〈5〉

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 飛び起きた。心臓が激しく脈打っている。首筋がじりじりと焼けるようだ。痛みだろうかと思ったけれど、すぐに違うと気付く。

 これは恐怖だ。ヘカトンケイレスのタンクに囲まれて最後の見学者を迎えたあの日、キャットウォークで抱いた感情と同じものだ。

 腹に手を当ててみる。瑞々しく張った弾力のある皮膚が汗に湿っているだけで、傷なんてどこにもなかった。

 天井から茶褐色の電光が降り注いでいる。もう充電の残量が少ないのか不安定にチラついていた。

 固めて置かれた四台の事務机の一つが妙な凹みをつけている。きっとボクが投げつけた傘立てのせいだろう。それを窓際で睥睨する木製のデスク、そしてボクが横たわる黄色いスポンジのはみ出したソファー。

 それらを順番に見回し、その中に存在していたものを無視して再び瞼を閉じた。

 自分の激しい息遣いを聞きながら心音に集中する。

 青く明滅する石の拍動を想像しているうちに緩やかに、けれど確実に安定した鼓動に戻っていく。循環する血液の流れを追いながら、身体の損傷具合を確認した。

 右頬は埋まっている。欠けていた歯も生えそろっている。残念ながら右の眼球は潰れたままだけれど、抉れた眼窩の骨は再生しているようだ。右腕や肩にも違和感が残っているけれど、もう痛みはないから動くはずだ。

 まったくボクの心臓の優秀さときたら、感動を通り越して畏怖すら覚える。

 埋め込まれている本人ですらそうなのだから、筋肉の心臓を持つ人間にすれば稀人なんておとぎ話に出てくる魔物みたいなものだろう。

 ボクはゆっくりと体を起こす。朝月のコートはすでにない。表面がかぴかぴになった錆色の毛布が腹の辺りでわだかまっていた。

「どんな夢を見てたの?」

 喉の奥でざらりと砂が噛んでいるような不思議な低音で、先程ボクが無視を決め込んだ女が言った。

 短いスカートや迷彩柄のタンクトップから筋肉質な手足を剥き出しにして、事務椅子の一脚にふんぞり返った彼女は興味深気にボクを観察していた。

「古い夢だよ」声はまだ掠れていた。「朝月といた、最後の日の夢」

「怖い夢?」

「……違うよ」

「なら、懐かしい?」

 ボクは女を見つめ返した。女は揶揄するわけでもなく、けれど真剣すぎるわけでもない不思議な微笑を浮かべている。

「ボクの首を絞めて、死なないだろうなんてバカなことを訊いたのは、あなただよね」

「ええ」女は悪びれた様子もなくあっさりと頷いた。「首を折っても死なないのよね?」

「知っているくせに」

「知らないわ。首を折る実験なんて、どこにも書いてないもの」

 言われてみれば、首を落とされた仲間は帰ってこなかったけれど、首を折られた奴はいなかったかもしれない。少なくとも、ヘレブの研究室ではいなかった。もっとも、ボクが知らないだけだという可能性はある。

「稀人について書かれた文献があるの?」

「少しだけね」

「たとえば?」

「稀人を殺すには、心臓を抜くしかない」

「朝月がきいたら鼻で笑うよ」

「あなたの感想は?」

 はっ、とボクは短く息を漏らす。それが答えだ。

「死なないと思ったのよ」

「朝月にきいてないの」

「ユエくんはヘレブ社に関して、とくにあなたにかんしては貝になるの」

「言えばいいのに。もうヘレブはないんだ、黙っている義務もない」

 女は眉を大きく上げて、わざとらしい驚きの表情を作った。

「なに?」

「いえ……そうね、ごめんなさい。稀人は生き返るときに言葉を含む全ての記憶を失っていると聞いていたから、あなたがこの比喩表現に反応できるとは思っていなかったの」

「口を噤むこと、でしょ? 朝月がたくさん本を貸してくれたから、公用語と彼の母国語なら読み書きだってある程度はできる」

「それは、ヘレブで生き返った全ての稀人に当てはまるのかしら?」

「朝月以外の誰かがボク以外の稀人にも同じように教育を施していたのなら可能性はあるね。そういう話はどの研究棟からも流れてこなかったけど」

 だからこそ、ヘカトンケイレスに漂う『彼ら』はボクと朝月の関係を誤解していたんだ。

「でもヘレブにいた仲間はみんな、一月もしないで喋れるようになっていたよ。きっと、頭じゃなくて身体が覚えているんだ」

 女は「そう」とため息のような相槌を打つと、ボクから目を逸らして事務椅子から立ち上がった。壁際のコーヒーメイカーからサーバーをとり上げる女の背中越しに、何時間も放置されてすっかりやる気をなくしたコーヒーが義務感だけで香りを立ち昇らせている。

