〈6〉

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 逃げ損なった夜の匂いが湿った風になって裏路地を這いまわっていた。ぼんやりと霞みのかかった町は他人のような顔でボクの行く先を仄明るく指し示している。

 夜明け間近のこの時間が、ボクは苦手だった。

 ホタルとシュンの寝息の合間から差し込む朝の予感に、どうしようのなく独りだと思い知らされるから。

 でも今日は違う。

 走るボクの靴音が眠りを貪る町の壁を叩く。どくどくと耳の内で血の音がする。息が切れる。いつもの静謐な朝とは全然、違う。

 通いなれた道を避けて、裏路地や建物の屋上やまだ洗濯物のないロープまでもを踏みつけて、最短ルートを駆け抜ける。

 これが生きてるってことだよ、と所長に叫んでやりたくなった。

 向かいの建物から窺ったヒート・ミールには、まだシャッターが下りていた。店内はおろか、エンヴィーが突き破ったガラス戸も隠されている。

 表を警戒する軍人たちの姿も見えない。

 ひょっとしたら信心深い教会に属する彼らは朝の、生の女神を讃える鐘が響くまで息を潜めているつもりなのかもしれない。

 まだ姿を見せない太陽の先触れが、裏路地にボクの影を伸ばしていた。

 つま先立ちで窓から室内を窺ってみたけれど、人影は見えない。食堂の丸テーブルが寸胴や使われた様子のない皿たちを載せて寂しそうに佇んでいる。

 勝手口のドアノブに手を掛けてみたけれど、やっぱり鍵が掛っていた。二階の窓はどこも暗い。

 いつもなら、キヨカさんもアツシさんも仕込みを始めている時間なのに。

 シャツに開いた穴から吹き込んだ風がボクの腹を冷ややかに撫でた。嫌な予感がする。

 壁に埋め込まれたポストに手を突っ込んで、蓋の裏から合鍵を剥がす。

 キヨカさんに教えてもらったわけではなく、お店で襲撃された場合の逃げ道や武器を探しているときに見付けておいたものだ。

 扉を開けた瞬間無数の銃弾が飛んでくるんじゃないかと身構えたけれど、杞憂だった。

 ボクは無人の食堂に忍び入り、丸テーブルの縁に触れる。

 キヨカさんに誘われて何度かここで食事をごちそうになった。寸胴からかすかにバターの残り香が漂っている。

「由月?」

 優しいけれど、怯えを帯びた声に呼ばれて顔を上げる。

 廊下の闇と食堂の光との境に、キヨカさんが立っていた。油染みのあるエプロンを巻いていたけれど、小麦粉の白は見当たらない。今日はお店を開ける予定がないらしい。

「その怪我、どうしたの」

 どう答えようか考えている間に、キヨカさんはまた口を開く。

「あなた、なにをしたの?」

「小隊長はなんて言ってましたか?」

「……亡くなったのよ」

 だから盾として引き寄せた体があんなに重たかったのか、とボクは静かに納得する。

 けれど、キヨカさんはボクの沈黙を別の意味に捕らえたようだ。彼女は再び、ゆっくりと一言ずつはっきりとした発音で言葉を押し出す。

「隊長さんは、亡くなったの。流れ弾にあたって、亡くなったのよ」

「それがボクのせいだと言いたいんですか?」

「エンヴィーも」

「お店を壊したことは謝ります」キヨカさんを遮る。「ホタルはどこですか?」

「いないわ」

「ここで待っているように言ったんです」

「由月……あなたは、なにをしたの?」

「ホタルは、どこです?」

「由月、あなた……」

 キヨカさんが光の中に踏み出す。曖昧な影が胸の辺りでわだかまっている。ひょっとしたら、キヨカさんの胸に渦巻く感情の色なのかもしれない。

「あなたは……死なないの?」

「死にますよ」即答ついでに短く笑う。「生き物はみんな、いつかは死ぬ。例外なんてない」

「でも、あなたは……あなたは本当に……」

 キヨカさんはボクの首元に視線を彷徨わせて口を噤む。まるでその音自体が呪いだというように、大きく頬を震わせて唇を噛んだ。

「訊けばいいでしょう。稀人なのか、って。その胸に埋まっているのは肉の塊じゃなくて石なのか、って。難しいことじゃない。別にその言葉を口にしたからって、誰もあなたを拘束したりはしない。子供だって知っている単語だ。死なない人間っていうのは誤解だけど」

