつけて、喉から迸ろうとする感情を呑み下す。滅茶苦茶に声を上げて喚いてしまいたかった。本当はずっと君に会いたかったんだ、と彼にぶちまけてしまいたかった。

 けれど臆病なボクは所長やシュンにそれを悟られないように、呼吸を止める。


「戻りました」と朝月の声がしたとき、絵本の黒ネコは反復する生と死に閉ざされていた長い人生――猫生というのかもしれない――の終盤に差し掛かっていた。

 ボクのお腹に頭を凭れさせて眠りこんでしまったシュンの穏やかな呼吸音を聴きながら、ボクは黒ネコが愛した白ネコを看取る。一文字だって取り零さないように丁寧に、敬意を込めて指先を添わせて白ネコの死を辿る。

 何度も何匹も仲間をとっかえひっかえしていた黒ネコは、白ネコの亡骸を抱いて切れぎれの嗚咽を漏らす。

 どうして死んじゃうの、どうしてボクを残して逝くの、どうしてボクは一人でいなきゃいけないの。

 何度も嘆いた黒ネコは、それでも最後には白ネコの隣に横たわってその尖った耳に告白する。

『君に逢えて幸せだったよ』

 ギ、と鈍い軋みを上げてソファーが揺れた。朝月の膝先が見えた。

 ボクが最後のページを持っていたせいで、今日まで白ネコの後を追えない黒ネコの抗議を代弁しに来たのかもしれない。

 朝月の手がそっと、くたびれた最終ページを絵本に載せた。お守りとしてボクが持ち歩いていたせいで、折り目だけじゃなく砂埃やどす黒い血の跡がたくさんある。

 幸せそうに寄り添う二匹のネコの背中があった。

「君がまだこの本を持っているなんて、思わなかったよ」

 朝月は柔らかい呼吸を漏らすと再び立ち上がり、今度はマグカップを二つ提げて戻って来た。白いホーロー製のマグカップだ。スレンダーな黒ネコが長い尻尾を揺らめかせている。

「それ」驚いて妙に甲高い声になった。「どうしたの?」

「どうって」朝月は困ったように眉根を寄せて笑う。「部屋からとってきた」

「そうじゃなくて……」

「ヘレブから持ち出した」

 カップには焦げ茶色の紅茶が満ちていた。けれど、湯気に乗って漂ってくるのは寝惚けたコーヒーの香りだ。

 あのころと変わらない。ヘカトンケイレスの制御室にあるお湯を沸かせる装置はコーヒーメイカーだけだったから、彼はいつもフィルターを空にしたそれでボクのために紅茶を淹れてくれていた。

 優美な黒猫が宿ったマグカップは、彼からの二番目の贈り物だ。

 優しい甘さのクッキー、死なないネコの絵本、黒ネコのマグカップとコーヒーの香りがする紅茶。ヘレブに残してきたものが、ここに揃っている。彼が揃えてくれていた。

 ボクが朝月を忘れていなかったように、彼もボクを忘れずにいてくれた。それが嬉しくて、それ以上に悲しかった。

 マグカップを包む指先に力を入れて、もうヘレブはないんだ、と自分に言い聞かせながら、ボクは慎重に口を開く。声にこれ以上の動揺を滲ませるわけにはいかない。

「作戦会議は終わったの? 他の人たちは?」

「まだ上に残ってる。もう、懇親会みたいなもんだ」

「君は、いなくていいの?」

「逃げてきたんだから追い帰すなよ」

「みんな、ボクらを殺そうとしている人間なんだね」

 はっと朝月が顔を上げたことには、気付かないふりをした。

「考えてみれば当たり前だ。慈愛と赦しを説く教会だって、ボクらの心臓を狙っているんだから。でも、あんなにたくさんの人間に憎まれていたなんて」

「違う」

「どこがどう違うの?」

「憎んでるわけじゃない」

「なのに、殺しに来るの?」

「みんな」所長がため息の抑揚で囁いた。「怖いのよ」

「人間が創り上げた、勝手な物語だ」

「いいえ、ケイ。アタシたちが恐れているのは、自分自身よ。あなたたちの存在を前にすると死者を生き返らせたくなる。いけないことだとわかっていても、その誘惑に抗える自信がないのよ」