「飲む?」

「飲めないよ。ボクらの体は、どういうわけかコーヒーを摂取すると再生速度が鈍るんだ。本当に朝月はなにも言っていないの?」

「ええ、アタシたちも訊かないわ」

「なら、どうして彼を仲間に入れているの?」

 女は僅かに唇を歪めた。答えてくれる気はなさそうだ。

「朝月は?」

「買い出しよ。ここにある食料だけじゃあなたの傷は治りきらないからって。献身的な介護ね」

「今、何時?」

「朝の六時ちょっと前だけど」女は唇を斜めにして目を眇めた。「エネルギー補給の方法については触れないのね」

 ライターに点る炎のように腹の底に仄かな怒りが湧いた。瞼を閉じて、長い息を吐くことで散らせる。

 女がなにを勘ぐって、どんな勘違いをしているのか、手に取るようにわかった。

「朝月の名誉のために説明してあげる。ボクらが死なないっていうのは誤解だよ。顔が吹き飛んだ状態で動けるのも怪我が治るのも、細胞が活動できるだけのエネルギーが身体の中にあるからだ。なにも食べていない状態で怪我を負った場合、まず身体は休眠状態に入って生命維持に必要な臓器以外はすべての活動を止める。怪我は治らない。そのまま放置すれば、臓器が働くのに必要なエネルギーすら使い果たして、死ぬ。朝月も含めて、ヘレブにいたボクらにとっては基本的な知識だよ」

「その言い訳は」

「真実」

「なら真実ってことにしておいてあげるけど、それはユエくんの名誉のためなの?」

「他になにがあるの?」

 女は首を傾げて笑った。ホタルが言葉を呑みこんだときにシュンが見せる仕草に似ていた。仕方ない子だなぁ、という表情だ。

「あなたはどうして自分のことをボクと言うの?」

「それ、さっきの話とつながってるの?」

「ええ、アタシの中では同じ話題よ」

 ボクは数秒黙る。理由を考えたわけじゃない。その後に続くであろう彼女との舌戦に備えて、攻撃と回避の文言をいくつか用意した。

「きっと最初に耳にした奴の言葉遣いを真似たんだと思うけど」

「男の人の言葉遣いよね? ユエくん?」

「まさか。朝月が入社するずっと前から、ボクはヘレブにいた。それに」ボクは短く息を漏らす。「一度死んだボクらには生産性がないから、男や女って認識はないよ。言葉遣いや所作に男女の違いを求めているのは人間だけだ」

「子供が産めないから性別を否定するなんて、世の男女に失礼だわ」

「人間の価値観を押し付けないでよ。それこそボクらに失礼だ」

「稀人に失礼なの? それともあなたに、失礼なの?」

「全ての関係性に男女の意味を付加しないでって言ってるの。朝月とボクに、失礼だ」

「稀人は恋をしないの?」

「……」

 真剣に、彼女の言葉が理解できなかった。静かに瞬きをして、必死に頭を働かせる。けれど、その不思議な質問を処理する前に女が言葉を続ける。

「稀人は誰かを好きになったりしないの? 好きな子に可愛く見られたいとか、似合う恰好をしてデートしたいとか、思わない?」

 ボクは完全に沈黙した。まったく別の世界からやってきた未知の生命体と話している気分だ。

 腹から毛布を退けて、裸足の足を床に下ろす。右腕の肘から先が少し痺れていた。ソファーの下で行儀よく待っていたワークブーツに両足を突っ込んで、血の乾いたパンツと腹に穴の開いたシャツのボタンを留め直して、立ち上がる。肩口を払うと、乾ききった血が粉になってぱらぱらと床に降り注いだ。

 ボクのお守りは――絵本の欠片はどこだろう?