「ああ」と息を漏らしてキヨカさんは闇に退いた。朧になったエプロンの輪郭が廊下の影の中で揺れている。「あなた、本当に……」

「稀人が人を襲うっていうのも誤解だ」ボクは平坦な声を意識した。「人を食べたりもしない。そんなのは全部、おとぎ話だ」 

 キヨカさんがまた一歩、闇の中に逃げる。けれど、一呼吸でキヨカさんは戻って来た。光の方へ。

 今度は立ち止まらない。二歩、三歩と進んで、丸テーブルを挟んだボクの向かいに立つ。いつもの血色を失った顔は、とても心細気だ。

「由月、あなたは本当に、稀人なのね」

「もう、あなたには関係ないことだ。ホタルの安全さえ確保したら、すぐに出て行きます。ここからも、この町からも。ホタルをどうしたんです」

「シュンくんは……」

「シュンには会いました。ホタルはどこ?」

「警羅の人がきて……」

「引き渡したの?」

「養護施設の人も一緒だったのよ。きっといい里親さんが……」

 キヨカさんの言葉は途中から小さく弱くなって、沈黙へと収束していった。視線をボクの周辺に漂わせて無意味な呼吸音だけを繰り返す。

「由月……」

「なにしてる!」

 キヨカさんのため息に、男の怒声がかぶさった。

 廊下から出てきたアツシさんがキヨカさんの腕をつかんで、勢いよくその大きな身体の陰に引き入れた。

「由月!」アツシさんは銃身の太いショットガンを腰溜めに構える。「よくも顔を出せたな。動くなよ! 動いたら、撃つ。警羅を呼んでやる」

「要りませんよ」

 顔の半分を覆う包帯を力任せに剥ぎとりながら、意図的に唇を歪めて見せた。

「ほら、銃も警羅も、どちらもボクを殺せない。呼ぶだけ無駄です」

「ひっ」とキヨカさんが喉を引きつらせた、と思ったときには物凄い炸裂音が後ろの方で上がった。

 振り向くと、キッチンの天井からぶら下がっている飾り棚が木屑になって流しに降り注いでいる。散弾をまともに浴びたらしい。壁に穿たれた無数の小さな穴から、一緒に吹き飛ばされた食器の破片が覗いている。

 そして怯えたように空中を舞うたくさんの、紙幣。

「ああ、そういうこと」

 青白いキヨカさんの頬からさらに血の気が引いて、焼く前のバンズみたいになった。小刻みに震える唇が解けて、でもそこから漏れる空気さえ恐れるように引き結ばれる。

 アツシさんの持つショットガンの銃口から白煙が細くたなびいて、すぐに空気と同じ色になった。

「最近、怪我には細心の注意を払っていたつもりだったから、どうして軍が来たのか気にはなっていたんだ。なるほど、あなたたちが密告者だったわけだ。参考までに教えてください。どうしてボクが稀人だと気がついたの?」

「違う、違うの」キヨカさんが首を振る。

「なにが違うんです? 隠さなくてもいい、これは報奨金でしょう」

「由月、信じて、わたしたちが通報したわけではないの」

 はは、とボクは笑った。込み上げてきた声を殺すこともせず、笑う。

 信じて? 同じセリフを今日だけで二度聞いた。でも、どちらも難題だ。

 キヨカさんの顔が歪んだ。毎朝彼女が焼くバンズに似た丸い頬肉はぎこちなく、歪に膨らんでいる。シュンやホタルが泣くのを耐えようとする表情だ。

 これが、ボクが世界で最も嫌う生き物だ。

 受けた被害を考えれば、ボクが稀人だと隠していたことを差し引いても、泣いたり詰ったりする権利はボクにある。

 それなのに彼女たちは、まるで自分たちが一番傷付いた被害者だと言いたげに立ち回る。表情や言葉や涙で武装して徹底的にボクらを悪者に仕立て上げる、そういう才能を生まれつき持ち合わせているニンゲンという生き物を、ボクは一番嫌っている。

 ボクは笑いを納めて一歩を踏み出した。

「ひっ」とキヨカさんが後退り、アツシさんが慌てたようにショットガンのフォアエンドを引いた。レーザーポインタがついていれば、下水道で出遭ったヒナコと同じくらい動揺していただろう。

「やめましょう」ボクは静かに二歩目を踏み出す。「見ての通り、ボクは稀人だ。どう考えたってあなたたちに勝ち目はない。それに、あなたたちには雇ってもらった恩がある。シュンもホタルも、あなたたちを好いている。傷付けたくない。教えてください」