「だからボクらの存在を消したいってわけ? 勝手だね」

「わかっているわ。でも、人間は弱い生き物なの。だからあんなものに」所長は椅子を回して建物の隙間から覗く教会の尖塔を仰ぐ。「救いを求めるのよ。死者は戻ってこない、天国で幸せに暮らしているんだと、そう信じていたいの」

 朝月が短く息を漏らした。感情の欠片を追いだしたのか嗤ったのかはわからない。彼は無表情に手の中のマグカップを回している。

 ボクが知る限り、朝月は信仰を持っていない。蘇生させるための死体を保管する仕事に就いていた人間が、時間や生死を司る女神なんてものを信じられるとも思えない。

 もっとも移民船の物資に依存して設立されたヘレブ社は初めから、この惑星の環境に四苦八苦しながら信仰を築き上げた教会とは仲が悪かった。さらに教会の武力によって強制的に解体されたわけだから、ヘレブのスタッフにとって教会は仇敵と呼んでもいい存在だろう。

 ふっとヒナコの首に絡んでいた黒いリボンを想い出す。彼女は信仰を有することで、姉を殺した『解放の子供たち』を赦し、ボクらを憎む道を選んだのだろうか。

「天国、ね」と呟いたボクの声に、扉の向こうから届く硬質な足音が重なった。反射的に腰を浮かせる。

 シュンの頭が膝へとずり下がった。目覚める様子はない。一晩中下水道から屋上から、汚水と砂と血にまみれて走り回っていたのだから仕方がない。でも、今ここから逃げ出すなら置いていかなきゃならないだろう。

 白いカップの縁を越えて紅茶が膝に落ちた。きっとボクの不安に色をつけるとしたら、これだ。朝月とボクが過ごした時間から流れ込む淡い期待や安堵の記憶が、今のボクらを脅かす疑念や恐怖の黒を薄めている。

 宥めるように、朝月がボクの膝に触れた。その温もりにも、ボクは緊張を解けない。本能が逃走経路や人質にし得る相手を、武器に成り得るものを探している。

 けれど、「おはよぉござぁます」と間延びした声とともに現れたのは軍人とは程遠い派手な色のシャツを着た男だった。朱色のヘビが腹から胸にかけてのたうっている。

「所長ぉ、アレ、ウチじゃないですよね? なんか昨日、稀人が何人か殺して逃げたって噂が」

 男は言葉をぶち切ってボクを眺めた。見開かれた目には、顔の半分を包帯に埋めている人間に対する同情と不審と猜疑が閃いている。

「どっかからの応援? それとも新しい仲間?」

「違う」

「そうよ」

 朝月の否定と所長の肯定が重なった。

「えっと、どっち?」

「違う」朝月が鋭い語気だ。

「今はね」ゆるやかに椅子を回した所長が朝月に相対する。

「所長!」

「人手は多いほうがいいわ」

「こいつは戦闘訓練を受けてない。銃一つまともに使えないんだぞ」

「身体能力だけでもじゅうぶんな価値があるわ」

「捨て駒にする気か」

「陽動と言いなさいよ、人聞きの悪い。なぁに? ユエくんはケイの保護者なの?」

「黙れ」

 ふわりと朝月の肩口から怒りが立ち昇ったように見えた。

 不穏な空気の元凶たるボクを語る視線が頬に刺さった。気が付かないふりをして朝月の手を見る。濃紺のカップに守られたコーヒーの黒がてらてらと液面を揺らしているだけだ。その平静な揺らぎに、ボクは「なんとなく」と言葉を注ぐ。