「ケイ」と女がボクを呼ぶ。「あなた、女の子でしょ?」

「女の子ってほど幼い意識じゃないよ」

「ダメよ、ケイ」女は柔らかく湿った声を出した。「生きることを投げだしてはダメ。女の子であることを投げだすのもダメ。ユエくんが好きなんでしょ?」

「言ったよね? 勝手に男女の関係性を当てはめないでって」

「あなたが稀人だから、かしら? 人間であるユエくんとの距離がわからないから?」

「ゴシップのネタになるのは好きじゃないよ」

「いいえ、大事なことよ、ケイ。ゴシップじゃないわ。誰かを好きになれるうちは人でいられるの。あなたの中に流れている血がどんなものでも、恋をしている間は人間でしょう?」

 ため息をついて、仕方なくソファーに戻る。座り直してから、再び深くて長いため息をつく。

 物凄い疲労感が膝下から這い上がってきた。生命維持に支障はなくなったけれど、まだ行動と思考を両立できるほど回復していない。少しでも油断すると傷の修復に力をとられて眠ってしまいそうだった。

「それ」危うく漏れかけた欠伸の欠片を噛み潰す。「自分のことも含めて言ってるの?」

 束の間、女は思案顔になった。

 ボクが放った『自分』という言葉の示す人物を探っている様子だったから、親切なボクはコーヒーが満ちたマグカップを守る彼女の両腕を、丁寧に視線で示してあげる。

「その両腕には、稀人の血が流れている」

 女の反応は、予想よりも少なかった。僅かに頬が強張ったくらいで、表面的には無表情に言葉の続きを待っている。

「それは稀人の、女の腕だ。でも、他は違う。あなたの素体は人間の、男。違う?」

「違わないわ」

「じゃあ、どうして自分のことを『わたし』と言うの? どうして女の言葉遣いをして、スカートを穿いているの?」

 女はカップを握る自分の手を見下ろして、呻くように言った。

「わからないわ。気が付いたときにはもう、アタシの意識はどこか混濁した曖昧なものになっていたんだから。アタシが教えてほしいくらいよ」

「あなたの心臓は石じゃない」

「アタシの心臓が稀石なのか筋肉のままなのか、心臓を抉り出さなくてもわかるの?」

「あなたは、わからないの?」

 女は目を眇めて顎を引く。肯定したのかもしれない。

「あなたの身体は紛れもなくあなたのものだし、今の意識がおかしいとわかるあなたは、少なくともその腕をつける前のことを覚えている。自分を確定するものがそんなに残っているのに、なにが不安なの?」

「あなたは……不安にならないの?」

「ならないよ」即答する。「朝月からボクのコードを聞いたことは?」

「ないわ」

「確かに、ボクには生き返る前の記憶がない。でも、ヘレブの実験や外の世界に満ちる悪意で死んだことは覚えている。何度も死んで、その度に生き返った。ボクの心臓は、確かに石だ。だからこそ、不安なんて覚えない。儀大人に言わせると、ボクは完全な稀人らしい」

「完全な……?」女は悪夢を思い出す子供の眼でボクを見た。「ヘレブ社が造りだした稀人の中でも、そう呼ばれる固体は限られているわ」

「そう、たったの十二体だ。完全な稀人だという真実が、繰り返した死と再生の記憶自体が、ボクの存在を確実なものしている」

「ユエくんは、あなたをケイと」

「そう呼んでくれたのは朝月だけだった」

「『ケイ』は……母星で使われていた言葉の一つなの?」

「さあ? それは朝月に訊いてよ。ボクは知らない。でも、その名前の由来は知っている。ヘレブがボクに付けたコードからとったんだ」

 女はその答えを恐れるように自分の肩を抱いた。まるでヘカトンケイルに閉じ込められた恋人を見付けた女のような反応だ。

「ただの稀人は平気でも、コードを持つ存在は怖い? 怯えることなんてない。コードといっても、ただの識別番号だよ。十一番目ノーベンバー。つまり完全といってもボクは下から二番目の、ただの実験体だ。もはや儀大人の個人的な趣味といってもいい」

ウェイ・釈信シーシン、ヘレブ社、第三人体生命研究所、再生倫理室の責任者だった男ね」

 ボクは三秒間黙って考える。けれど、その情報が正しいのかなんて欠片も思い出せなかった。

「儀大人の名前も、そんなに長い研究室の名称も覚えてないよ。そもそも知らない」

「記憶力だけはよかったのよ」ふふ、と女は腕に笑いかけた。けれど、頬は引きつっている。「姉さんとは真逆だった。姉さんは身体を動かすことが好きで……」

 昔を懐かしむ声音だった。女は過去への逃避を諦めたようにボクを一瞥すると、崩れるようにデスクの椅子に深く腰掛ける。マグカップを口元まで持ち上げて、彼女はボクを視界から追い出した。

