第3話 〈7〉

〈7〉


 朝日から逃れて、常に夜を漂わせる下水道に滑り込んだ。

 汚水の臭いと吹き出す煙の湿気に白んだ空気は、朝靄に似ている。

 相変わらず悪食なネズミたちが排水管の穴から顔を出していたけれど、今日は大人しくボクを見送ってくれるようだ。やはり彼らも、朝月人間が怖いらしい。

「ねえ」ボクは包帯を巻き直してもらったほうの顔で振り返る。勿論視界はない。「どうして君までついてくるの?」

「理由が必要なのか?」

 とても面倒くさそうな抑揚だった。

 辛うじて見えた朝月の、太った紙袋を抱えた白いシャツの袖口がボクの血で汚れている。同じ暗色がボクの右頬にも滲んでいるはずだけど、きっとこの明度じゃ黴じみたシミにしか見えないだろう。

「必要だよ。君は人間で、ボクは稀人なんだから」

 朝月の歩調が早くなった。靴音が風音のように届く。ボクの隣に並んで、追い越して、立ち塞がる。

 光源なんてないはずなのに、彼の顔はやけに鮮明に見えた。怒っているようにも傷付いた子供のようにも見える不思議な、けれど呼吸が苦しくなるような真剣さを帯びた顔だ。

 彼は黙って手を伸ばし、ボクの頬に触れた。醜く陥没した肉が思い出したように、じくりと痛む。

「触らないで」ボクはその手を叩き落とす。「ボクと君の血は相容れない」

「五年だぞ」朝月は再び指を伸ばして、今度はかすかな熱を伝える距離で留まる。「お前と離れて五年だ。なのに、なんで俺から逃げようとする。そのためにはシュンも置いて行く気だったのか」

「シュンとは会える。それがわかっているから出てきたんだよ。それとも、おとなしく『解放の子供たち』の部屋にいればよかった?」

 朝月が眼を細めたけれど、ボクは気付かないふりをした。

「だいたい、『解放の子供たち』と稀人が会ってどうするの? 君たちがなにをしてきたのか、ボクが知らないとでも思っているの?」

「知らないでいてほしかったとは思ってる」

「勝手だね」

「ああ」

「言い訳を、しないの?」

 朝月は眼を見開いて、すぐに口元を小さく緩めた。

「どんな言い訳があるのか、俺が知りたいくらいだ」

「『解放の子供たち』だっていうのは?」

「本当だ」

「どうして『解放の子供たち』なんかに所属しているの?」

「言っただろ、お前を探したかった」

「殺すために?」

「違う。お前を傷付けるつもりはない」

「『解放の子供たち』なのに?」

「お前が望むなら、抜ける。あの事務所にいる全員を殺してもいい」

「少しは言葉を選びなよ」ボクはうっそりと唇を歪める。「殺す? 今まで、いったい何人殺したの? 稀人だけじゃなくて、人間も、殺してきたの? アララト教会の一件に君もかかわっているの? 子供たちから心臓を抉り出した気分はどう? 人間を巻き込んでまで、石の心臓が欲しい? ボクの心臓も抉る? そんな組織に所属していたクセに、今さら信じろって?」

 甲高く下水道に反響したボクの声を、朝月は黙ってきいていた。瞬き一つせず、伸ばした手も落とさず、ただボクを見つめるだけだ。

「ねえ、なにか言ってよ」呼吸がひどく苦く感じた。「言い訳の一つくらい、聞かせて」

 朝月の指先がボクの頬に触れた。

 包帯に滲んだ血が彼を捉えるのを感じる。下水を這うネズミたちと同じ臭いがするボクの血に触れる彼を見たくなくて、漆黒の壁から吹き出した白煙に視線を逃がした。

 沈黙の重さに耐えきれず、ボクは朝月の体を避けて歩き出す。

 すれ違う一瞬だけ、彼の体に跳ね返った風の中に漂う優しい香りがした。すぐに汚物の淀みに沈んでいく。

 ボクが見る幸せな夢の結末も、きっとこんな風に墜ちていくんだろう。

 シュンの小刻みな足音と朝月の硬質なそれが瀑布の音の中で美しい音楽のように絡んでいた。

 それに耳を傾けながら、朧な方向感覚だけで足を進める。こんな方向に来たことなんてなかったから下水道のうねりに迷い込んでいたって気付けないだろう。それでも今は立ち止まりたくなかった。

「ケイ」唐突に朝月がボクの肘をつかんだ。「そっちじゃない」

「……ボクがどこに向かっているかわかっているの?」

「教会だろ」

 朝月はボクの肘を握ったまま歩き出す。翻った防砂コートの下でホルスターに納まった軍用拳銃が硬質な音を立てた。

 右腕に紙袋を抱えて左手にボクを捕らえて、敵と鉢合わせしたらどうやってそれを抜く気だろう、とボクは彼の横顔を見上げる。

――見上げる?