「状況は呑み込めているつもりなんだけど、確認していいかな? 所長はボクを『解放の子供たち』として作戦に参加させたいの?」

「しなくていい!」

 一呼吸も挟まず朝月が怒鳴る。

 ボクは朝月の肩越しに、乾いた砂雑じりの町と薄ぼんやりとした昼の裾を背負っている所長の両腕に、問う。

「あなたは、なにがしたいの?」

「稀人の一掃よ」

「それは『解放の子供たち』の理念だ。あなた自身の望みは、なに?」

 所長は静かな呼吸を三度して、最後の息を長く深く吐いた。色を刷いた唇が解けて、閉ざされて、再び緩慢に開く。

「アタシはね、ケイ、稀人を憎んでいるわけじゃないの。ただ、いなくなって欲しいだけよ」

「そこにボクが介入する理由があるの?」

「稀人とはなにかを知らない稀人が、生み出されているわ。本来ならば死を受け入れるしかなかった人たちが、不運にも稀石の存在を、死者が生き返る可能性を知ってしまった故の過ちよ」

「確かに、知識の流出はヘレブの責任かもしれない。でも、じゃあ今も『彼ら』を造り続けているイオナの、教会の責任はどうなるの?」

あの下水道に漂っていた屈託のない『彼ら』の声を思い出す。ヘレブの施設内に張り巡らされていた配管から降って来た噂話と同じ響きだ。

「ずっと、教会は稀人を増やさないためにヘレブを壊したんだと思っていた。実際、世間ではそういうことになっている。死者を蘇らせるヘレブとは違ってイオナは稀石を、稀人の心臓を純粋なエネルギーとして利用するための研究をしているんだと。でも、違った。全然違った。教会は稀人を有している。なんのために? どうして? あなたたちは知っているんだろ? だから今回だってボクに協力すると言いながら、本当はボクになにか別のことをさせるつもりなんだ。違う?」

「違わないわ」

 所長はあっさりと首肯した。なにかしらの反論や誤魔化しを予想していたボクは数瞬戸惑う。けれど、一呼吸でその動揺を呑み下した。顎を上げて、片方しかない眼の強さを意識して無言で所長を促す。

「あなたの言う通り、教会は死者を生き返らせているわ。ヘレブから奪った技術を遣ってね」

「なんのために?」

「軍隊を作るためよ」

 意味がわからなくてボクは眉を寄せる。いや、意味はわかった。けれど、理解が追いつかない。稀人を軍隊に入れる?

「そんなことに、なんの意味があるの?」

 今度は所長が眉を寄せた。どうしてボクがそんな疑問を抱くのかわからない、という表情だ。

「死なない軍隊よ? どんな国と戦争になっても、そこで生み出された死者が稀人になり死なない兵士となるの。いずれ、他の国にも稀人の技術が広まるわ。世界が稀人で埋め尽くされる」

「だから?」

「だからって……」所長はぽかんと口を開けた。

「稀人は子供を産まない。世界に稀人が広がれば人間は滅ぶしかない。稀人を増やすことにも彼らを戦場に連れ出すことにも、人間にとっての利は一つだってないんだ。放っておいたって、そのうちみんな気付くよ。そうすればきっと、平和になる」

 それに、と胸中でもう一つの理由を挙げる。きっと戦場に送り込まれたところで稀人たちは戦わない。腕を飛ばそうと腹を裂こうと決定打にならないことをお互いに知っているのだから、稀人同士の争いは心臓の奪い合いになる。けれど、苦労して心臓を抉り出したって二つも体の中に入れるわけにはいかない。試したことはないし試す気もないけれど、ヘレブにいたボクには波長の違う稀石を一つの体に入れることがどれほど危険なことかは知っている。だからといって教会が稀人相手に報奨金を払ってくれるとも思えない。

 稀人同士の殺し合いなんて、不毛なだけだ。

 所長はため息をついた。納得した雰囲気ではなかったから、親切なボクは端的に告げてあげる。

「ボクらは不老だけど不死じゃない」

「ちょっと、待て」男が、喘いだ。「今、おかしなことを言っただろ、なんで誰もつっこまないんだ」動きを細切れにした男の眼球が、ボクに下りてくる。「ボクら? あんた……」