「本当にわたしたちじゃないわ」

「ホタルさえ戻ってくれば、あなたたちなんてどうでもいい」

「あんなガキ」アツシさんが吠えた。「軍に引き渡してやった!」

「あなた!」

 キヨカさんの悲鳴が音アツシさんの言葉を掻き消したけれど、すでに聞こえてしまっていた。目の前が瞬間的に真っ赤になり、すぐに白くなった。

「軍?」

「すぐに処分されるに決まってる。どうせ身寄りもない孤児だ。すぐにシュンも捕まえてやる。この町にお前たちの居場所なんかないんだ。どこへ逃げたって捕まえてやる。軍に引き渡して、その胸から石の心臓が出てくるのを見てやる。稀人のくせに人間振りやがって! 死体は死体らしく腐っていればいいんだ」

「朝月は教会だって……。どうして軍なんかに引き渡したの」

「おい、警羅兵を呼んで来い。その辺にいるだろ。自警団でもいい。また報奨金が手に」

「ホタルは稀人じゃない」

 言葉の終りを吸いこんだアツシさんが咽た。

「ホタルは、稀人じゃない。稀人なら病気になんてならない。そんなこと、誰だって知ってるだろう」

「死なないって……」

「ホタルは人間だ!」

 ボクの叫びに応えたのは、銃声だった。重たい発砲が二重にボクを襲う。

 せっかく閉じた右頬が引き千切られる衝撃によろめいた。不用意なボクの怒声が、アツシさんに引き金を引かせてしまったらしい。首筋を伝う温度の不快感に舌打ちをして、二人を睨む。

 アツシさんは、ショットガンをとり落としていた。右腕を抑える指の間から赤黒い液体が脈動しながら溢れている。

「丸腰の女を」低く感情を押し殺した声が背後からした。「散弾で撃つのがお前らの流儀か。殺されなかっただけありがたいと思え」

 なにが起きたのかわからなくて、戸口を振り返る。

 薄く煙を吐く拳銃を右手に、左腕には紙袋とシュンの小さな手を引っかけた朝月が、怒りと朝靄とでその輪郭を揺らめかせながら立っていた。

「ツキ姉!」朝月の脇から飛び出したシュンがボクの腰に抱きついてくる。「大丈夫?」

「どうして」半ば呆然と呟く。けれど、頬を掠めた散弾のせいで音が濁る。「ここにいるの?」

「シュンが、お前ならここにいるって」

「ああ」ボクはシュンの丸い頭に手を置いた。「助けに来てくれたんだ、ありがとう」

 頬をふんわりと膨らませて、シュンは笑う。けれど、血を流すアツシさんと、その背を抱いて膝を折ったキヨカさんを睨んだ眼は立派な殺気を孕んでいた。

「どうしてツキ姉を撃つんだ!」

「稀人なんか――」

「気付かなかったくせに!」アツシさんを遮ってシュンが言いつのる。「誰がマレビトで誰がニンゲンかも見分けられないクセに! ツキ姉がなにをしたっていうんだ! ホタルが、ボクらが、どうして殺されなきゃいけないんだ! 人殺し!」

 シュンの幼い高音が血の臭いと混ざって渦を巻く。

 息苦しいくらいに負の感情が満ち溢れていた。

 怯えと怨みと少しの哀しみがこもったキヨカさんの眼と、痛みと憎しみとたくさんの被害感情に彩られたアツシさんの視線が、ボクの削げ落ちた頬肉の内側に刺さってチクチクする。

「シュン、もういいよ」

「よくない!」

「この二人と言い争っても、ホタルを取り戻せるわけじゃない」ボクはキヨカさんの豊かな胸の辺りに視線を向ける。「聞きたいことは一つだけです。ホタルは予備の薬を持って行きましたか?」

「わからないわ」キヨカさんは重たそうに頭を振る。「覚えてないの、本当に、いろいろなことが同時に起って……でも、由月がそうなら、ホタルちゃんも……死なないんじゃないかと……」

「ホタルが稀人だったら、ボクはこんな危険なところで働いたりしなかった。バカ正直に医者の、効いているんだかいないんだかわからない薬を買ったりもしない」

「由月、わたしたちは本当に、あなたを売ったりはしてないわ」

「ボクが稀人だってことには、気付いていたの?」

 キヨカさんの視線が床に落ちた。頷いたのかもしれなかったけれど、ボクはもう興味を失っていた。

 遠くのほうで、町中に響く轟音が目覚め音を打ち鳴らした。夜を司る死の女神が、活気溢れる生の女神に主導権を譲り渡したんだ。

「行こう」ボクはシュンを促して踵を返す。「もう、彼らニンゲンの時間だ」

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