 不意に、恐ろしい事実に気が付いた。気付いて、しまった。

「君……」声が汚水の濁音に呑み込まれる。「背が、伸びた?」

「背? ああ、そうか、この五年で結構伸びたからな。俺の首から上は、お前の不在でできているといってもいい」

「それは……計算が、おかしいよ」

 ボクは朝月に気付かれないように動揺を殺す。喉が渇いていた。

 朝月の成長に、彼がボクとは違う生き物であるという証拠に、人間という生物であるという事実になんて、気付きたくなかった。

 けれど、朝月は嬉しそうに声を上げて笑う。ヘレブの研究室で冗談を言い合っていたころのようだ。耳障りな水音でさえヘカトンケイレスの排水音に思えてくる。

 熱いシュンの手が、ボクを過去の迷路から引き上げた。朝月を牽制するように彼の指をこじ開けてボクの腕を取り戻す。

 朝月はあっさりとボクを手放した。

「別に、ケイを奪いやしない」

「ツキ姉だ」

「そう呼んだほうがいいのか?」朝月はボクに問う。

「ならボクも、君を『ユエ』って呼んだほうがいいの?」

 朝月は「やめてくれ」と肩を竦めると、ポケットから取り出したペンライトでキャットウォークのプレートを確認した。『M‐9』なんて、ボクが把握している範囲にはない表示だった。

「どうしてこんな道を知っているの?」

「地図を作るときに散々這いずり回ったからな」

「地図? 君たちは人間なんだから地上を歩けばいいじゃない。こんなところを通るのはネズミとボクらだけでいい」

 だからこそ安全だったのに、と声にしなかった部分を、きっと朝月は敏感に感じ取ったのだろう。彼は静かに、けれど悲し気に頬を歪めて一度だけボクの髪を梳いた。そして闇の底に視線を投げる。

「お前なら」朝月の声が這う。「この奥になにがあるのか、わかるんじゃないのか? 俺たちは今、ソレを狙ってる」

 滔々たる水音の底に眼を凝らした。停滞した空気と汚水の怒涛が擦れ合っている。当然だけど、壁から吹き出す白煙の濁りとネズミたちの眼光しか見えない。

 けれど、ボクの踵はキャットウォークのぬめりを擦って慄く。シュンが不安気になにかを言ったようにも思ったけれど、応じる余裕はなかった。

 ヘカトンケイレスの隙間を縫うキャットウォークに立っているんじゃないか、という妄想がボクを覆う。

 耳を聾する水音のそこここに、ざわめきが淀んでいる。たくさん、たくさん、ヘカトンケイレスを循環する薬液に乗って行き交う『彼ら』の噂話がボクの鼓膜をかき乱す。

「ケイ」

 朝月の声とシュンの熱い掌が、ヘレブの幻影に墜ちようとするボクの意識を寸前でつなぎ留める。

「嘘だ」喘ぎに雑ぜた言葉が音になったのかもわからない。「どうして……『彼ら』の声が……だって、ヘレブはもうないって……」

「研究資料や設備を、教会の研究機関であるイオナ社が引き継いだ。頭がすげ替っただけで、やってることは昔と同じだ」

「でも、教会は稀人の研究を止めさせるためにヘレブを解体したって」

「表向き、だ」朝月が平坦な抑揚で吐き捨てた。「教会の連中は、自分たちの権威がただの民間組織であるヘレブによって霞むのを嫌がっただけだ。やってることは同じか、より醜悪になってる」