「稀人だよ」

 ボクの告白と同時に、男の手が懐に入った。その手が出てくるよりも早く、朝月が銃を抜いている。向けた先は、男だ。

 誰もが動きを止めた。

 一拍遅れて、朝月の膝から転がり落ちたマグカップが闇色の液体を広げていく。人間たちの疑心や恐怖のようにじんわりと、コーヒーの黒がボクらの靴底を浸して、新たな獲物を探している。

 唇を半開きにしたまま、男は荒い呼吸を繰り返す。見開かれた眼も引きつった頬も、朝月が銃を突きつけたことではなく、彼が稀人のために銃を抜いたことに驚いている。

「朝月、やめて」

「お前の敵なら、俺にとっても敵だ」

 思わず笑ってしまった。なんてカッコよくて、バカ気たセリフなんだろう。

「やめて、シュンを起こしたくない」ボクは細くて柔らかなシュンの髪を梳いて、ボク自身の感情を制御する。「ヘレブにいたころの君は、もっと落ち着いて物事を考えられる人だったのに」

「背伸びの巧いガキだったんだ。それに」朝月はボクに視線を落とした。瞬き一つ分だけ。「あれで懲りた。お前相手には二度と引かない」

 あれ、ね、と呟いてマグカップに満ちる紅茶を見る。ボクがいた。波紋に歪んだ顔は泣き出す直前のシュンに似た情けなさだ。

 たぶん彼は、ヘレブでボクと過ごした最後の夜を思い出している。

 朝月の言動一つに嬉しくなって、そんな自分を戒めるために彼に冷たい言葉を吐きかけたのに、緩みそうになる頬を隠すことができずに俯くなんて。まるで子供じゃないか。

「ボクの意見を無視して突っ走った先に、なにがあるの? 君は、どんな夢を見ているの?」

「ケイ」静かに、朝月はボクを呼ぶ。ヘレブにいたときと同じ声音だ。「俺は二度と後悔したくない。それだけだ」

「お前……裏切る気か」掠れ声で、男が呻く。「稀人の味方なのか? 死体が人を殺してんだぞ! 死んでんだ。昨日の騒ぎはソレのせいだろ。その稀人のために何人死んだと思ってる。まさか……」ひょう、と男の喉が風音になる。「お前も、稀人なのか? だから、そいつの肩を持つのか?」

 朝月は応えなかった。照準を男に合わせたまま、呼吸すら乱さない。

 だからボクは口を開く。二人にお互いを撃たせないために慎重に話題を選んで、男を挑発する。

「あなたはボクのたった一言で、ボクを稀人だと信じるんだね。それが嘘や勘違いかもしれないとは思わないの? 撃ってから考える? アララト教会の人間たちにしたように?」

 視界の外で所長が口を開いたのがわかった。無視して、ジャケットの下に潜む男の手を嗤う。

「やめたほうがいい。朝月は人間だ。筋肉の心臓を手にしてから、ああ、人間だったのか、じゃすまない。人間は死んだらそれっきりだ。だからこそ稀人も人間も、アララト教会と『解放の子供たち』の名を忘れない」

 化石燃料を温める始発列車のように気怠い響きがした。所長がついた息だ。卵を抱く親鳥のようにマグカップを両手で包んで背凭れに寄りかかっている。

 あの事件は――アララト教会の惨劇は、世界中に『解放の子供たち』の名を知らしめた。

 それまで稀人の敵といえば教会からの命令と義務感で雁字搦めになった軍人や報奨金に目が眩んだ犯罪者くらいだった。

 けれど『解放の子供たち』は違う。彼らの目的は手柄でもお金でもない。ただ純粋にボクらを、稀人を世界から葬ろうとしている。

 それを証明するように『解放の子供たち』は教会に銃弾を撃ち込んだ。稀人とともにいる人間も同罪だ、と叫びながらそこに居合わせた全員に等しく銃弾を降らせた。挙句に稀人の子供たちを庇った女性の胸から肉の心臓まで抉り出した。

 彼らが去った礼拝堂には、砕かれた石の心臓と潰れた肉の心臓をそれぞれの胸に置かれた遺体が晒されていたらしい。

「アララト教会で心臓を抉られた稀人はたったの二人だ。巻き込まれた人間のほうが多い。君たちはボクらを殺すために人間から命を奪う。それほどまでに、稀人の死には価値があるの? 親の目の前で子供を殺して、ヒナコからナミコを奪って」