 きっとヘレブの悪夢から、そして現実から逃れたかったのだろう。

 窓の向こう、建物の隙間と灰色の雲を仰ぐ彼女の横顔を窺いながら、この女はなんと呼ばれていただろうと考える。

 朝月が、ボクの首を締め上げる女を呼んでいたはずだ。そう、確か。

「所長」

 女の椅子が軋んだ。でも、それ以上の反応も訂正も、正式な名乗りもなかった。

 なるほど、と納得する。

 ボクが稀人という枠に納まることでボク自身の存在を確定しているように、彼女も『所長』という枠でしか自分を見つけられないんだ。そういう人生において、名前というものはあまり役に立たない。

 ボクはそれ以上の追求を放棄して立ち上がる。絵本の欠片が見当たらないのは心残りだけれど、この組織には朝月がいるのだから破棄されたりはしないだろう。

「ボクはもう行くけど」

「行くって」所長は椅子を四分の一だけ回してボクを見た。その顔が困惑したように歪んでいる。「どこに? シュンくんとユエくんをどうするの?」

「あなたに、『解放の子供たち』に、関係があるの?」

「ないわ。でも」所長は穏やかに、けれど酷薄さの滲む唇を歪ませた。「せっかく再会できたユエくんを置いて行くの? シュンくんは彼と一緒よ。あの子を、稀人のあなたが身勝手に手を伸ばして連れてきた相手を捨てて行くの?」

 言われるまでもなく、その罪悪感は常に抱いている。

 あの子たちと出会う前にも、何度か人間の子供と関わりを持ち、その度に手放してきた。勝手なことをした、と思う。人間のふりも満足にできないくせに子供に手を伸べて、いざとなったら捨て去る。でも後悔したことはない。

「あなたたち人間が、それを望んでいるくせに」

「ええ、『解放の子供たち』は人間本位の集団だもの」

 ボクは言葉を探す。この残酷で賢しい生き物を黙らせるにはどうすればいいのか、微苦笑を消さないまま真剣に考える。詰る言葉や言い訳や、必要ならば懇願だっていくらでも思いつく。

 けれど、ボクが応じ方を決めるより早く、所長が再び口を開いた。

「シュンくんとユエくんを置いて行くの?」

「今の朝月は『解放の子供たち』だ。ボクがどこに行こうと彼にはもう、関係ない」

「ホタルちゃんを取り戻しに行くなら組織立った武力が必要よ。教会は稀人と関わった人間を、たとえ子供であっても見逃しはしない」

「まるで『解放の子供たち』なら見逃すように聞こえるね」

「ええ、少なくともアタシたちは稀人以外を傷付けたりはしない」

「アララト教会」

 所長の肩が目に見えて震えた。錆ついた三輪トラックのタイヤのように、ぎこちなく所長の視線が部屋の隅を彷徨う。釈明の見本を求めたのかもしれない。

 数秒して、所長は外へとつながる扉を睨むことにしたらしい。この話題を葬ってくれる誰かの来訪を期待したのだろう。

「『解放の子供たち』の名を世に知らしめた事件なのに、あなたはそれをなかったことにする気?」

「あれは……あの事件は、アタシたちとは別の支部が」

「人を襲ったのは『解放の子供たち』に殺されたのとは別の稀人だ」

 所長は完全に呼吸を止めて黙りこんだ。窒息寸前の顔色で唇を慄かせている。

「行くよ」ボクは囁き声で、彼女に止めを刺す。「あなたは稀人としても『解放の子供たち』としても、不完全だ。ボクがかかわる価値なんてない」

 死に体の所長を残して、ボクは部屋を出る。

 扉の軋みの中で彼女がなにかを言ったようにも思えたけれど、頼りない厚みの扉で遮られた空気の静寂さに解けていく。

 教えてあげればよかったかな、と一秒だけ部屋の内に置き去りにした所長の、憔悴した顔を思う。

 シュンを棄てる気はないよ。ボクらは多少の距離なんて問題にもせず再会できるんだから、って。


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