「君はなにを知っているの?」と訊ねることはできなかった。

 ボクは壁に手をつく。シュンとつながっているはずの掌の輪郭すら呑み込む闇が、頭の中にまで侵入してくる。

 あのころの闇だ。毎日繰り返される実験から束の間解放される、深夜の冷たい部屋の角に停滞していた滓だ。

 観察用のガラス壁の向こうを通る白衣が煙のように揺らいでいる。ボクを実験室へと引き立てる連中の足音が高らかに近付いて来る。

「ケイ!」灼熱がボクの妄想を焼き切った。朝月の大きな手がボクの腕を引き上げている。「悪かった。思い出さなくていい」

 口を開いた、けれど言葉の欠片すら出てこない。喉が締め上げられているようだ。両の指先で喉を引っ掻く。誰の腕もない。それなのに声も空気も出ない。

「ケイ」

 朝月の視線がボクに並ぶ。ヘレブにいたときと同じ高さだ。やっぱり、ここはあの研究施設なんだろう。

 朝月が、ゆっくりとボクの頭を引き寄せた。

 血生臭い空気が消えていく。甘苦い朝月の肌の香りだけが、呼吸を思い出したボクの粘膜に触れた。

「頼むから、俺を信じてくれ」

 急速にボクの体が正常な働きを思い出す。ようやく得た酸素に歓喜する喉の痛みと右目の欠損に脈打つ熱。そして背後から迫る硬い足音が、冷や汗に濡れたボクを硬縮させる。

 けれど朝月は脇に吊るした銃を握ることもなく、ボクを支えたまま立ち上がった。いつの間にか座りこんでいたらしい。

 朝月の腕からそっと逃れて、壁際に佇むシュンを引き寄せる。けれど、シュンはその小さな手を突っ張ってボクをキャットウォークの端へと追いやった。ネコにぶつかられたくらいの力だったのに、エネルギー不足の体とヘレブの幻影に摩耗した精神じゃあ踏み留まれなかった。

 手すりなんてないキャットウォークを踏み外す。

 ヒヤリとしたけれど、いつだってぎりぎりのところでボクを救ってくれる朝月の腕は、こんなときでも有能だった。痛みのない絶妙な力加減で、彼はボクを引き戻す。今度はシュンに渡す気なんかないんだと主張するように、掌が触れ合った。

 けれど、朝月の眼はボクを捉えていない。迫る足音の先を見つめていた。

 ヘレブでの彼はいつもヘカトンケイレスの仄明りの中にいたけれど、今はボクを実験室まで連れて行く仕事も請け負っているのかもしれない。なにしろ『解放の子供たち』なんだから。

 そう思うと、ぼんやりとした形のない感情がシャツの穴から忍び込み、ボクの腹を冷した。

 けれど、朝月はボクを自らの背後へ押しやると、低く威嚇する。

「なにしに来た」

「なにって」下水の淀みに輪郭を溶かした長身の影が――所長が、ふふっと笑う。「言ったでしょ? 教会に乗り込むには組織立った武力が必要よ」

 ボクを捕らえていた朝月の力が僅かに緩む。睨むような視線を小刻みに所長と虚空とボクに彷徨わせている。

 この表情を、一度だけ見たことがある。昔、儀大人にボクとの秘密のお茶会を問い質されたときだ。あのときの朝月は巧く誤魔化していた。きっと今だって主導権を得る算段をしているんだろう。

 ボクは朝月とつながった手に一度だけ力を入れて、離す。

 彼はボクを一瞥すると、脇に吊るした銃に手をかけてシュンの隣に下がってくれた。

 逃げ道を塞ぐようにキャットウォークに姿を現した所長は、銃身の短い四角い銃を提げていた。連射できる上に無限にも思える弾数を呑み込める軍人専用の、それも警羅にあたる軍人なんかには支給されない、稀人ボクらを制圧しようと完全武装を決め込んだ連中が提げている型だった。

 所長に隠れるように、ヒナコもいる。二人ともがそんな物騒なものを二丁ずつ持っていた。

「まるで『解放の子供たち』を武力として利用しろと言っているように聞こえる」

「そう言ったつもりよ」

「つまり、あなたたちがホタルをとり戻してくれるの?」

「とり戻すのは、あなたよ。アタシたちはアタシたちの獲物を狩りに行くの。そこにあなたが便乗してくれるなら、アタシたちの仕事も捗るかもしれないわね」

 所長は背負っていた銃の一丁をボクに差し出した。

 反射的に受け取ってしまう。小さな外見に騙されたボクの腕はその重みに情けなく震える。キヨカさんがヒート・ミールのキッチンに運び込む小麦粉の袋くらいの重みはありそうだ。けれど、これが人間の命も稀人の心臓も砕くために必要な重みなのだとしたら、案外軽い武器だと思えないこともない。