 あの教会の優しさからシュンとホタルを追い出した。

 所長は表情を隠すようにマグカップで口元を覆った。

「あれは、アタシたちとは別の支部が起こしたことよ」

「なら同じ理屈を捏ねるよ。ヘレブで生き返った仲間は誰も、暴走なんてしなかった。アララトで殺された稀人だって、人を殺したことはなかった。人を傷付けているのはボクらとは別の稀人だ。あなたたちの敵は、知識もなく稀石に手を出した人間たちだよ」

 所長の視線が床を彷徨う。巧い反駁が転がっていないだろうか、と縋るような光が垣間見えた。そう思ったのに、ボクへと戻って来た瞳に迷いは宿っていなかった。所長は「そうね」と平淡に言い放つ。

「あれは、アタシたち『解放の子供たち』が犯した最初で最大の過ちよ。でも、だからといって稀人を容認することはできないの、絶対に」

「なら、あなたはどうするの? 全ての稀人の心臓を砕いたら、その腕も切り取って燃やしてしまう? それとも狡猾な人間らしく、その腕をつけたまま人間の中に紛れて暮らしていくの?」

「ちょっと待て、なんの」

「ジオ、少し黙っていてくれるかしら」割り込んだ男の声を所長が素早く叩き落とす。「仮定の話はしないわ。まだ、稀人たちは残っているし、こうしている間にも誰かが新たな稀人を生み出しているかもしれない」

「アララト教会で殺された子供たちの親のように?」声に棘が混ざったことを自覚した。「間違いなく、彼らを唆したのは『解放の子供たち』だ。でもあなたたちにとっては幸運なことに、稀石はそう簡単に手に入るものじゃなかった。彼らはさっさと逃げ出したボクらを追いかけて来たよ。ボクの心臓を子供たちに与えようと、血だらけの死体を抱いて追って来た。でも、波長の合わない稀石を埋め込むと暴走して肉体が崩れる場合があることを説明したら泣きながら諦めてくれた」

「諦めてくれる人ばかりじゃないわ」

「なんのためにヘレブがあれほど巨大な装置を造っていたと思うの? たくさんの研究員を雇って依頼されていない死者まで生き返らせていた理由を考えないの? 稀石にはそれぞれの波長がある、人の細胞だってそうだ。その二つが合うかどうかを調べるためにヘカトンケイレスが存在していたんだ。正しく生き返るために」

「正しい生き返りなんてないわ。お願いよ、ケイ。アタシたちの前から、消えてちょうだい。その存在を歴史から消し去って、誰も死者を蘇らせようなんて思わない世界に戻さなければならないの」

「そんなこと」ボクは短く息を漏らす。「すでに生き返ってしまったボクに言っても仕方がないし、ボクの存在を消したとしても積み重ねられた事実は消えやしない。稀人の歴史はあなたたちが思っているより長いんだ」

「過ちは正されなければならないわ」

「なら、移民船団からやり直さなきゃ」

「……母星の技術では、死者は生き返らないわ。同じ姿形の生物を作り出せるだけで、それは死んだものとは別の生き物よ。稀石はこの惑星の鉱物なんだから」

「なんだ。最初の稀人の話は知らないの? ヘレブではみんなが知っていた話なのに。朝月だって知っている。だから、彼は稀人を恐れない。そんな必要がないと知っているんだから」

 所長と男たちの目が朝月を映す。けれど、彼は銃を突きつけたまま微動だにしない。

 だからボクは、彼のかわりに少しだけ唇を持ち上げた。二人の男を刺激しないようにそっと指を伸ばして朝月の肘を引き寄せる。過去の記憶よりも太く硬くなった腕を撫でて、体温に温んだ銃に触れる。

 膝までずり落ちたシュンがうわ言を漏らした。幸せな夢を見ているのかもしれない。

 ボクは銃の冷たさに微笑みかける。

「じゃあ少しだけ、昔話をしてあげよう」

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