「おい、なんでこいつにまで武装させるんだ」朝月の大きな手がボクから銃をとり上げる。「約束が違うだろう」

「手を出さないとは言ったけど、誘わないと約束した覚えはないわ」

 ガチ、と朝月の手の中で銃が硬い音を立てた。腰溜めに構えた銃を所長に向けて、それでも彼の横顔は不思議なくらい平静だった。

「あんた、どの面さげてこいつを誘う気だ。俺は認めない」

「どうしてユエくんの許可が必要なの?」所長は肩から吊るした銃に触れもしない。「ホタルちゃんを助けたい、これはケイの望みよね? ユエくんはケイを助けたい。でも、冷静に考えなさい。たった二人でなにができるの? 教会を守備している武装兵士の強さを知らないわけじゃないでしょう?」

 朝月は小さく顎を引いて唇を噛んだ。頷こうとしてやめたのかもしれない。きっと彼は所長の言い分を認めたくなかったのだろう。

 その反応と所長の言葉に、ボクはそっと声を押し出した。

「教会と争ったことがあるの? 『解放の子供たち』も教会も、ボクらの存在を認めていない。同調こそすれ敵対するなんておかしいよ」

 朝月の視線はボクを捉えて、白く泡立った下水の濁流に落ちていった。

 所長は顎を上げて天井に開いた漆黒の穴に浮かぶネズミたちの白く輝く無数の眼を見る。

 二人ともが薄く唇を開いたまま、音にすべき言葉を見つけ出せずに沈黙している。

「あなたの存在なんて、誰も認めない」

 ヒナコが、唐突に言葉を放った。そこに含まれた棘は、下水の濁音に呑み込まれてボクの内側には入ってこない。

 心許なく感ずるくらい細い体で、ヒナコは朝月に倣って銃を腰の辺りで構えている。レーザーポインタの赤はないけれど、銃口がボクに据えられていることはじゅうぶんに知れた。

「あなたと会ってから、ユエさんはおかしい」

 そうだね、と頷きたかった。朝月の立ち位置がおかしいことはわかっている。けれど、ヘレブでボクらに優しく接してくれた彼の幻影を断ち切れないボクは、彼の態度がとても嬉しかったんだ。それが彼の立場を危うくしているとわかっていても。

 頬を歪めて、銃口も『彼ら』の声もない無感情な壁を見る。

 ヒナコは沈黙する所長と朝月をも平等に糾弾する。

「『解放の子供たち』は全ての稀人を一掃するための組織なのにどうしてケイを、よりによってナミコを殺したケイを助けようとするんですか」

「理由が必要なのか」

「当たり前でしょ! 仲間を裏切ろうとしてるのに、理由が要らないなんて本気で」

「俺の存在はケイでできている」ヒナコの言葉に、朝月は平坦な声を被せる。「五年間、俺がどんな思いでこいつを探してたと思う。目の前で撃たれた相手が、それっきり生死不明だ。それが今、生きて目の前にいるんだぞ。どんなことをしたって護ってやる」

「稀人なのに」

「なんの関係がある。痛みは人間と同じように感じるんだ」

「死なないのに」

「死ぬさ」朝月が唇の端を皮肉に歪めた。「俺が、ヘレブでかかわってたことだ。稀人は死ぬし、殺せる。お前だって稀人の心臓を見たくせに」

 ボクは咄嗟に朝月の腕をつかむ。怖かった。彼の背に白衣の幻影が翻った気がした。けれど、ボクの指は当たり前に砂色のコートの厚みを捉える。

 驚いたように朝月はボクを見下ろした。

「やめて」懇願した。「君に護られたくなんて、ない」

 知ってくるくせに、そう紡ぐはずの呼吸が喉に詰まって咽る。ボクの背に添えられた朝月の手は温かくて、もう銃は握られていなかった。肩ベルトに吊られて、腹の辺りで緊張感なく揺れている。

「本調子じゃないみたいね」

 所長の軽薄な声がボクを、驚異的な再生力によって死なないと噂されている稀人の無様な姿を嗤う。

 舌打ちをしてやりたかったけれど、損傷した体で町を這いまわったボクの体にそんなエネルギーは残されていない。下水の本流に眼を落した。そこに渦巻く『彼ら』の噂話が頭痛のようにボクを侵す。

『室長の機嫌がいい』『新入りが気に入ったんじゃないか?』『ああ、かわいそうに』『久しぶりの仲間だな』

 視界が真っ白に染まった。ボクの血肉を食らおうと潜んでいるネズミの眼の光だ。その中にキヨカさんの丸い顔が見える。頬肉を盛り上げて――笑っていた。

 かっと体が熱くなる。咄嗟に朝月の腰にある回転式拳銃をつかんだ。

「ケイ?」朝月と所長の声が重なる。

 ボクは朝月ごと抱き込んだ銃を所長に向けた。ヒナコが素早く銃口を上げたけれど、構わない。

「教えて。これが撃てなきゃホタルを助けられないなら、使い方を教えてよ」

 所長は、やっぱり銃を垂らしたまま小さく首を傾げた。『解放の子供たち』なのに、どうあってもその銃をボクに向ける気はないようだ。その態度がやけに鼻についた。

「ねえ」ボクは低い声を意識して、唇を持ち上げる。「あなたはホタルを助けるために力を貸すと言う、でも同時にあなたは『解放の子供たち』でもある。いわばボクらは敵同士だ。そんな相手と銃を突き合わせているこの状況でボクに協力するのは、なぜ? 油断させておいてボクの心臓を抉り出す気?」

 朝月と触れていないほうの腰にシュンの熱を感じた。恐怖と不安に震える手は、さっきボクを拒絶したことなど忘れているようだ。

 シュンの小さな手ごと、朝月がボクの腰を抱き寄せる。

「そんな真似はさせない」

「言ったよね」ボクは銃を握る手に力をこめる。「護ってほしくなんてない。君はあっちに戻ればいい」

「使い方なら俺が教えてやる」朝月の手がボクの不器用な指先ごと引き金にかかった。「協力者が欲しいなら所長に頼んだっていい」

「言動が一致していないよ」

「聴け。俺は絶対にお前を傷付けない。お前の望みも叶えてやる。お前が『解放の子供たち』を撃ちたいなら俺が引き金を引いてやる。協力を仰ぎたいならそれでもいい。ただし、俺を遠ざけるのだけは許さない」

 ボクは震える。彼の声があまりにも真剣だったから、その中に潜む本気の重みが怖くて、けれどそれ以上に嬉しくて、腕も膝もがくがくと震えてくる。きっとこの銃にレーザーポインタが付いていればヒナコ以上に彷徨っていただろう。

「どうしてそんなに執着するんですか?」

 一瞬、心を読まれたのかと思ったけれど、ヒナコは呆れたようにも諦めたようにも思えるぞんざいな所作で銃を下げた。それでも彼女の瞳には炎が揺らめいている。怒りと猜疑と、少しの嫉妬だ。ヘレブにいた女性研究員たちやシュン、あの大人しいホタルの小さな目にも宿っているのをみたことがある。きっと、気が付いていないだけでボクにも同じ光があるのだろう。

 朝月の小さなため息が聞こえた。失笑したのかもしれない、と思える抑揚だった。

「お前たちが稀人の一掃に執着する理由と大して変わらない」

「……それは」

 ヒナコは、それきり言葉を見失ったように黙り込んだ。複雑に感情が絡み合った瞳が下水の本流に逃げて、緩やかにシュンの足元を彷徨い、ボクの上を素通りして朝月に留まった。睨むわけでも縋るわけでもない、どちらかといえば泣きそうな瞳にぬらりと光が過る。

 ヘレブに来た最後の見学者に、とてもよく似ていた。

 所長が無造作に朝月に近付き、銃なんて見えていないようにその腕から大きな紙袋をとり上げる。

 朝月は撃たない。ボクも、そもそも引き金を引けば弾が出る状態なのかすらわからなかったけれど、撃たなかった。

 荷物を引き受けた所長が悠然と踵を返す。

「帰りましょう。仲間も集まってるわ。みんなで教会を出し抜く策を考えなくちゃ」

 筋肉質で大きな背中が下水の闇の底に呑まれていく。ヒナコは、まだその場に佇んでいた。ボクに背中を見せる気はないようだ。

「ツキ姉」シュンの硬く尖った声がボクを責める。「ホタルを助けて」

 その一言だけで、じゅうぶんだった。ボクは朝月の銃から手を放す。重たい銃は頼りなく重力に従って、朝月の肩から伸びたベルトに引き留められる。

 ボクはシュンの小さな手を握る。握り潰してしまわないようにそっと、拒絶されたとしても気付かないように弱い力で、ずるいボクはシュンをつなぎ留める。


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